後編
「…君、ブルを連れって行ったでしょ?」
するりと、突如現れた男の手が慣れた様子で姉の燃えるような赤毛をひと房取って口付ける。白く長い指先だ。姉の膝の上でごろごろと転がっていた青色のドラゴンが僕はココだよと言わんばかりに「ぎっ!」と小さな声で鳴いた。乙女ゲームにこの手の突っ込みを入れてはいけないことは百も承知だが、その姉の髪を触るモーションは絶対に必要なかったと、弟としては声を大きくして言いたい。
「あら、ごめんなさい…もしかして、ブルのお母様が探してましたの?」
先ほどまでとは全然違う、凛としたローズ=マリー侯爵令嬢としての姉の口調。
「あぁ。多分ロゼのところだろうと言っておいたから、心配はしてないと思うけど…」
ブルと呼ばれた小さなドラゴンは尻尾を振って、エルと呼ばれた男に嬉しそうに懐いて見せた。
「それは大変、申し訳無かったですわ。こうして学園が休みだと何となく心寂しくて…」
「何だ、僕を呼べば良かったのに…」
「ふふ、大丈夫ですわ。今日は弟が来てくれましたの」
真っ赤な薔薇が綻んで花を咲かせるように、満面の笑みを浮かべる姉。生来の気の強そうな顔付きが、目を細めて笑うことで子猫のようにも見えるのだと僕は初めて知った。ゲーム中にローズ=マリーの、こういう柔らかな表情は出てこない。それは悪役令嬢故の冷遇でスチルが少ないせいなのか、この表情自体がゲーム中のローズ=マリーには無い転生者の姉だから成せる表情なのかわからなかった。
「…っ、貴方は」
思わず緊迫した声が出てしまったことが恥ずかしい。男も驚いたようにこっちを見ていた。厚い瓶底のような眼鏡越しに、黄金色に輝く眼が見える。縦に開いた瞳孔が収縮したのを見て、僕は記憶に間違いが無かったことを確信した。
「済まない…!まさか弟君が一緒に居るとは思わなくて…し、失礼します!ごめんっ!」
「あっ…!」
偉そうなのか自信が無さそうなのか、はっきりしない口調。この口調は二次創作界隈でも、再現するのが難しいと言われていたのが脳裏を過ぎった。再び歪めた空間に浮かんだ魔法陣の向こうに慌てたようにドラゴンを抱いて消えていく姿。
「じゃあ、また学校でね…ロゼ」
消え去る直前、姉だけに見せた控えめで穏やかな笑顔。それは好感度が相当高くないと見れないものだったはず。姉よ。何で、どうしてこうなってるんだい?弟はびっくりだよ。
「エルは魔法科なんだけど、召喚術も上手で。ひょんなことから仲良くなったんだよねぇ…あ、びっくりしたでしょ?」
跡形も無く、魔法陣すらも消え去った何もないところを見つめたまま姉が説明してくれる。
「ほんっっっっとに…っ!」
「え、そんなに?ごめんね!もー、いつも転移して来ないでって言ってるんだけどさー。今日はアルが居たから、エルも驚いてたね!」
そういってサイドに垂れた髪を耳に掛けた姉の左腕に揺れる腕輪。その腕輪についた小さな紫色の石を見て、僕は思い出した前世の記憶を瞬時に整理した。
「“エルネスト・ブランシャール”」
「…え、知ってたの?」
僕が低く呟いた名前に、姉は心底驚いたような顔をしている。
「“僕”は知らない…でも、なぎすけとしては知識がある」
「え、それって…え」
「…エルネスト・ブランシャールは、このゲームの“魔王”だよ」
「え…」
姉は言葉を失っていた。
このゲームのメイン攻略者に当たる第一王子サミュエルにはBAD、NOMAL、HAPPY、TRUEの4つのルートがある。その中のTRUE ENDは一定の条件が揃って、ようやく解放されるルートだ。TRUEルートでは、魔王が覚醒する。魔王とはヒロインたちと同じ学園に通っていた冴えないモブ生徒のエルネストだった。
