エピローグ
エヴァレット伯爵は思っていた。
娘は元気にしているだろうか。
執務机に向かいながら、ふとそんなことを考える。
伯爵令嬢として厳しく育てはしたが、リリアーナは大切な可愛い娘だ。
要領が良く、生真面目で、覚えも早い。
本来ならもっと器用に世を渡れただろうに、妙なところで真っ直ぐすぎた。
だからこそ、変な男には絶対に渡したくなかった。
社交界には、愛らしく従順な令嬢を好む男は多い。
だがリリアーナは違う。
普段は本ばかり読んでいるくせに、人と話すときはちゃんと顔を上げ、自分が正しいと思ったことをはっきり口にする。
それを気に食わない者も多かった。
けれどあの日の茶会で、クローディア公爵家の跡継ぎだったアルヴェインを見た瞬間、分かったのだ。
ああ、この男は違う、と。
もちろん当時のリリアーナはまだ五歳。
一目惚れと言っても、恋だの愛だの、そんな大層なものではない。
だが彼は確かに、娘を目で追っていた。
リリアーナが年上の貴族に囲まれても怯まず言葉を返した時、一瞬だけ目を細めて笑ったのを覚えている。
だから私は、昔から彼の前でわざと娘の話をしていた。
「うちの娘は本しか読まん」
「昼寝をしているときの無防備な姿は愛らしい」
「社交より読書の方が好きで引きこもっている」
そのたびに、無表情で有名なアルヴェイン公の顔がほんの少しだけ和らぐ。
本人は無意識だったのだろうな。
クローディア公爵家は信用できる家だった。
今は早々に隠居された前公爵夫妻も、その息子であるアルヴェイン公も、王宮では有名だ。
仕事は完璧、知性も礼儀も申し分ない。
冷徹だとか冷酷だとか言われているが、あれは無駄を嫌っているだけだ。
愚かな貴族には冷たいが、まともな相手には誠実で話も早い。
昔から令嬢たちが寄ってきていたが、誰にも靡かなかった。
そんな男が、娘の話になると空気を変える。
だから婚約者候補として、ずっと“空けて”はいた。
もっとも、保険のようなものだった。
娘が年頃になれば、自分で好きな相手を見つけるかもしれない。
その時は爵位など関係なく、好きにさせるつもりだった。
だがリリアーナは社交が苦手だった。
たまに夜会へ出せば、帰宅後に熱を出す。
勉強は楽しそうにするが、予定を詰め込みすぎればまた熱を出す。
体が弱いわけではない。
ただ、合う生活と合わない生活が極端なのだ。
本人の望みも単純だった。
「お家で本を読んでいたい」
それだけ。
だから私は考えた。
そんな娘を、そのまま受け入れてくれる家があるのかと。
貴族として必要なことは一通り叩き込んだ。
礼儀も、学問も、領地経営も。
そのうえで、“何もしなくてもいい”と言ってくれる家へ嫁げたなら、それが一番幸福だろうと。
そしてアルヴェイン公は、本当に約束を守った。
婚約の際、彼は言ったのだ。
「リリアーナ嬢には、好きに過ごしていただきます」
あの男は、一度口にしたことは守る。
王家主催の夜会で一度だけ夫婦の姿を見たことがある。
あれだけで十分だった。
アルヴェイン公が、娘をどれほど大切にしているのか。
周囲に向ける冷えた視線とは違う、柔らかな眼差し。
娘の歩幅に合わせるエスコート。
飲み物一つ取るにも自然に気を配っていた。
ああ、溺愛しているな、と。
結局、娘はその夜会のあと熱を出したらしいが、後日届いた手紙は誠実だった。
『無理をさせてしまいました。今後はより慎重に配慮いたします』
実に彼らしい。
そういえばリリアーナからも一度だけ手紙が届いていた。
“元気にやっています”
“約束を守ってもらっています”
“図書室がすごくて、一生かけても読みきれないくらい本があります”
短い手紙だった。
だが文字から分かった。
娘は、幸せなのだと。
あの子は昔から、幸福な時ほど言葉が簡潔になる。
机の引き出しを開け、その手紙を取り出す。
何度も読んだせいで、紙は少し柔らかくなっていた。
思わず笑みがこぼれる。
「リリアーナ、良いところに嫁げたな」
窓の外では、穏やかな陽射しが庭を照らしていた。
きっと今頃、あの子は今日も本を読んでいるのだろう。
愛されながら。




