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「レティア・ノクターン~愛の歌~」

 忘れもしない。別れの挨拶の為に王都にある公爵家の屋敷を訪ねた夜。


「泣かないでくれ、レティア……必ず、引っ越した後に会いに行くから」


 フェルナン様はそう言って私の好きだったピアノ曲を弾いて慰めてくれた。

 父の再婚相手の伯爵夫人とその息子が住まう領地への引越しが決まり、これからは主に王都にいるフェルナン様とは滅多に会えない。

 幼い頃から長年恋慕ってきたフェルナン様との別れは耐え難いほど辛くこの胸を苛む。

 長く繊細な白い指が鍵盤の上を滑っていくのを横で眺めながら、私の心は悲しみに満たされていく。



 初めて義弟のルーゼに会った時、その雰囲気の優美さが、フェルナン様に似ていると思った。


「初めまして、ルーゼ・ミュールだ。

 あなたのように美しい人には生まれて初めて会った」

 

「ありがとう。レティア・ミルゼよ。

 あなたの方が私には美しく見えるわ」


 お世辞ではなく、甘い蜂蜜色の髪に宝石のような緑色の瞳を持つ天使のようなルーゼの美しさに、私は確かに心打たれたのだ。

 フェルナン様がいなければ恋していたかもしれないと思えるほど、一目で彼を好きになり、惹かれていた。



 ――思えば全ての不幸の始まりは、父が再婚してから二ヶ月後、デリア侯爵家主催の夜会にて、ロウルに首に絞められた事だった。

 勝手に私に恋慕し、想いを返さない事を逆恨みし、凶行にいたり、今は狂ったまま幽閉されているという彼。

 

 フェルナン様が約束通りに会いに来たのもその事件のすぐ後。

 ミュール伯爵家の領地に引っ越した後、私は彼の訪れを待ち、窓から門の方向を眺めるのが習慣になっていた。

 だからついに門をくぐる彼の姿を発見し、再会した時には、どんなに嬉しく、この胸が歓喜の色に染め上げられていった事か。

 その手から舞踏会の招待状を渡された時も、また彼にすぐに会えるという喜びに胸がはちきれんばかりだった。



 しかし数日後、心躍らせて参加した舞踏会の会場にて黒髪の美しい令嬢と寄り添うフェルナン様に婚約した事を告げられ、私は一気に地獄へと叩き落さる。

 ――直後、運命のいたずらでルーゼと婚約する事になり、正体不明のめまいにも襲われだし……私の運命は確実に不幸へと向かっていくようだった。


 

 義母のライザからローズ湖の伝説の話を聞いたのもその頃だ。

 婚約披露パーティーを控え、鬱々としていたある日、麗しの婚約者ルーゼが気晴らしに、乗馬が出来ない私を自分の馬に一緒に乗せて、遠乗りへと連れて行ってくれた。

 馬での散策途中、遠くに見えた青緑色の湖影に私が興味を示すと、ルーゼは不吉で不気味な自殺の名所で、沈んだ遺体が浮かばない通称『死の湖』だと説明して、近づく事さえ拒否した。


 夕食前の空き時間、刺繍を教えて貰いながらその話をすると、義母のライザはほがらかに笑って言う。


「湖の呼び名はそれだけじゃ無いのよ。

 肝心な自殺の名所である一番の理由、湖の伝説を、あの子はレティアに教えなかったのね」


「湖の伝説?」


 ライザは目は手元の刺繍に向けたまま口だけ動かして答える。


「まだあの湖に名前が無かったぐらい遠い昔。

 ローズという女性がこの地にいて、死んでもすぐに生まれ変わると言い残してから、自ら湖の中へ入っていったらしいの。

 彼女が湖の底に消えて10ヶ月後に生まれた少女があり、口が聞ける年齢になると自分はローズの生まれ変わりだと言って記憶を語り出したそうよ。

 それで、今では生まれ変わりの湖とか、死んだ者の最期の願いを叶える湖とも呼ばれるようになったの」


「……つまりみんな来世に願いを繋げる為に死にに行くのね」


「そうね、死に救いを求めたくなるのは当然だもの」


 義母の話を聞きながら、感傷的な気分になりふと考える。

 もしも自分が自ら死を求めてローズ湖に入る時が来るとしたら、その時願うことは一体なんだろうかと……。


 考えているうちに例のめまいが始まり、思わずこめかみを押さえた時。


「レティア……刺繍なんて珍しいね」


 ルーゼが背後から現れ私の肩に手を置くと、スーッと霧が晴れるようにめまいが引いていく。



「ルーゼ、不思議、あなたが傍に来るとめまいが止むし、一緒にいる時はめまいがしないの」

 

