付き合っていない彼女と、別れた朝
俺は、付き合ったことのない女子と、去年のクリスマスイブに別れていたらしい。
「久世、お前、水城と付き合ってたの?」
二学期が始まって三日目。
教室に入った途端、前の席の長谷川航平がスマホを突き出してきた。
「付き合ってない」
「反応早いな」
「事実だからな」
「じゃあ、これ何?」
画面には、青嶺高校の生徒なら大半が知っている匿名アカウントが映っていた。
通称、青嶺裏掲示板。
最初は、体育教師の口癖や購買の新商品を面白半分に紹介するだけだった。けれど、フォロワーが増えてから内容が変わった。
誰が誰に告白した。
どのカップルが別れた。
どの部活で揉め事が起きている。
本当の話もあれば、嘘もある。
厄介なのは、その二つが同じ調子で書かれることだった。
今朝六時十二分の投稿には、こうあった。
『二年三組の久世直と水城志乃は、昨年六月二十日から十二月二十四日まで秘密で交際していた。別れた原因は久世側にあるらしい』
「久世側に何があったんだよ」
「何もない。付き合ってすらいない」
「浮気?」
「人の話を聞け」
長谷川が笑う。
周りも、聞いていないふりをしながらこっちを見ていた。
「半年も隠してたの?」
「水城さんに彼氏いたんだ」
「久世君と接点あったっけ?」
ない。
水城志乃とは今年初めて同じクラスになった。まともに話した回数は、片手の指で足りる。
四月にプリントを回したときの「ありがとう」。
六月の掃除当番での「お願い」。
先週、廊下ですれ違ったときの「ごめん」。
最後の一つは会話に数えなくてもいい。
「否定した方がよくない?」
近くにいた女子が言った。
「水城さんにも迷惑でしょ」
「そうする」
スマホを取り出す。
事実ではありません。水城さんとは付き合っていません。
それだけ書けばいい。
入力しかけたところで、教室のざわめきが急に止まった。
入り口に、水城志乃が立っていた。
肩より少し長い黒髪。夏服の白いシャツ。前髪の左側には、細い銀色のピン。
誰もが息を呑むような派手な美少女ではない。けれど、水城が教室に入ると、自然に人の目が集まる。
先生に頼られ、女子から相談され、男子のつまらない冗談にも上手に笑う。
輪の中心に立とうとはしないのに、気づけば人が周りにいる。
俺とは、ずいぶん遠いところにいる人間だった。
「志乃、これ見た?」
友達がスマホを差し出す。
水城の表情は、ほとんど変わらなかった。
ただ、画面を持つ指が一瞬だけ止まった。
知らなかった反応だ。
「水城」
名前を呼ぶと、教室中の視線がこっちへ向いた。
水城も俺を見る。
正面から目が合うのは、たぶん初めてだった。
「この投稿、今知ったんだよな」
彼女がうなずけば終わる。
俺たちは付き合っていない。誰かが流した、くだらない嘘だ。
水城は答えなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
長すぎる沈黙だった。
彼女の視線が、俺の肩越しに教室の後ろへ向く。誰かを探したように見えた。
そして、水城は友達にスマホを返した。
「ううん」
小さく息を吸う。
「付き合ってたよ」
教室が静まり返った。
次の瞬間、声が爆発した。
「本当に?」
「いつから?」
「なんで隠してたの?」
「久世と?」
「最後の一言いる?」
俺だけが、その場に取り残されていた。
水城は、騒ぐクラスメイトに困ったような笑顔を向ける。
「もう別れてるから。そんなに騒がないで」
「どっちから振ったの?」
「それは秘密」
「久世が何かしたんでしょ?」
「直を責めないであげて」
また教室が沸いた。
俺は今、生まれて初めて水城に下の名前を呼ばれた。
しかも、付き合ったことのない元恋人として。
「水城」
自分でも分かるくらい、声が低くなった。
彼女はこちらを向いた。
笑っている。少なくとも、周りからはそう見える。
けれど、机の横に下ろした左手が、スカートの布を強く握っていた。
「ごめんね、直」
呼び慣れているような声だった。
「今は、あまり聞かないで」
まるで、俺たちの間に誰にも話せない半年間があったみたいに。
まるで、クリスマスイブの別れが今も傷として残っているみたいに。
否定するべきだった。
今すぐ全部嘘だと言うべきだった。
けれど、水城の目に一瞬だけ浮かんだものを見て、言葉が止まった。
助けを求める目ではない。
後戻りできない場所まで、自分から踏み込んでしまった人間の目だった。
その直後、担任が教室に入ってきた。
「朝から元気だな。席に着け」
騒ぎは形だけ収まった。
俺は席に座る。
前から、小さく折られた紙が飛んできた。
『お前、何したの?』
紙を丸め、長谷川の後頭部に投げ返す。
窓側を見る。
水城は黒板を向いていた。
いつもと変わらない、感じのいい優等生の横顔。
ただ、シャーペンを持つ指先だけが、かすかに震えていた。
昼休み、机の中に一枚の紙が入っていた。
『放課後、特別棟四階の第二音楽室へ来てください』
名前はなかった。
それでも、誰が書いたのかは分かった。
付き合ったことのない彼女と別れた朝。
放課後、俺はその元カノから呼び出された。




