断れなかった理由
「吉野君の机、最後まで片づけなかったでしょ」
水城の言葉に、扉へかけていた手が止まった。
去年の秋、吉野は学校へ来なくなった。
噂の内容を信じていないと言いながら、クラスの連中は少しずつ彼の机から離れた。
俺も同じだった。
否定もせず、確かめもせず、ただ巻き込まれない場所から見ていた。
「片づけなかったのは先生だろ」
「先生が後ろへ運ぼうとしたとき、久世君が止めたって聞いた」
「戻ってくるかもしれなかったから」
「毎朝、机の埃も払ってた」
「窓際で目立っただけだ」
水城は否定しなかった。
慰めるような顔もしない。ただ、俺がどう答えるかを待っている。
その視線が少し嫌だった。
机を残したことに意味があったように扱われると、何もしなかった自分まで許される気がしたからだ。
「だから俺を選んだ?」
「それだけじゃない」
水城は指を一本ずつ折った。
「久世君は噂を見ても笑わなかった。クラスのことをほとんどSNSに書かない。私の友達ともつながりが少ないから、秘密で付き合ってたと言っても不自然じゃない」
「……よく見てるな」
「人を見るのは得意だから」
「それで、断らなそうだった」
水城の指が止まった。
目が一瞬だけ泳ぎ、やがて小さくうなずく。
「……うん」
「そこは否定しないんだな」
「否定したら、もっと失礼だから」
声が少し弱くなった。
正解を選んでいるというより、もう取り繕う余裕がなくなっている。
「困っている人を、完全には見捨てられないと思った。だから私が本気で頼めば、最後には残ってくれるって……」
「信頼じゃなくて、利用だろ」
「両方」
即答だった。
「秘密を広めない人だとは思ってた。でも、断れない人だとも思ってた」
教室で投稿を見たあと、水城が黙っていた三秒。
彼女の説明どおりなら、その短い時間に俺を選び、嘘を利用すると決めたことになる。
筋は通っている。
けれど、筋が通ることと、納得できることは別だった。
「……やっぱり無理だ」
扉へ向き直る。
今度こそ帰るつもりだった。
「分かった」
背中へ届いた声は静かだった。
引き止められると思っていたから、逆に足が止まる。
「教室で訂正する。久世君には、私に話を合わせるよう脅されたって言ってもらっていい」
「自分だけ悪者になるつもりか?」
「嘘をついたのは私だから」
「美緒の件はどうする」
「一人で調べる」
迷いのない答えだった。
その瞬間、吉野の机が頭に浮かんだ。
また、誰かが一人でいなくなるのを見ているだけなのか。
水城を信用したわけではない。
むしろ今の俺は、彼女を勝手で計算高いと思っている。
それでも、一人で行かせて失敗したあと、何もしなかった自分をまた正当化するのは嫌だった。
「候補の四人を教えて」
「……え?」
「協力すると決めたわけじゃない。まず話を聞く」
水城の目が見開かれる。
「本当に?」
「話を聞くだけだ」
すぐに笑おうとして、水城は途中でやめた。
嬉しいのを隠すより、下手に整えない方を選んだのかもしれない。
「条件がある」
「うん。何でも聞く」
「勝手に俺の名前を使わない。一人で予定を変えない。疑ったときは、決めつける前に俺へ聞く」
「分かった」
「期限も決める。文化祭までだ」
「文化祭まで?」
「終わりがないと、水城はずっと続けるだろ」
「そんなこと――」
水城は反射的に否定しかけ、口を閉じた。
「……するかもしれない」
「だろ」
少し考えたあと、水城はうなずいた。
「文化祭の閉会式まで。そこで全部終わらせる」
「その後は、ただのクラスメートに戻る」
「元に戻るんだね……」
その言い方が、わずかに寂しそうに聞こえた。
昨日まで他人同然だったのに、何を惜しむのか。
そう思ったのに、俺もすぐには返せなかった。
「昨日まで、そうだっただろ」
「……うん。そうだね」
水城は机の紙を裏返し、四本の線を引いた。
「久世君」
「何」
「ありがとう」
「まだ早いだろ」
「じゃあ、終わったときにもう一回言う」
「ちゃんと終わったらな」
「終わらせるよ。絶対に」
その言葉だけは、強かった。
文化祭まで。
存在しない交際の続きを作りながら、誰が嘘を広めているのかを探す。
終われば、また他人に戻る。
その条件で、俺は水城の向かいへ椅子を引いた。
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