 最初は偶然かと思ったが数回同じ事が重なって、確信するようになる。

 めまいについてはルーゼもかなり心配していたので二人きりになった時にその事を報告した。


「本当に? だとしたらずっとあなたの傍にいるようにするよ」


 ルーゼは言葉通りそれからは片時も私から離れずに、眠る時まで添い寝してくれるようになった。

 

 


 私達はその年の冬、王都の屋敷へ移動して、婚約生活を送る事となる。

 めまいとさらに加わった頭痛の症状を酷く気にしたルーゼが、王都にいるサジタリウスという名医に私を診て貰えるよう、手配してくれたのだ。


「……では、そのロウルという男性に首を絞められかけてから、めまいがたびたび起こるようになったんだね?」


 サジタリウスは驚くほどフェルナン・ヒメネス様と容姿が似ていて、診察のたびについ胸がときめいてしまう。


「はい、今はルーゼが常に傍にいてくれるので平気だけれど……」

「断定は出来無いが、ミュール卿が傍にいる時は止むという事なら、精神的なものかもしれないな。

 とにかくしばらく経過を見よう」


 精神的……確かにロウルに殺されかかってから色々あり、我ながら精神状態はあまり良く無かった。

 何より、フェルナン様のいる王都に戻って来ていて、心乱れずにはいられない。

 