エルネストはドラゴンと人間の間に生まれたハーフで、その瞳はドラゴンらしく黄金色をして瞳孔が縦に開いている。平常時は冴えない生徒として学園で召喚術などを学んでいるのだが、TRUE ENDでは魔王として覚醒して最終的には自我を失い真っ黒なドラゴンとなって国を滅ぼそうとする。そのエルネストをヒロインとサミュエルで協力して倒すのだが、そのエンディングを見た後で解放されるのがエルネスト救済ルートだった。斯く言う僕もエルネストルートは解放していないので、アニメと攻略サイトを見た情報でしかないのだが。他のキャラとは違う闇属性を示す紫の魔法陣も、その特徴のひとつだった。…っていうのは、あくまで設定上の話だけで、スチルを見てるとヒロインちゃんの魔法陣はピンクだったり、推しのリュシアンはアイスブルーだったり適当なところみたいだけど。
「魔王って…パッケージイラストの黒いドラゴン?」
「そう」
各キャラのエピソードで現れるのが厄災のような黒いドラゴン。元々が乙女ゲームで戦いに重きを置いていないため、ルートによっては当て馬のように街を燃やしていったり、国を滅ぼしたりもする適当な設定。その正体が、名前も出てこないようなモブ学生のエルネストっていうことはサミュエルのTRUE ENDでしか暴かれないのだ。因みにTRUE ENDでは、それまでの野暮ったい姿が嘘のようなオールバック姿の魔王然として登場したりもする。
「エルネストがラスボスってことを知らないっていうことは、おねえちゃんはゲームがアニメ化する前に転生したってことですかねー…」
「えっ、え?何?」
賛否両論あったアニメだが、エルネストもラスボスとして登場していたはず。そもそも乙女ゲームをアニメ化するとルートが定まらないので、ヒロインが色んなキャラにフラフラしているような残念な女の子になってしまうのは仕方のないことだ。一応、最終回ではサミュエル王子と結ばれていたかな。それは、さて置き…どうしてこうなった、本当に。
「これは、いよいよ本当に僕が本気を出さないといけなくなってきましたな…」
「なぎすけ?」
ふむ、と呟く。姉を不遇な結末から回避させるだけのつもりだったのだが、その姉が他の攻略キャラとの好感度ゼロの状態で魔王エルネストの好感度をMAX近くまで上げている。これは最初の作戦から大きく変更せざるを得ない展開になってきたようだ。
「因みにおねえちゃん、その腕輪は?」
「これ?エルがお守りだって言ってくれたんだけど…」
「やっぱり…」
「やっぱり?」
乙女ゲーム『カラフル リング〜溺愛の証〜』では、そのタイトルの通りに好感度がMAXになると攻略キャラから指輪が贈られる。この国では婚約者に自分の髪や瞳の色の石を嵌め込んだ指輪を贈り合うのが一般的だ。有名アクセサリーブランドとタイアップして、各キャラの指輪が受注販売されていたのを僕も姉も前世では買っていた。今思うと大人の事情が垣間見える設定だけど、それが転生した今では現実のものになっているのだ。
「おねえちゃん…アニメ化の後で追加販売されたエルネストの指輪はね」
「うん?」
「腕輪なんだよ」
「…へっ?」
そう…全キャラ色やデザインが違う指輪だったのだが、隠しキャラのエルネストだけは指輪ではなく腕輪だったのだ。互いの気持ちを通わせ合った後にはエルネスト本人もヒロインの髪と瞳の色を遇らった同じデザインの腕輪をつけて、ドラゴン化した後も手首に残って目印にもなるという設定らしい。サイズ感を完全に無視しているが、魔法で何とかなるのだろう。僕自身は攻略していないが、エルネスト推しの友人から聞いたことがある。その彼女が今の無意識好感度マックスの姉の姿を見たら、怒りに狂いそうだなー、なんて。
「えっと…じゃあ、もしかしてコレ?」
恐る恐るといった表情で、姉が揺れる腕輪を指差す。
「そうですね」
僕は真顔で頷いた。
「えええええ!?」
無駄に広い室内に姉の絶叫が響く。ちょっと声を落とさないとメイドさんたち来ちゃうって、おねえちゃん。
しかしエルネストはゲームの中では絶対に一巡目では攻略できず、ラスボス化する未来しかない。エルネストが覚醒すれば、聖なる力に目覚めたヒロインの助け無しには倒すことは出来ない。そうなると僕の大好きな姉はゲーム補正によって処刑される可能性がある。
