第8話 夜のバルコニー
食事が終わると、ロゼは宿のバルコニーからひとり夜空を見上げていた。
今宵は、星は出ていなかった。夜風は身を切るほど冷たかったが、空気が澄んでいるのがわかった。
「嬢ちゃん、風邪ひくぞ」
「あら、フィルこそ部屋にいたほうがいいわよ」
フィルはウイスキーの小瓶を片手に、隣に並んだ。腰が痛むらしく、ときおり動きを止めては顔をしかめていた。
「不安になってきたか」
「フィルはなんでもお見通しね」
「前より嬢ちゃんが何を考えているか、わかるようになったわい」
「そうなの?」
ロゼは目を大きく開いた。フィルはロゼの表情が豊かになったのを感じ、目を細めた。
「言うてみい。寝る前に吐き出しておいたほうが良いぞ」
フィルの言葉に、ロゼは堰を切ったように胸の内を口にした。
「私、本当にあの広い森のなかでアルフレッドのこと見つけられるかしら。そもそも聖獣の気にやられずに、森に近づくことができるかしら」
「嬢ちゃんなら大丈夫じゃ。ハークもついてるからな」
フィルは大きいガラス窓を通して、部屋の方向に目をやった。ロゼもつられて見ると、ハークはソファでくつろぎながらケイトやラピスラズリと楽しそうに話していた。
ロゼは、どこにでも馴染むやつだと半ば呆れながらも感心した。
「さっきまでハークの方が不安がっていたのに」
「ま、これは嬢ちゃんの問題だからなぁ」
フィルは、そうだろうとロゼに視線を戻した。
ロゼは確かに、そうねと俯いた。不安が波のように押し寄せてくる。
「前みたいに、うまく召喚できるかしら。アルフレッドは私のことをすっかり忘れていないかしら」
「これまで築いてきた絆があれば、大丈夫じゃ。だがどうだ、当たり前すぎて振り返ったこともないだろう」
「そうなの。私、アルフレッドにあなたが必要だって伝えたことなかった」
ロゼは、獣使いの里にてアルフレッドに「いつも無理させて悪いわね」と言ったことは覚えている。アルフレッドは、自分の安全のために周囲の人間を警戒していたのだった。数日前のことなのに、ずいぶんと遠いことにように思い出された。
思えばアルフレッドは、ナイトが姿を消してから、唯一身寄りのない自分の味方でいてくれる存在だった。召喚獣であると同時に、片時も離れることのない家族だった。
ロゼは思わず、目の前の欄干をぎゅっと掴んだ。無機質で、ひんやりとしていた。
「次会えたらちゃんと伝えたいなぁ。私にとってあなたは大事な存在だから一緒に居てほしいって」
バルコニーから見えるオレンジの街の明かりは、滲んで見えた。フィルは、それがいいと笑った。
「フィルのことも、巻き込んでごめんなさい。国の偉い聖獣博士だというのに、余計なことに付き合わせてる」
「気にすることはないよ。わしも神獣には興味があるでな。それに、嬢ちゃんたちのおかげで、実際にこの目で聖獣や海獣を見ることができている。研究室に籠っていてはできない貴重な体験じゃよ」
「フィルは優しいね」
このときふと、ロゼは生まれて初めて、自分は周囲の人間に恵まれていることを感じた。今まで、頭をよぎったこともない思いだった。今、目の前にいるフィルだけでない。ハークも、アルフレッドも、ケイトにラピスラズリも自分を守ってくれていたと思った。
「話を聞いてくれてありがとね」
「お節介は年寄りの特権というもの。何より、若者に囲まれてまた家族ができた気分じゃわ。冒険続きで、退屈している暇もない」
「さしずめフィルは、皆のお父さんってとこね」
ロゼの言葉に、フィルは何やら困ったような逃げ場を探すような顔をして、残りのウイスキーをあおった。鼻をつくアルコールの匂いに、ロゼは少し顔をしかめた。
「わしにはなぁ、一人息子がいるんだ」
フィルはウイスキーの空き瓶を手の平で転がしながら、ぽつりと言った。ロゼは驚愕する。最愛の妻を亡くしてから、フィルは天涯孤独とばかり思っていた。
「会ってないの?」
「どら息子だ。会ったところで、向こうは話す気もないだろう」
ロゼは、街の明かりに目をやるフィルの横顔をじっと見つめることしかできなかった。彼女には血のつながりのある家族という感覚がわからなかった。だが、寂しいことだと思った。
「分かり合える日が来るといいわね」
「嬢ちゃんにそんなこと言われるなんてなぁ。わしも酔うと、弱気になっていかんなぁ」
さぁ、もうそろそろ部屋に戻ろうと、フィルはロゼに背を向けた。ロゼも後に続く。長く夜風にあたっていたせいか、フィルは先ほどにも増してあいたたと腰を庇って移動した。