「今晩は舞台でも観に行こうか? ボックス席を取ってあるんだ」


 ある晩の事、突然、私を驚かせるようにルーゼが言った。

 お芝居を観るのが大好きだったので、思わず跳ねあがって喜んでしまう。


 私は久しぶりにうきうきしてお洒落して馬車に乗って出かけ、ルーゼと腕組して劇場内へと入って行った。


 私達が観に行ったのは『エウレリア姫とレーブンウッド』という題名の歌劇。

 伯爵位を持つルーゼは顔見知りが多く、会場内を移動する間、知り合いに挨拶するのに時間がかかり、席に着いた時は開始時刻ぎりぎりだった。


 ――舞台での最初のシーンはエウレリア姫が元自分の護衛騎士であるレーブンウッドを手紙で呼び出すところから始まる。

 彼女は彼が戦地へ行くと知り、必死に引き止めて、愛の告白するのだ。

 するとレーブンウッドも彼女に告白する、あなたを得る為に戦いへ行くのだと……。


 エウレリア姫は自分の想いを歌に乗せて語る。


『私が一番幸せだった時はあなたの傍にいられたあの時間。

 戻りたいあなたの傍に……ずっとそう思ってきた。

 でも今はそれすらも望まない。あなたがただ生きていてくれるそれだけでいい。

 愛し愛されるこの幸福以外私はもう何もいらない。

 私が望むのは愛するあなたの心だけ。

 あなたが生きていて、心が繋がっているのなら、もう他は何もいらない』


 彼女の歌に、私は胸が詰まったようになる。

 かつて傍にいられるだけでも幸せだった頃の自分の気持ちを思う。

 戻りたい、私も、姫のように戻りたい。

 あの人の傍に……今でも愛している……フェルナン・ヒメネス様の元へ……。


 想いを伝え合った舞台上の二人が抱き合い口づけをかわす。

 突然、エウレリアが自ら服を脱ぐと真っ白な裸体が現れる。


『戦いになど行く必要は無いのです。この身も心もとうにあなたのものなのですから』


 けれどレーヴンウッドは姫に服を着せて、色々口上を述べた後、振り切るように戦いへ旅立って行く。



 二人のラブシーンの影響だろうか、隣で私の腰に腕を回して劇を観ていたルーゼの身体がもぞもぞと動き出す。


「レティア……あなたに今凄くキスがしたいんだけど……いいだろうか?」


 舞台を夢中で観ていた私は、迷わず首を振った。


「劇を観ているから駄目……」


「……終わったらいい?」


「終わっても駄目」


 ルーゼの事は大好きだが、いまだにフェルナン様を想っていたので、挨拶以外でキスするのは気が進まない。

 続けて集中して舞台をみていると、今度は通路側から低く澄んだ聞き覚えのある声が響いて来た。


「フェルナン・ヒメネスだが、少しいいかな?」


 衝撃のあまり私が躊躇している間に、ルーゼが先に「どうぞ」と、答え、通路と席を遮る緋色のカーテンがさっと開かれる。

 姿を表したのは銀髪にアメジスト色の瞳をした私の初恋の人フェルナン・ヒメネス様だった。


「……フェルナン様……!?」


「やあ、久しぶりだな。レティア。

 君達がいると知人から聞いて、挨拶に来たんだ。

 婚約したそうだね。おめでとうレティア、ミュール伯爵」


「お久しぶりです。わざわざ、ありがとうございます」


 ルーゼが無表情に礼を言う。

 ヒメネス公爵と会うのは舞踏会以来だった。

 私にはあの日以来、どうしてもこの人に言いたい一言があったのだ。


 それでさっとルーゼの耳元に口を寄せ強くささやく。


「少しだけ通路で二人で話して来てもいい?」


「……嫌だと言ったら?……」


「後であなたの好きなだけキスさせてあげるからお願いよ!」


「……わかった……少しだけだよ……そのかわり、後で嫌ほどキスするからね?」


 私は立ち上がると、フェルナン様の腕を取り、劇場の通路を歩き、休憩用の小スペースまで歩いて行く。


「……幸せそうで良かった」


「ええ、フェルナン様のおかげでこうしてルーゼと婚約するはめになり、とても幸せです」


「私のおかげ?」


「あなたに会ったらどうしても聞いてみたかった事があったんです」


 私の胸はふつふつと溢れてくる怒りに焦がされるようだった。


「どういう事だ?」


 フェルナン様がけげんな顔をする。


「……覚えてますか? あの王都での別れの日、あなたが必ず会いに来ると言った事を……。

 私は一日千秋の思いで毎日あなたが会いに来る日を今か今かと待ち詫びていたのです。

 そうしてあなたは約束通り会いに来た。残酷な舞踏会の招待状を携えて……。

 その舞踏会があなたの婚約を発表する為のものだと知らず、私は馬鹿みたいにあなたにまた会えると喜んで出掛けて行って、見事に地獄に叩き落された。

 あれ以来、私はずっとあなたに聞きたかった。

 なぜあの時、あんな招待状を私に持って来れたんですか?

 口に出さなくても、あなたは幼い頃からの私の気持ちに気がついていた筈だわ。

 私はあの晩、夜通し義弟のルーゼの胸を借りて泣いたんです。

 おまけにその後、ルーゼと一晩中一緒だった事が使用人の口から父にばれてしまい、婚約するはめになったんです。

 恨んでますよ。なぜあんな残酷な事が出来たんですか?

 あなたはなぜ……私にあんな酷い事が出来たの?」


 話しているうちに感情が溢れて来て、熱い涙がこぼれて、頬を止め処なく伝う。

 フェルナン様は激しくショックを受けたような強張った表情でこちらを見つめ続けた。


「レティア……君はそんな風に考えていたのか……すまなかった」


「そんなに私の気持ちが迷惑だったんですか?」


 フェルナン様はかぶりを振って、悲しそうにアメジストの瞳を揺らした。


「そうじゃない、私は君に惹かれる自分の気持ちが怖かったんだ」


「惹かれる?」


「君が王都から去ってから、今まで想わない日など無かった」


「なぜ今更そんな事を言うんですか?