「そっか、僕が何か忘れてるような気がしてたのはエルネストの存在だったのか…」
当初の作戦通りにヒロインをBAD ENDに追い込んで姉と王子が結ばれた場合、ヒロイン亡き後でエルネストが覚醒して全員死亡のフラグすらあったのか。
こうなっては何としてでも姉を焚きつけてエルネストの魔王化を阻止しつつ、姉自身の死亡フラグもへし折っていかないといけない。ぶっちゃけ、あの状態まで好感度が上がったエルネストならば、姉が処刑された時点で怒りでの覚醒もありえそうだ。
「ど、どうしよう…なぎすけ」
「まずは極力詳細なエルネストルートの記憶を呼び起こして、おねえちゃんにはエルネストが闇堕ちすることがないように好感度を維持して貰いつつ…」
ここは乙女ゲーム好きの僕が姉に代わって本気を出すしかない。ゲームの世界でありながら現実でもあるこの世は、選択肢ひとつでシナリオにはない展開に変わってきてしまうことを、幸か不幸か目の前の能天気な姉が教えてくれたのだから。
「おーい?なぎすけやーい?」
ぶつぶつと顎に手を当てたまま独り言を呟く僕の目の前で、姉が心配そうに手のひらをひらひらと振って見せるけど僕は大丈夫だ、問題ない。ちょーっと、腹を括っただけ。前世の記憶を取り戻して1時間も経っていないのに偉いぞ、なぎすけ!なんて自分を褒めてみる。不意に廊下で小さな物音がした気がしてピクリと反射的に立ち上がると、目の前の姉も優美に立ち上がってはスカートの皺を整えていた。
コンコン。木製の扉を叩くノックの音に、自然と姉妹で目配せをする。
「…どうぞ」
先程までとは違う、凛とした姉の声に従って扉が開いた。入室を促すのは、勿論こちらの世界での言語。
「あらまぁ、またローザの部屋に来ていたの?アル」
「母上」
開いた扉の先に居たのは、僕とローズ=マリーを産んだ今世の母にあたる女性だった。スイッチが切り替わるように反射的に僕もアルフォンスとしての口調で会釈をする。
「姉とは言っても一人の女性なのですから…そういつまで経ってもローザの部屋に入り浸るものではありませんよ?アルフォンス」
「…はい、母上」
ちっ、面倒な。舌打ちしたいのを我慢して神妙な面持ちで頭を下げた僕の隣で、口元に手を当てた姉が何とも可憐に笑ってみせる。姉もローズ=マリーとしてのスイッチが入ったのだろう、貴族令嬢らしく伸ばした背筋のまま真っ直ぐに母を見つめていた。
「あら、お母様。アルは幾つになってもわたくしの可愛い弟ですのよ?わたくしも嫁いでしまえば、いくら弟と言えど殿方にはそう簡単に会えぬ身…どうか、会える間は許してくださいませ」
口調の柔らかさに対して横目に覗き見た姉が纏う空気は、悪役令嬢のそれそのもの。苛烈で禍々しい。そんなところで悪役令嬢としてのスキルを使わなくてもと思う反面、弟としての僕が歓喜に震えるのは仕方がないことだろう。何せゲームとは違って、この世界のアルフォンスはおねえちゃん大好きなただのシスコンなのだから。
「まぁ…わかっているのならば、構いませんけれども」
「その優しきお心遣いに感謝致しますわ、お母様」
にっこりと、猫のように細めた目で胡散臭い笑みを浮かべる姉。因みに今世の母親は今の国王陛下の妹に当たる。つまりは降嫁された元王女というわけで、気位が高い。その母親の性格を引き継いでいるのが姉のローズ=マリーという設定だったのだが、幸か不幸か現在の姉の中身はヲタクなお姉ちゃんだ。
「ありがとうございます、母上」
そんなヲタク2人が息を吸うように悪役令嬢と、その弟になれる感覚は不思議なものである。まるで自分の中に前世と今世、ふたつの引き出しがあるようだ。母は、それから幾つかの連絡事項を僕らに告げて姉の部屋を後にした。貴族育ちの母親は勿論、産んだ子供も自身では育てずに乳母任せだったために僕も姉もあの人に育てられた記憶というものはあまりない。そんな母親が人も使わずに直接子供の部屋に訪れるのは珍しいことでもあった。何か良からぬフラグでも無ければいいが。
