盗人の皮袋(後編)
息巻いたのはいいものの、俺は打開策を見つけられずにやられっぱなしだった。
相手は直接触れずに俺を攻撃できる。その上、音による攻撃は防ぎようがない。
「ホラホラオドッテチャラチガアカナイゼ!」
指先で胸を二度突かれただけで、意識が朦朧として舟の艫に手をついた。視線の先では道化の像が幾重にもぶれている。
「アキラメルナラ、ユルシヤッテモイイヨ。アノコドモガ、サイユウセンナンダカラ」
てっきり、ヒロコを連れ戻しに来たと思い込んでいた。イリスは病気だが、一冒険者に過ぎないし、国から刺客を送られるような事をしたのだろうか。
俺の拳は空を切る。やはり直線的な動きは通用しないし、こいつは俺の心を読んでいる。というより、心音を聞き取って備えているに過ぎないと思った。
「ははは……」
「オカシクモナイノニワラウナヨ」
確かに俺は心の底では笑っていない。だがこいつは俺の考えを正確に読めているわけではなさそうである。
「イリス、俺はもう駄目だ。お前もヒロコも守ってやれそうにない。すまん」
俺はなるたけ哀れに見えるように、ずるずると腰を下ろした。イリスはめちゃくちゃに暴れて舟を揺さぶっていた。それに呼応するようにピエロが哄笑する。
「コシヌケガ! ヤハリアネサンニ、オマエハヒツヨウナイ! ココデシマツスル!」
歓喜に湧きながら飛びかかってくる。予想通り。
「……ヌグッ!」
舟に立てかけておいた櫂が跳ね上がり、道化の顔面に正確にぶつかる。奴からしたら不如意な間で飛んできたように見えただろう。しかしその程度では仮面を割ることすらできずに振り払われてしまう。
俺の体は櫂と連動するように速度を増し、道化に急接近した。道化が払った力の分だけ反動がつく、マジックテープの効果だ。
俺の右拳がピエロの脇腹にヒットする。電気がはじけるような音を立て、衣装がちぎれた。だが、必死の攻めは、拳一つ分の穴が開いたに過ぎなかった。俺は恐怖に支配されたように腕を下ろした。
「あ、あ……」
俺の反撃策は失敗したかに見えた。このピエロは相当固い。あるいは俺の目測が狂って上手くヒットしなかったのか。
ピエロは俺を傲然と見下ろし、勝利を確信したように叫ぶ。
「ゼツボウノオト! ザンネンダッタナ。ギャクテンデキズニシンデユケ!」
ピエロは片足を上げ、蹴りを放とうとしたもののその体勢のまま固まった。そしてよろよろと振り子のように左右に揺れた後、後ろに倒れた。手を中空に伸ばし、あえぐ。
「イテエイテエ……、ナニガ……」
道化が脇腹に手を触れると、血がべっとりとついており、白い衣装の部分が赤く染まっているのが俺の目に捉えられた。
俺の背後では立ち膝のまま両手で銃を構えるヒロコの勇姿がある。耳は使いものにならなくて、銃声は聞こえなかったが、どうやら俺の作った装甲の穴に、止めの一発を放ってくれたみたいだった。
「テ、テメエ……、ダマシヤガッタ、ナ。オウジョガウツナンテ、キイテネエゾ」
「俺が撃つなんて一言も言ってねえだろ。バーカ」
俺は舌を出し、瀕死の道化を見下ろす。
わざと弱気な態度で攻撃を誘い、同時にイリスを泣かせることで、ヒロコの心音が漏れるのを防いだ。道化がわかるのは俺一人の音だけかもしれないが、万全を期す必要があった。ヒロコが目覚めているのはだいぶ前に気づいていたが、攻撃のタイミングを合わせられるかひやひやした。
「もっと早く動きを封じろ。馬鹿が」
よく聞きとれなかったが、おおよそそのようなことを王女はおっしゃられた。
道化は苦しげに身悶えしている。当たりどころが悪ければ死ぬかもしれない。本意ではないし、眺めたくもない光景だ。
「此の期に及んでまだ敵に情けをかける。大した男だ」
ヒロコが俺の耳に触れながらちくりと釘を刺してくる。
「でもあれランカちゃんの仲間かもしれないし」
「お前は、僕と他の女を天秤にかけるつもりか」
両耳を引きちぎられんばかりに掴まれ、俺は萎縮した。
「ランカ=リーの仲間なら後から助けが来るだろう。それともそれを待っているのか?」
本当に直接的な女だ。容赦がない。こいつには嘘がつけない。
「違わなくもない」
ヒロコはぱっと手を離し、身を翻した。
「それなら、いつまでもそこにいるがいい。イリス、行こう」
ヒロコは櫂を拾い、小舟に腰を下ろした。俺は慌てて川に小舟を押し乗り込んだ。このアマ、俺の体を気遣う素振りもない。
「タロ、耳から血出てる」
小舟が動き出してすぐ、イリスが俺の身を案じた。
「見た目ほどひどくないよ。それに血も止まってるし」
耳は相当遠くなっているが、聞き取れないほどじゃない。水が跳ねる音がどうにか鼓膜を震えさせる。
内部はひどくなってるかもしれないが、確認する時間も術もない。今更、村に戻るわけにもいかないし、進むしかない。
ヒロコは懸命に櫂を漕いでいるが、水を切る勢いは弱い。山肌が見える頃には日が暮れるだろう。
「げほっ……」
ヒロコがせき込み、手から櫂が離れる。水中に没する前に俺が回収する。
「代わるよ。後ろを見ててくれ」
「必要ない……、まだやれる」
ヒロコは意固地になって櫂を両手で掴む。無理に櫂を奪おうとすると、ヒロコがまた咳をした。これまでとは違う命を根こそぎ口から外に出してしまうような不吉な咳だった。
小舟の底に、赤い液体がまき散らされた。ヒロコの口から出たものとは信じられず、俺は体を折って胸を押さえるヒロコに何もしてやれなかった。