 やっぱりあなたは酷い人」


 その時、急に激しいめまいが始まった……ああ……またこれだ……。

 頭を押さえ、目を瞑る。


「どうしたレティア?」


「ルーゼを呼んで来て」


「分かった」


 そうだ……ルーゼと離れられないこの身ではフェルナン様の傍にさえ戻れない。

 あの幸せだった日々はもう二度と戻ってこない。

 私はルーゼの腕の中に戻り、フェルナン・ヒメネス様は謝罪といたわりの言葉と挨拶を残し、その場を去って行った。


 その日の舞台は体調を心配したルーゼによって途中で帰された。

 屋敷へ戻ると、約束通りに嫌ほどルーゼから口づけを受け、フェルナン様との再会にショックを受けていた私は、無気力状態で彼の気が済むまで口を吸われ続けた。

 

 後日、ルーゼに手配して貰って、再度劇場を訪れ、無事に気になっていたストーリーの続きを追う事が出来た。


 レーブンウッドは姫の為に戦功を重ね、順調に隊長となり出世していくが、まだまだ姫への道のりは遠い。

 ある日、戦地へ赴いた際、自分の上官であり大将軍の息子にして貴族の息子アストルと姫が婚約した事実を知り、夢敗れた彼の剣は力を失い、瀕死の重症で国へと帰る。


 幼き頃から父王より政略結婚を言い渡され育ってきた姫は元よりレーブンウッドと添い遂げる事など諦めていた。

 ゆえに姫が望んだのはただレーブンウッドが生きていてくれる事、想い合っていられるだけで充分だったのだ…。

 しかし彼はエウレリア姫を強く望み、得られない事に絶望し、それゆえに死にかけてしまう。

 虫の息の彼が収容されている修道院の地下にエウレリア姫は駆けつける。

 レーブンウッドの最期の願いは彼女に一目会う事で、果たして、その願いは叶えられた。


 私はそこでほっとする。

 死ぬまで会えないなんてとても悲しいもの。

 姫は彼に生きて欲しいと、生きているだけでいいのだと、最後に思いを伝える。

 だが姫に会いたいという最期の望みを叶えたレーヴンウッドは目を瞑り、もう開かなくなる。

 彼はこのまま生きながらえて他の男性のものになる姫の姿を見る事を望まなかったのだ。

 姫も彼の上にかぶさり動かなくなる。

 なぜなら姫の最期の願いは彼と永遠に一緒いる事だったのだから……。

 姫はレーブンウッドが死んだのを悟ると自らも毒を煽って、慌てて死の世界へと彼を追って行ったのだ……。

 最後、手に手を取りあって天国へと上っていく、二人を祝福する歌で劇が終幕する。


「悲しい話だね」

 

 観終わった後、ルーゼが言う。

 私は「そうね」と頷いてはみせたが、内心そうは思わなかった。

 思い思われ愛の中で彼らは死んだのだから。

 一人じゃなく二人で手を取り合って死地の旅へと向かい、天国で永遠に結ばれた。

 私にはそれがとても幸福な事のように思える。


 王都にいる間、私はすっかり観劇にはまり、他の舞台は勿論、『エウレリア姫とレーブンウッド』の歌劇も何回も観に行った。


「レティアは劇が好きなんだね」

「そうね、いっそ女優になりたいほどね」

「あなたの声はとても済んで綺麗だものね……ただ女優になるには、容姿が美しすぎるよ」


 女優になるのに美しすぎて駄目な事なんてあるのだろうか。

 

 観劇以外にも私とルーゼはどこに行くのでも仲睦まじく出かけて行き、端から見れば愛し合っている婚約者同士そのもの。

 しかし私の心はフェルナン様から言われた『惹かれていた』『想わない日など無かった』という言葉にまるで呪いのように掴まっていた。


 幸いルーゼは気の長い性質で、根気良く私の気持ちが自分に向くのを待ってくれているようだった。

 恋心こそ抱かなかったけれど、常に傍にいて尽くしてくれる彼への感謝と愛情は確実に深まっていき、いつの頃からかルーゼは傍に居て当たり前の、私にとって空気のように大切な存在になっていた。


 