僕という存在をやんわりと後ろ手に庇うように前に出た姉のローズ=マリー。その華奢でありながらも凛と伸びた背筋にアルフォンスとして生まれ育った14年間で、幾度となく姉に守られてきた記憶が蘇った。そうだ。僕が記憶を取り戻す、ずっとずっと前からこうやって姉は背に匿ってくれていたのだ。
「…たはー、危なかったね」
「だね」
そう吐き出すのと同時に、ピンと伸ばした背筋を猫のように丸めて前世の口調に戻ったお姉ちゃん。その何でもないような横顔に、今度は前世で幾度となく家庭や仕事の愚痴や弱音を聞いて貰ったことが思い出される。最初は同じカラリンクラスタとして仲良くなった姉だったけれど、気づけば互いにジャンルに手を出した時だって色んなことを話してきたんだっけ。
「ねぇ、おねえちゃん」
「ん?」
「…おねえちゃんの死亡フラグは僕が絶対にへし折ってみせるからね!」
「なぎすけ…?」
今度は僕が姉を守ってみせるのだ。そう決意した気持ちは前世の僕のものなのか、現世のアルフォンスのものなのかはわからない。それでも紛れもない『僕』の気持ちだった。
如何わしいイラストの隙間に日本語で書きなぐった紙はどうしたのだろうと思ったら、姉がぐしゃぐしゃにして握りしめていた。前世は同じヲタクだったので母親に見られたくない気持ちはわからなくもないが正直やりすぎだ。いや、確かにあの母親に見られればそれはそれで破滅フラグではあるが。そこで魔法を使わずに古典的に握る潰す手段に出たところが、とても姉らしいとも思った。しかし、せっかく日本語で書いて纏めていたインクが滲んで内容も読めそうにない。僕は小さく呪文を唱えると姉が握りしめてくしゃくしゃにした紙を真っさらな新しいものへと戻した。インクの黒が宙に舞って霧散していく。この程度の魔法って魔王クラスになると無詠唱で出来るんだよね。チートめ、腹立たしい。
「おー、凄い凄い」
これくらいの魔法なら姉も意識すれば使える筈なのだが素直に感嘆の声を漏らしている。義務教育で習うような魔法ですよ、姉上。魔力の強い子供が多い貴族の世界では、書いて発動させるレベルの魔法を小等部で習い、中等部で文字なしの詠唱で魔法を行使させることを覚える。高等部では言わば専門過程になってくるのだ。
「…さて、改めて僕らが覚えている全ての結末を書き出して、現状と照らし合わせてから最悪を回避していくよー」
「おー!」
羽根ペンを片手に、姉弟仲良く右腕を掲げてやる気を出した。前世でカラリンの二次創作を合作した時なんかを思い出しますね。僕が小説を書いて、姉が表紙と挿絵を書いたやつ。結局、出版とかはしなかったけど。
コンビニ店員から転生して悪役令嬢の弟になったけれど、世界を破滅の危機から救うためにどうやら24時間のコンビニ対応が求められているようです。目を離すと姉はイラストばっかり描いてて、あっさり断罪されて処刑されちゃいそうだしね。
「てか…正直、コンビニでアルバイトしてるよりも大変かも」
コンビニのアルバイトだってそれなりに責任感を持ってやってきた記憶は残っているけれど、少なくとも選択肢を誤って身内が処刑されるなんてことはない。前世で学生アルバイトを指導したり、乱雑に在庫が積まれたバックヤードを工夫して整理整頓していく感覚が何故か不思議と蘇る。
「ん?何か言ったー?」
こてん、と小首を傾げる姉。そういう仕草も悪役令嬢顔のせいで、あんまり可愛くない。いや、あざとくないと言うべきかな。
「…悪役令嬢の弟も楽じゃないって言ったの!」
嘆息をついた僕を見て悪役令嬢の姉が、にっこりと笑みを浮かべた。
(「っていうか!私が嫁いじゃったらアルは家を継いで結婚して跡取りを作らなきゃだから、推しと一緒になれないよね!?何とか私がお婿を貰いつつフラグ回避できるルートはないのかな…」
「おねえちゃん…そういうの今は、ほんといいから!」)




