第38話 待ち人
細い街道を駆けていた一団。
開けた土地を見つけると声を掛け合い、ぐるりと輪を作りながら馬の脚を止めた。藍色の鎧甲冑を身に纏ったその騎馬隊は、関東の地では他に見かけないほどの精強さに満ちていた。
「お館様っっ!」
「ああ、影家。どうした」
柿崎影家が馬の手綱を引いて近寄ってきた。長尾家随一の武勇を誇る武者であるが、いかんせん口数の多い男だ。恐らく大した用ではないのだろう。
「いえ、大した用ではございませぬ。お館様がお怪我などされていないかと心配しまして」
「怪我などするものかよ」
完璧に決まった奇襲。反撃を殆ど受けないまま駆け抜けることができたのだ。落馬でもしなければ怪我などしようがない。
「いや!安心しました。それはもう見事に決まった騎馬駆けでございましたからな!某など着いていくのがやっとで!」
「何を言う。一番手柄は貴様だろうに。どうせ第一功の催促だろう」
「ははは!!」
あの猛将と噂に聞く黄色備え、北条綱成の首級を挙げた柿崎影家は笑った。十分どころの話ではない。これは今後の上野国平定を大きく左右するはず。
「それにしてもお館様の神眼、爺は恐ろしゅうて仕方ありませんな」
いつの間にか近寄っていた初老の男、宇佐美定満が景虎を褒め称えた。
そう、今回の行軍は全て景虎の独断だった。家臣たちにはどうにも腑に落ちない策であったものだから、普段は騎馬駆けなどしない定満も不安になり着いていくことにしたのだ。
「ああ、この形勢は視えていたからな。宇都宮が北条綱成を削りに削っている戦況が。我らはこれから上野国を平らげねばならん。北条の戦力を削ぐためなら少々の危険は呑まねばよ」
戦神・長尾景虎は先を視て、知っていた。全ての戦場が知れる訳ではないが、極稀に、ここぞという重要な戦場が天啓として視えてしまう。この戦いにどんな意義があるのか分からないが、恐らく重要なものであったはずだ。
そして同時に大きなリスクもあった。敵地である上野国東部を走り抜け、一足飛びに唐沢山城へ向かうというリスク。しかし天が我に見せたあの戦場で、大きな戦果を挙げることができた。それはもうお釣りが来るほどの。
「そうでありますな。綱成も討てました。残りは凡卒ばかりでしょう。一気に平らげてやりましょうや」
「ああ。この位置までくれば、却って僥倖。なに、このまま裏から北条家を食いちぎってやる」
「ははは!!滾ってまいりましたぞ!!」
「しかし....」
影家の笑いを遮った定満は、白みの混じった髭を擦りながら言葉を続けた。
「唐沢山城は獲らんで宜しかったのですか?」
「騎馬だけで唐沢山が落とせる訳なかろう。それに今は宇都宮家と敵対する理由もない。少なくとも今はな」
北条に敵対するなら今は味方。それで丁度良いと思っていた。報告によれば古河公方の長子を担いで北条派を締め出したと聞いた。なかなか気が利いている。恐らく、俺でもそうしただろうなと景虎は思った。
そんなことを考えていると、1人の兵が慌ただしく駆け寄り、跪いた。
「お館様!北進していく北条の輜重隊を物見が見つけたとのことです!」
「丁度いい。沼田に戻るついでに蹴散らして行くぞ。繁長を助けに行く」
「「「おう!!!」」」
長尾景虎の家臣たちは散っていき、兵たちに声を掛け始めた。休む間もなく連戦だ。それに暫くの間は各地を転戦しながら、北条家を掻き回さなければならない。
長い戦いになるなと思いながら、景虎は来た方向、もう殆ど見えなくなっている唐沢山を見て、にやりと笑った。
*****
流された鉄が固まる様子をジッと見つめる2つの瞳。
その目はどこか鉄を見ているようで見ていない、虚な瞳だった。考えごとが浮かんでは消え、消えては浮かぶ、そんな迷いに満ちた目だ。
「おい、雪」
声を掛けられたお雪は、ハッとした。周りはずっと静かだったものだから、突然の呼び掛けに心臓が止まるような思いだった。
「なんですか、兄様。驚かさないでください」
「驚かすも何も、いつまでそうしているんだ」
「いつまでとは.....?」
信芳は軽く溜め息を吐いた。自覚もないのなら尚更に重症だ。かれこれ一刻半はそうしていただろうに、何も覚えてないとは。
「身に入っとらんと言っているんだ」
「身に.....?」
お雪は周りを見渡すと、もう誰も居ない。ときは既に夕方に差し掛かり、皆仕事をあがっていたようだ。目を落とすと鉄はとっくに冷えており、ずいぶん時間が経っていたことを示していた。
「あ......」
「何の報せもないということは、伊勢寿丸様は大丈夫だ。心配するな」
伊勢寿丸という単語を聞いてドキッとする。考えていたことを言い当てられて言葉が出なくなる。そう、自分は兄上様のことを考えていたのだと、我に返るくらいに呆けていた。
「妙なことを考えるなよ」
「妙とは.....」
「まったく。自覚が無いならそれで良いが、なおさら仕事に集中しろ。俺は夕食に行くぞ。早く戻れよ」
信芳はそう言うと、工具を雑に放り投げて去っていった。その後ろ姿は、何やら背中で訴えているようでもあった。
確かに考えていたのは伊勢寿丸のこと。1年以上も城を空けて、ずいぶん長い間会っていない。まだ8歳だと言うのに戦場に籠るなど、それはもう胸がはち切れんばかりに心配であったことは事実だ。
しょうがないじゃない、武家なんだから。
自分にそう言い聞かせるが、それでも収まらない。胸が苦しい。眠れない夜も一度や二度では無い。何が原因であるか、薄々気がついてはいるが、口に出すのも憚れる。10歳も離れているのだからと無理やりに気持ちを押し込める日々。
私に求められているのは姉や母の役割。そして工業の責任者。
悪いのは兄上様。ろくに帰ってこず、心配を掛けて。
やっぱりお仕置きが必要かしらね。
最後にそう思考を逸らして、お雪は考えるのをやめた。冷え固まった鏃を取り出し、籠に放り込む。立ち上がって着物を叩いた。
「兄様、待って!!」
信芳の言うとおり、自分の病は重い。根源治療ができなければ、対処治療しかないのだ。考えない、それは待つ人々にとって唯一の薬であった。