 ――婚約後、二度目の春を迎えた時、私達は運命の出会いをする事になる。

 デリア侯爵家主催のガーテン・パーティーに呼ばれた際、偶然、リーネ・フォンデという少女が起こす奇跡の現場に立ち会ったのだ。

 彼女は心臓発作を起こして倒れたデリア侯爵の心臓を手をかざし再び動かし始めた。


 ルーゼはそれ以来、リーネに近づき、何としても私の不調を治して貰おうとやっきになりだす。

 少し前から私の病状が悪化して、サジタリウス医師より、原因が脳の病気ではないかと指摘されていたからだ。

 もしそうであれば医療で治すのは難しいとサジタリウスに言われていたところに、リーネに出会い、ルーゼは希望を見出したのだ。


 ルーゼはその為なら手段を選ばず、リーネの恋人役まで演じて、全てを投げ打ってでも私を救わせようと懸命に努力していた。

 そんな自分よりも私の事を想うルーゼの献身的な深い愛に打たれ、私も協力して、せいぜい捨てられ取り乱す女を熱演したのだが……。

 ルーゼと恋人同士になろうと、どんなに頼もうと、彼女の力は私に対して出現しなかったのだ。

 あの歌劇の女優ほどの演技力があれば、助けてもらえるのだろうか?


 自分の間違いに気がついたのは病が末期症状になった頃……。

 庭でルーゼとリーネがキスしているところに近づいて行った時、私に気がつき顔を上げた彼女の瞳の中に、あきらかな嫉妬の炎が灯っているのを認めた時……。

 『演技では彼女には通用しないのだ』……そう気がついた時には、最早、時間切れだった。


 義弟の愛を殺すのはあまりにも難しく、時間が足り無かった。

 そうなのだ、何もかもが時間切れだったのだ。

 自分の中のフェルナン様への愛も殺せず、ルーゼの自分への愛も殺せず。

 想い想われ愛し愛されるような恋をする時間も無い……。

 何も果たせないまま私の人生はすでに終局に差し掛かっていた……。



 結局、リーネに癒して貰う前に、残り時間の限界が来た。

 頭が常にぼうっとして、記憶すら曖昧になって、廃人寸前になり、もうルーゼが傍にいても、身体が麻痺して動けない時間が増え、ほぼ寝たきり状態になっていた。

 だから湖に自から入って行けるうちに自分の人生の幕を閉じる事を決める。


 ただ、私の死には最後の希望があった。

 ローズ湖の伝説だ。

 来世に望みを託す、それだけが今、この瞬間の死の恐怖をやわらげてくれている。

 

 今生の別れ、私はルーゼに頼んで湖まで送ってもらった。

 我ながら酷な事をしているのは理解していたが、自力ではもう湖にたどり着けそうに無かったからだ。

 湖に到着すると最期の神様からの贈りもののように痛みが引き、身体が力を取り戻し、頭がはっきりする。


 ルーゼは自分も一緒に死ぬと必死に言い募ったが、私は絶対にそれを認めなかった。


「あなたはリーネと一緒に死にたいと思う?

 自分が死ぬ時無理矢理リーネも一緒に死ぬと着いてきてそれで嬉しいの?」


「……」


「私がもしあなたを愛していたら、一緒に死んで貰っていたかもしれない。

 だけどそうじゃないの……ルーゼ、あなたのことは大好きだけど、愛しているのは別の人なの!

 一緒に死んで貰っても、よけい辛いだけ……。

 それに、こうして死にゆく私だから分かるの。

 生きているってそれだけでとても素晴らしいわ……。

 恋が叶わなくても、生きていればきっとまた新しい恋を始められる。

 私は正直ね、今それが一番悔しいの。

 自分の時間が足り無かった事が! もっと時間が欲しかった!

 初恋を忘れる時間さえも足り無かった……。

 ルーゼ、あなたにはたくさん時間があって羨ましいわ……」


「私はあなた以外は愛さないよ……」


「そんな事言わないで……私からの最期のお願い……私を見送って、その後は、別の人を好きになって……。

 私あなたがとてもとても大好きなの!

