親子
「そろそろいいか」
熱を失った声でそう言うと、ヒロコは俺の顔から額を離した。
俺の汗がヒロコの顔に確実についたと思うと、申し訳なくなる。くっついてる間はずっと目を閉じていた。もし目があったら、考えてることを見透かされそうで怖かった。
「汗、すごいぞ」
ヒロコが白いハンカチで俺の顔を拭いてくれる。かつてイリスにしていたみたいに親密な手つきだ。
「見られている。気づいたか?」
拭いてもらっている間も汗が出る。
ヒロコの意図することに俺は遅まきに気づく。急に動けば怪しまれるからヒロコの足下にしゃがんだ。
「叔父上の差し金だろう。厄介なことだ」
ヒロコは逆に腹が決まったとばかりに、腕を大きく伸ばした。俺は神経が図太くないから縮こまってしまう。
「し、刺客が近くにいるのか? いつから」
「気配を感じたのは、五日前だ。叔父上にしては遅いくらいだから自信はなかったが、今ので確信した。大した手合いではあるまい。お前には丁度いいかもな」
ヒロコは俺の肩を軽く叩いた。上司が部下を鼓舞する感じ。たぶん。
俺はここ数日、ヒロコのご機嫌伺いとイリスの世話に苦心していたから刺客に全然気づかなかった。
ヒロコは刺客の事も、体の事も忘れたように、確かな足取りで家に戻っていった。
重荷を取り去ったヒロコとは逆に、俺の悩みは増えた。追ってくるのがランカちゃんではないかと疑い出したのだ。
こういう任務にお誂え向きの人間に心当たりがある。ヒロコとイリスの奪還。そして俺はどうなる?
考えても無駄だ。そうなってみないことには。
家に戻ると、イリスが椅子に座って絵本を膝に乗せている。ヒロコと目が合うと、台所の方に走って棚と壁の間に身を隠す。
ヒロコはイリスの元に近づいて抱きしめた。
俺が気を回す必要はもうなさそうなので、旅支度を始めた。無理矢理王都から連れ出されたため、俺の私物はほとんどない。イリスの服をリュックに詰めて、簡単な掃除をすると時間はあっという間に過ぎていく。
「ヒロコ、村長に挨拶しないと」
「そうだな」
三人で村長さんの家に出向く。ノーラは不在のようだ。
村長と奥さんは俺たちの急の出立を驚き、そして心配してくれた。
「そうか、行きなさるか。儂は行ったことがないが、タマさんの住むところは厳しい所らしいね。本当に大丈夫かね」
「僕は幼い頃に行ったことがありますのでご心配には及びません。それよりこの村もだいぶ人が減りましたね」
ヒロコの指摘に村長は寂しげに戸外を見渡した。
「やはりこの間の火事が堪えたようだ。戦争のことも気になるし、儂等親子も近々ハテナイに向かう予定だよ。ハテナイは我々を迎えてくれるだろうか」
「勿論です。我々は家族も同然ですから」
ヒロコの大げさとも取れる言葉に奥さんは涙を流し、村長は目尻にしわを刻んだ。
「それを聞いて安心しました。貴女の言葉には信がある。身に余る光栄ですじゃ」
二人はヒロコの手を取り頭を垂れた。イリスはその理由がわからず、訊ねるように俺を見上げている。
恐らくこの二人はヒロコが王女だと気づいている。年輩の二人がヒロコの顔を知っていても不思議じゃない。
帰り際、俺だけに村長が話があると引き留めた。
「ノーラから聞いたよ。貴方が命の恩人だとね」
「いや、俺は何もしてませんよ。そして何も見なかった。それでいいじゃないですか」
俺の謎かけみたいな答えに、村長は気分を害したように顔を赤らめた。
「ノーラのことだけじゃない。貴方が立ち回ってくれたおかげで死傷者が出なかったことも知っておるのだ。礼ぐらい言わせてもらっても罰はあたらんだろ。ん?」
「いや、本当に知らないんですよ。けが人が出なかったのは良かったです」
「うん。誉められたら素直に誇るもんだ」
生まれ育った環境もあるだろうけど、俺はあまり自分の手柄を自慢したい方じゃない。日本人に典型の資質なのかもしれない。謙虚か卑屈かわからんけど。
