旦那様の本音
領地視察の日が決まってからというものリリアーナは、そわそわしていた。
──外へ出るの、久しぶりだわ……!
しかも旦那様と一緒。
それが何より嬉しい。
旦那様は私に最高の生活をさせてくれている。
私も何かお返しができると良いのだけれど……。
朝から落ち着かず、服を何度も見直してしまう。
公爵家の視察ってどんな装いすれば良いのかしら。
旦那様の恥にならないようにしなくては。
「奥様、とてもお似合いですよ」
侍女にそう言われ、少し照れながら鏡を見る。
普段より少しだけ外出向けの装い。
けれど派手すぎない。
動きやすく、柔らかな色合い。
「……大丈夫かしら」
「閣下が大変喜ばれます」
なぜみんなそんなに確信があるのだろう。
◇◇◇
屋敷前には既に馬車が用意されていた。
そして。
「……っ」
リリアーナは思わず足を止める。
アルヴェインが外套姿で待っていた。
普段の礼装とは違う、視察用の装い。
それでも恐ろしいほど格好いい。
長身で、整った顔立ちで。
朝の光が銀灰色の髪に落ちている。
「どうした」
「い、いえ……」
見惚れていたなんて言えない。
アルヴェインは少しだけ首を傾げたあと、自然に手を差し出した。
「足元に気をつけて」
その仕草があまりにも自然で、リリアーナはまた心臓が忙しくなる。
◇◇◇
馬車の中。
向かい合うには近すぎる距離。
リリアーナは少し緊張していた。
アルヴェインは平然として見える。
けれど実際には、彼もかなり落ち着かなかった。
妻が近い。
しかも今日は外出用の装いで、普段よりさらに可愛い。
視界に入るたび心臓に悪い。
そんなことを知らないリリアーナは、ふと尋ねる。
「旦那様、お仕事は大丈夫なのですか?」
「問題ない」
アルヴェインは答える。
「最近は落ち着いている」
「でも、いつも遅くまで働いていらっしゃいますよね?」
その言葉に、アルヴェインは少し黙った。
そして静かに言う。
「……家に私がいると、君が心から穏やかに暮らせないだろう」
「え?」
「急に婚約を申し入れて、結婚して。十も年上の男がずっと近くにいては気疲れするかもしれない」
リリアーナは目を瞬かせる。
「だから私のことは気にせず、本でも読んで自由に暮らしてほしい」
本気でそう思っていたのだろう。
その声音は穏やかだった。
けれどリリアーナは、なんだか胸がきゅっとした。
「……でも」
小さく口を開く。
「旦那様が働き詰めなのは心配です」
アルヴェインがわずかに目を見開く。
「公爵家は旦那様のお家なのですから、もっと帰ってきてください」
リリアーナは真面目な顔で続けた。
「私がお邪魔しているのですし、旦那様にも好きに過ごしてほしいです」
そして少しだけ視線を逸らしながら言う。
「……それに、一緒にご飯を食べられる日が増えたら嬉しいです」
沈黙。
アルヴェインはしばらく動かなかった。
やがて、ぽつりと零す。
「……本当は」
低い声だった。
「朝も夜も毎日一緒に食べたかった」
「え?」
「家で執務できる日は昼も」
リリアーナが固まる。
アルヴェインは視線を逸らしたまま続けた。
「だが、嫌がられると思っていた」
「なぜですか!?」
思わず大きな声が出た。
アルヴェインが少し肩を揺らす。
「怖がらせたくなかった。嫌な思いをさせたくなかった」
その言葉に、リリアーナは呆然とする。
こんなに優しい人が。
ずっとそんなことを気にしていたなんて。
「私は毎日、本を読めて幸せです」
リリアーナはゆっくり言った。
「侍女も講師の方も優しくて、話し相手にもなってくれます」
そして。
「でも今、家族と呼べるのは旦那様だけです」
アルヴェインが息を呑む。
リリアーナは少し照れながら笑った。
「だから、もっと旦那様とも仲良くなりたいです」
その瞬間アルヴェインの理性が危うく吹き飛びかけた。
「これからはもっと一緒に食事をとりたいです。旦那様の無理のない程度に」
「無理なことはない」
即答だった。
「毎日でも構わない」
「毎日!?」
「……良いのだろうか」
その声が少しだけ不安そうで、リリアーナは慌てて頷く。
「良いも何も、旦那様のお家です。ぜひ」
その日からアルヴェインの中で働き方が変わった。
朝と夜は必ず一緒に食事を取り、家でできる仕事は持ち帰って昼も共に過ごす。
◇◇◇
領地へ到着すると、アルヴェインは今までと違う視察を始めた。
以前は問題確認が中心だった。
だが今日は。
「見てください、果物です!」
「雑貨屋がございます!」
リリアーナが楽しそうに歩き回る。
市場を見て果物を買って、小物を眺めて。
本屋では真剣に棚を見つめていた。
領民たちとも穏やかに会話をする。
「公爵夫人様は優しそうですな」
「仲睦まじいご夫婦で」
そんな声が聞こえてくる。
アルヴェインは表情こそ変わらないが、内心かなり嬉しかった。
◇◇◇
教会や孤児院にも足を運んだ。
公爵家から支援金は既に渡されている。
だが実際に現場を見るのは大切だ。
「何か私にできることはありますか?」
リリアーナが尋ねると、孤児院の女性が少し考えて言った。
「本を読んでいただけたら、子どもたちは喜ぶと思います」
「あと、お菓子なども……普段はなかなか」
リリアーナの目が輝く。
「クッキーを焼きます!」
だがその瞬間。
アルヴェインが微妙な顔をした。
「……手作りを?」
「はい?」
「…………」
空気が止まる。
しばらく悩んだ末、“食べるのは子どもたちだけ”という条件で、なんとか落ち着いた。
その様子を見ながら、リリアーナは少ししょんぼりする。
──きっと私のクッキー、見た目が微妙だから……
公爵夫人として出すには恥ずかしいと思われているのね……
そんな誤解をしていた。
実際には“妻の手作りを他人へ渡したくない”という重すぎる独占欲だったのだが。
もちろんリリアーナは気づいていない。
◇◇◇
結局、視察は夕方には切り上げになった。
「また熱を出されては困る」
アルヴェインが真顔で言う。
リリアーナは少し不満そうだったが、確かに疲れてはいた。
「続きはまた後日、一緒に回ろう」
その言葉に、ぱっと嬉しくなる。
帰りの馬車の中。
リリアーナは改めて言った。
「必要な社交や勉強、お仕事があれば任せてください」
公爵夫人として役に立ちたい。
その気持ちは本物だった。
だがアルヴェインは、なぜか微妙に視線を逸らす。
「……そのうちな」
「そのうち?」
「今はまだ、ゆっくりでいい」
またはぐらかされた。
リリアーナは首を傾げる。
なぜ旦那様は、こんなにも自分を甘やかすのだろう。
その理由に気づくには、まだもう少し時間が必要だった。