 今、自分が死にゆくのと同じぐらい、あなたの想いが報われなかった事が悲しくてたまらないの。

 だから最期に、あなたが思い思われ、愛し愛される人と出会い生涯幸せに生きる事を心から願って死ぬわ。

 あなたが私を本当に想ってくれているなら最期の願いを重く受け止めてきっと叶えてね」


「……レティア……」


「ありがとう……最後まで見送ってくれて……」


 ルーゼに見送られ、湖の中へ入っていきながら、自分の最期の願いを見つめなおす。

 一番の望みは出来れば今のこの私のまま、誰かと深く愛し合う事だ。

 けれどこの生涯は時間切れでもう終わるのだから、それは不可能。

 ならば来世に繋ぐしかない。

 それにたとえ時が巻き戻りもう一度この人生を繰り返したとしても、同じ私のままではフェルナン様を忘れるのに間に合わず、好きなままなのだから無駄なのだ。

 

 あの人は私に惹かれたというが、結局、追い払って忘れてしまいたい程度の存在。

 

 私が望むのはそんな愛ではない。

 もっと深く深く愛し合える相手。

 エウレリア姫やレーブンウッドのように、愛し愛し返され、その人となら、一緒に死ねるほど愛し合える相手なのだ。


 だから来世があるなら、もし生まれ変わったら、今度こそ見つけるのだ。

 その為に、フェルナン様のように自分に想いを返してくれない人は、すぐに忘れられる自分でいたい。

 いつまでも未練を引きずらず、新しい恋を始められる自分でいたい。


 どうか湖よ、願いを叶えて……。

 そして叶うなら、最後まで愛と真心を尽くしてくれたあの最愛の義弟が今度こそ報われる恋が出来る事を……。


(そう、湖よ、もしも叶えてくれるなら私は欲張りにも二つの願いをするわ!

 最愛の義弟が愛し愛されて幸福になる事を!

 私もまた、今度生まれ変わったら、誰かと心から愛し合える事を!)

 

 

 湖の浅瀬を越えて深みへと足が落ちていく……水をいっぱい飲み込んで、真っ暗な水の底に沈みながら……意識が深く沈んで行く……。

 果たして湖に願いは届いたのだろうか?

 

 漆黒の闇の中たゆたっていると、強烈な浮遊感に突如襲われ――気がつくと――私は湖を真上から見下ろしていた。


 眼下に一人で湖に入って行く私の姿が見える……死ぬ時の記憶を遡っているのだろうか?

 いいや、違う、なぜか見送っていた筈のルーゼがいない? どうして状況が違うの?

 やがて私の身体が水の中へ沈んで行くと、湖の中からゴボゴボと泡が浮かんでくる。

 その泡を目指して誰かがばしゃばしゃと湖の中へと入って行った。

 ルーゼだ、ルーゼが私を水の中から引きずり出している。

 彼は私を助け出すと、岸に横たえ水を吐き出させた。

 しばらく震える私を抱きしめ続け、意を決したように横抱きにして立ち上がり、湖を見つめながら静かに言葉を語りかける。


 そこで何の前触れも無く突然ぐるんと景色が回って、今度は真っ暗な屋内。

 誰かが何かをすする不気味な音が響いてきて、話し声が聞こえる。

 月明かりが窓から差し込み部屋の内部を照らしだした瞬間、死人のように床に転がっている私の姿が見える。


 何これ?

 一体何なのこれは?

 自分が出てくるのに、どれ一つとして覚えのある場面が無い!!


 混乱しているうちにまた周りの景色がぐるんと変わる。


 今度は私の部屋の中で、私とそっくりな髪型の女性の背後に立っていた。

 いやそっくりでなのではないと鏡を見て気がつく。

 鏡に映る彼女の顔は私と同じものだった。

 前に立っている私が鏡ごしに背後にいる私に気がつき、絶叫をあげる。


 再び景色が回りだし……。


 何なの?

 私はさっきから何の光景を見ているの?

 どこに一体向かって行っているの?


 ――最後に辿りついたのはいつかのロウルに殺されかけてる場面。

 そこで始めて時が巻き戻っている事に気がつく――私とは違う私がいる時間を遡っている?