「ノーラにも挨拶させたかったが、残念だ。娘の不始末。儂の方から謝罪させて欲しい。この通りだ」
ノーラと村長夫妻に血のつながりはないそうだ。それでも彼らは親子なんだろう。俺たちもこうなりたいと思った。
「顔、上げてください。俺は何も見なかったって言ってるじゃないですか。ノーラに別れの挨拶したいです。毒饅頭食わされたお礼しなくちゃ」
村長は苦笑いをしながら、ノーラは近所の引っ越しを手伝っていると教えてくれた。
その後、村を一通り見て回ったが、ノーラの姿は見あたらない。あきらめて俺らの家に戻ると、裏手にノーラの姿があった。井戸から水を汲み上げている所だった。
「何してんだ、こんな所で」
ノーラはゆっくりと振り返り、水をたくさん入れた桶を足下に置いた。
「出発だって聞いてね。手伝いに来たんですよ」
入れ違いだったのか。どうりで会えないはずだ。
「荷物そんなにないし、平気だよ」
「あらら、信用ないですね。自業自得ですけど」
風が吹き、俺は木の枝にすばやく目を向けた。過剰に驚いているように見えただろう。刺客のことが頭をよぎったのだ。
「どうかしました?」
「いや、別に」
やはり早めに出発した方が得策みたいだ。ノーラたちを巻き込んで戦うわけにはいかない。村が掃けてるのも半分は俺のせいみたいなものだし。
「それならいいんですけど。最後になるだろうから訊きたいことが。いいですか?」
「何?」
ノーラはずっと浮き足だったようだったから、俺の焦りには気づかないらしい。ここまで他人の気持ちに鈍感になれるのも羨ましいよ。
「あのイリスって子、貴方とヒロコさんの子供なんですか?」
ノーラの質問は予想通りで俺は吹き出してしまった。
「何ですか。感じ悪いな」
「いやだって……」
やっぱり親子なんだな。
俺は数十分前に村長に同じことを訊かれたことを思い出していた。
「あの子はまさか王女の……、儂等は何も見なかった。そういうことにしておくよ」
その時、俺は否定も肯定もしなかった。真実であり嘘でもあったから。
「まあ俺が親であるのは確かだな」
「ふーん。やるんですのね。見直したわ」
ノーラは侯爵令嬢のような上から目線で感心しながら俺の肩を叩いてくる。うぜえ。
「それはそうと、あれはどうされるんです? お父さんが訊いてこいって」
ノーラが指さした先に布がかけられたジープがある。どうにも故障しているらしく、部品もないから修理もできないらしい。
「ここに置いて行きたいけど駄目だよな。ヒロコの大事なものみたいなんだ」
「いいわよ」
ノーラはあっさり俺の頼みを聞いてくれた。もちろんこれまでの経緯から鵜呑みにするわけにはいかない。
「俺たちがいなくなった途端、ジープを分解して売り払うとか……」
「しないしない! そんな技術がある人がいるなら、今頃修理してますよ」
躊躇なく疑いの目を向ける俺をノーラは穏やかにたしなめ、苦労を厭わない姿勢を示す。
「なんてたって私たちは村長家族ですから。最後に村を発つって決めてるのよ。任せて」
どういう心境の変化だろう。いずれにしろ川を渡るにはジープは邪魔になる。川を渡った後は山を登るらしいし、ノーラをどこまで信じるべきか。
「僕はそれで構わないが」
家の裏口からイリスを抱いたヒロコがやってきた。イリスはノーラを敵意のこもった目でにらんでいる。
「あれは母の形見だが、今はそれよりも大事な目的がある。先に進もう」
「さっすがヒロコさん。話がわかるぅ」
にこやかなのはノーラだけで、空気はしんしんと冷えている。ヒロコは念を押すように握手を求めた。
「くれぐれも宜しく頼む」
「も、もちろんですとも。お早いご帰還を願いますわ」
二人は顔を見合わせたまま握手をしていたが、ヒロコが不要な力を込めるのでノーラは玉の汗を浮かべて顔を歪めっぱなしだった。あれなら妙な真似はできないだろう。




