第36話 後詰め
1552年1月1日
年が明けた。大変な1年だった。思い返せば年初から年末までずっと戦だ。高定から小言がびっしり書かれた書状が届いた。なぜ戦場に出てるのかと大層お怒りだ。早く勝って帰りたい。高定の顔を久しぶりに見たい。
1552年2月25日
山道の雪も溶け、北条綱成の攻め手が始まった。冬の間、少しだけ資材の備蓄は増えたが、心許ない状況は変わっていない。史実通り、上杉憲正は北条家に負けてくれただろうか。粘らないで欲しい。さっさと負けてくれないと俺が困る。
1552年3月12日
死傷者が増えてきたからか北条軍の攻め手が緩くなってきた。ここぞとばかりに俺も必死に頭を使って対抗した。全く意味の成さない文字列の文書を作り、北条家の手に渡るように仕向けた。混乱して欲しかったが、全く効果が無いようだった。もう虚策にはハマってくれなさそうだ。
1552年4月1日
恐れていた北条軍の後詰めが来てしまった。
その数は6000ほど。北条綱成の軍を削りに削り、ようやくもう一息というくらいに減らせたと言うのにだ。一気に腰から力が抜けた。誰かエイプリルフールだと言ってくれ。もう撒菱も虎挟も、弓矢すらも底を尽きかけている。
あとたった3ヶ月だったのに。
3ヶ月後の7月には長尾景虎が北条領に侵攻し、形勢が変わっていたというのに......。
*****
「いよいよ厳しいですな」
佐野泰綱が平野を見下ろして呟いた。いつもの覇気のある声ではない。彼もまた、長い戦いの末に疲労が溜まっているのだ。その声は静かで、どこか覚悟を決めたようにも思える。
しかし俺たちはよく頑張った方だ。ただ籠城していた訳ではない。此方の兵をほぼ損じることなく、猛将・北条綱成の兵を削りながら戦っていたのだから。
「そろそろ大砲を使おう」
「宜しいので?あれは宇都宮家の切り札なのではありませんか?」
伝家の宝刀は抜いてはならんとよく言う。使ったら終わり。死線ギリギリまで使うべきではない。今は引き、皆川城、小山城、宇都宮城で使うべきなのではと泰綱は言っていた。
「唐沢山城は関東の蓋だ。ここを抜かれれば全てが水の泡。であれば、俺はここでこれを使う」
大軍の将としては誤った判断だろう。大砲だけで3ヶ月も戦線を維持できる可能性は低い。相手が狼狽えてくれればあるいは.....。
「.......分かり申した。ですが若様はここが落ちる前にお逃げくだされ。我らで最後まで戦いまする」
死兵になれと俺が命じたことを、やり遂げようというのだろう。そう言った泰綱の眼光は鋭かった。男の覚悟に俺が言葉を返せずに居ると、泰綱は家臣たちに指示を飛ばし始めた。
「おい、お前ら!!!ここからが踏ん張りどころだ!!攻め手が来ない間に、落ちてる矢でも石でもなんでもいい!掻き集めてこい!!!」
「「「おう!!!」」」
散っていく家臣たちに声を掛けながら、泰綱も大手門の方に向かっていく。俺はただそれを見ているだけしかなかった。
*****
ドオオンッッッッッ!!!!!!
大手門の前で木砲が爆発音を轟かせると、先頭に居た北条軍の兵たちが盛大に吹っ飛んだ。恐慌状態に陥ったところで、伊王野と糟谷が突っ込み、敵を仕留めていく。
雲丹や撒菱とは全く異なる、防ぎようのない圧倒的な武力は、後詰めを得て勢いのついた北条軍をも押し返すことができた。
「勝ち鬨をあげよ!!我が軍の勝利だ!!えいえい!」
「「「おう!!」」」
戦が始まってから半年以上、このやりとりを何度繰り返しただろうか。もう何度目の勝ち鬨か覚えていない。砂のような味の勝ち鬨だ。
それは大砲を撃っても変わらなかった。一日一日を勝利しても、最後に勝つ姿が思い浮かばなくなっていたのだ。
それから幾日か経つと大砲の火薬も底を尽き、ついには両軍押し合いとなる原始的な籠城戦が始まった。
すると、今まで死者なく戦えたことが嘘のように、我が軍に死傷者が出始めた。
「伊王野様、負傷しました!守備隊、引いております!!」
「石を投げて応戦しろ!!!大手門を守れ!!」
「もう少しで陽が落ちるぞ!!踏ん張れ!!!」
怒号が飛び交う中、俺は何もできずただ立ち尽くすしかなかった。敵方が大手門に肉薄しているであろう怒声が、二の丸.....いや、一の丸まで聞こえてくる。
これは負けたと思った。
「若様、お逃げくだされ。今が最後の機会かと思いまする」
「.............」
「伊勢寿丸殿、私が皆川領までお連れしますゆえ」
「.............」
「若様、倅だけは勘弁してください。若様をお守りする者も必要でありますれば。どうか」
「.............」
「若様、しっかりしてくだされ....関東に、関東に平和を築かれるのでしょうがっっ!!!」
佐野親子の呼びかけが胸を抉る。掴まれた肩がずしりと重い。
歴史を都合よく解釈し、安易な考えで死兵を作ってしまったことに、後悔の念が押し寄せてくる。いや、ここ暫くはずっとその罪の意識に苛まれていた。
申し訳ない。本当に申し訳ない。負けてしまってはこの戦い、何の意味もない。
俺は抜け殻のように脱力し、
もう一刻ほどで西に沈もうとしている太陽を眺めていた。
太陽に照らされる北条綱成の陣。
毎日毎日、何度も眺めた敵陣だ。
もはや景色の一部となって、何の感情も湧いてこない。
するとふと、少し北のはずれ。
緑が生い茂る森のなかに何かが見えた。
森の切れ間から、見え隠れする何かが。
「若様っっ!!」
「伊勢寿丸殿っっ!!」
あれはなんだ.....?
俺はそれを、目で追いかけることに夢中になっていた。
佐野親子の声はもう俺の耳に届いていない。
森を抜け、見えてきたのは凄まじいスピードで駆ける馬。
続々と森から飛び出してくる馬たち。
想像以上の規模の.....騎馬隊だ。
どうせ北条の後詰めに違いない。
そう思いながら凝視していると、一字旗が見えた。
まさか.....あり得ない。
あの軍が今、ここに居るはずがない。目の錯覚か?
あいつはまだ、上野国にすら侵攻していないはずなのに。
援軍だって頼んじゃいない。
どこで歴史が変わった?
誰が変えたんだ?
襲いかかる疑問の嵐に、口の中が急速に渇いていく。
ようやく一字旗に、毘の文字が見えた。
戸惑いが確信に変わり、全身が跳ねたように震える。
俺は思わず叫んだ。
「きっ、来た!!!毘沙門天が来たっっ!!!!!」
関東見取図