 今回は今まではとは違い客観的に自分を見ている構図ではなく、主観的に、私自身が首を絞められている状態だった。

 喉を圧迫される痛みと苦しみの中、突如――ぶわっと――奔流のように自分以外の誰かの記憶が頭の中に流れ込んで来るのを感じる。

 ――激しい記憶の渦に巻き込まれていき、意識が流されて行く――そこで私は何もかも分からなくなっていった……。


 


 はっとしたように目を覚ますと、私は裸で、同じく裸の肩を布団から出したルーゼと並んで一緒のベッドに横たわっていた。

 なぜか私の瞳には涙が浮かんでいて、心が動揺に揺れている。

 夢の内容は目覚めると同時に忘れてしまっていた。

 

「レティアがピアノを弾きたがるなんて珍しいね」


 私は服を着て朝食を食べ終えると、久しぶりにピアノを弾く為に音楽室へ向かう。

 当然のように私の夫も一緒についてくる。

 結婚する前からも結婚してから片時も離れた事がないのが自慢の私達だった。


 音楽室に入り、ピアノの前に座ると蓋を開き、思い浮かんだ曲を追うようにピアノを弾いて歌を歌う。


「……愛し愛されるこの幸福以外私はもう何もいらない。

 私が望むのは愛するあなたの心だけ……」


「それって、以前観た歌劇の歌詞?」


「うん、きちんと観て無かったけど、この部分だけは覚えていたみたい」


「今度再演する時に王都へ行ってまた観ようか」


 ルーゼの言葉に「うん」と頷き、次に久しぶりに懐かしい好きな曲を弾こうと鍵盤に指を走らせる。


「はー、駄目だわー」


 指がなまっていて、全然思うように動かなくって、曲の始めの部分を何回も繰り返してしまう。

 見かねたルーゼが声をかけてきた。


「私が弾いてあげようか? 一応習っていたんだ」


 ルーゼがピアノを弾けるなんて初耳だった。私は驚きつつも席を交代する。


「じゃあお願いしようかしら」


「久しぶりに弾くから上手に弾けなかったらごめんね」

 

 言い訳しながらルーゼがさらっと試しに弾いみせた様子は、私よりはるかに滑らかな指使いだった。


「麗しくて優しく賢いだけじゃなく、ピアノまで弾けるなんて、あなたって世界一完璧な夫ね」


 感激に思わず抱きつくと、ルーゼははにかんで笑った。


「大げさだよ」


 私はさっそく、いつかの別れの時にヒメネス公爵様が弾いてくれた自分が好きな夜想曲を彼にリクエストする。

 ルーゼは返事がわりに傍らの私に熱烈なキスをしてから、ピアノに向き直り、時折、愛情のこもった視線を送りながら、指先で美しい音を奏で始める。

 長く繊細な白い指が鍵盤の上を滑っていくのを横で眺めながら、私の心は甘い幸福に満たされていく。



FIN



少し駆け足になりましたが、この話はそもそも最初に考えた物語の構想から、理由があって省いた部分を描いたものです。

この前提があったから主人公はあっさりヒメネス公爵を忘れた訳ですが、本編にそこの部分を組み込まずカットしたのは、ローズ湖の伝説にしてもそうなんですが、本編には必要の無い情報だったからです。


この物語は元々ライトノベルの悪役令嬢が自分の願いが叶える為に湖に入り、時を巻き戻し、少し違う自分になって全てをやり直すという設定だったんです。

ルーゼの愛ゆえにリーネに助けて貰えない、つまりルーゼが原因で死んだ一回目のレティアが、二回目ではルーゼの愛ゆえに助けられる話でもあります。


しかしこれは本編には必要ない情報なので、後で番外編にでも書いて、それを読んだ人にだけ伝わればいいなと思っていました。

今回無事にそこの部分を書き終わり、ほっとしました。


ちなみに作品内には書きませんでしたが、前世の自分はライナスのようなタイプが、レティアはヒメネス公爵やルーゼのようなタイプの男性が好みだという設定があったので、本編では活躍していたライナスがレティア・ノクターンでは出番さえ無かった訳です。


とにかくこうして終わりまで無事に書き終えられたのもひとえに読んで下さった読者の皆さんのおかげです。


最後に、ここまで読んで下さった皆様に感謝のお礼をのべて後書きを締めたいと思います。

本当にありがとうございました。

また機会があれば、私の作品を読んで下さると嬉しいです。


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どうぞよろしくお願い致します!

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