第14話:慈悲は、味を聞かない
セラフィナは、その日の午後まで黙っていた。
いつもなら、皿を見れば何かを言う。粥を食べた子どもが「おかわり」と言い、「ごちそうさまでした」と言った時も、彼女は何かを言いかけた。だが、言わなかった。言葉になっていないのだろう。そういう顔だった。
教会救護院の中庭には、古い石の長椅子が置かれていた。病人が日光を浴びるための場所らしい。白い布をかけられた椅子に、数人の患者が座っている。風は弱い。薬草と粥の匂いが、建物の中から薄く流れてきていた。
セラフィナは、その中庭の端で立ち止まった。
「レンジさん」
「何だ」
「慈悲の粥は、祝福に似ています」
ようやく出た言葉が、それだった。
「似てるか」
「はい」
セラフィナは、食堂の方を見た。
「あの粥は、弱い人が何も考えずに受け取れるように作られています。痛い時、苦しい時、怖い時に、考えなくてもいい。口を開ければ、誰かが運んでくれる。……それは、悪いことではありません」
「悪くないな」
「はい。悪くありません」
彼女は、少しだけ指を握った。
「私の祝福も、似ています。痛い場所に手を置いて、光を流す。相手は、ただ受け取ればいい。痛みが引いて、息が楽になる。それは、救いです」
「だろうな」
「でも」
セラフィナは、そこで目を伏せた。
「受け取るだけでいいものは、時々、言葉を奪います」
俺は黙った。
「痛みが引いた後、何が痛かったのか。どこが怖かったのか。次はどうしてほしいのか。……私は、聞けていなかったことがあります」
「祝福したからか」
「祝福したからです」
セラフィナははっきり言った。
「治ったなら、それでいいと思われる。楽になったなら、感謝すればいいと思われる。そういう空気を、私も作っていたかもしれません」
中庭の奥で、修道女が布を干している。白い布だった。風に揺れて、少しだけ光を返す。
セラフィナは、その布を見ながら言った。
「だから、聞きたいです」
「誰に」
「食べている人に」
俺は食堂を見た。
「聞いて答えるか」
「分かりません」
「マテルナ司祭が嫌がるぞ」
「分かっています」
「サエも困るかもしれない」
「分かっています」
「じゃあ聞け」
セラフィナが、こちらを見た。
「止めないんですか」
「聞きたいんだろ」
「はい」
「なら、聞け。俺が聞くと、殴りに見える」
「自覚はあるんですね」
「うるさい」
セラフィナが少しだけ笑った。その笑いは、すぐに消えた。彼女は背筋を伸ばし、食堂へ向かった。
* * *
食堂には、夕方の粥が並べられていた。今日から、試作の粥は一部だけに出されている。全員に出すには、まだサエが許さなかった。
それでいい。食べられない人間を使って、勝負するな。そこはサエの方が正しい。
マテルナ司祭は、食堂の中央にいた。今日も穏やかな顔をしている。穏やかすぎて、表情だけでは何も分からない。
「聖女様。何か」
セラフィナが前へ出る。
「少し、お話を聞いてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます。救護院の運営についてでしたら、私が」
「いえ」
セラフィナは首を振った。
「食べる方に、聞きます」
食堂の空気が、薄く止まった。マテルナ司祭の笑みは崩れなかった。
「食べる方々は、皆、回復の途中におられます。負担になる問いは避けていただけますか」
「はい」
セラフィナは頷いた。
「不満を聞くのではありません」
「では、何を」
「次に食べるなら、何がいいかを聞きます」
マテルナ司祭の目が、少しだけ冷えた。
「それは、不満とどう違うのでしょう」
「違います」
セラフィナは答えた。
「不満は、今の皿を責める言葉です。でも、次に食べたい形は、その人の体がまだ食卓へ戻ろうとしている言葉です」
マテルナ司祭は、すぐには返さなかった。サエは厨房の入口に立っていた。木匙を持ったまま、こちらを見ている。止める気はないらしい。止めないなら、見ていろ。
セラフィナは、まず昨日の子どものところへ行った。子どもは、粥の椀を両手で持っている。今日はいつもの粥だった。試作ではない。
セラフィナは膝をつく。
「食べられますか」
子どもは頷いた。
「はい」
「苦しくはありませんか」
「大丈夫です」
「では、次に食べるなら」
セラフィナは、ゆっくり言った。
「もう少し、どうだったら食べやすいですか」
子どもは困った顔をした。当然だ。そんなことを聞かれたことがない顔だった。
「……同じで、大丈夫です」
マテルナ司祭が微笑む。
「この子は、いつも感謝して食べています」
セラフィナは振り返らなかった。
「大丈夫、ではなくて」
彼女は、声を弱くした。
「少しでもいいです。次に同じ粥を食べるなら、どうだと怖くないですか」
子どもは椀を見た。匙で、粥を少し動かす。
「……温かい方が、いいです」
声は小さかった。
「最初だけ、温かいと……飲む前に、怖くないです」
食堂の空気が、また止まった。セラフィナは頷いた。
「ありがとうございます」
それは、決まり文句ではなかった。子どもは少し驚いた顔をした。
次に、セラフィナは痩せた巡礼者の前へ行った。昨日からずっと同じ席にいる男だ。頬が落ち、唇が乾いている。
「あなたは、どうですか」
巡礼者は首を振った。
「私は、いただけるだけで」
「それは分かっています」
セラフィナは言った。
「それでも、次に食べるなら」
巡礼者は答えない。マテルナ司祭が穏やかに言う。
「無理に答えなくてもよいのですよ。感謝は、言葉にしなくても女神へ届きます」
違う。今は感謝の話をしていない。
巡礼者はしばらく黙っていた。そして、かすれた声で言った。
「……匂いが」
サエの手が動いた。
「匂い?」
「あると、怖い時があります。でも、何もないと……何を飲むのか分からなくて、それも怖いです」
サエが目を伏せた。分かる顔だった。料理人が、食べる人間の言葉を材料として受け取った顔。
「少しだけ」
巡礼者は言った。
「食べる前に、分かる匂いがあると……怖くないです」
セラフィナは頷いた。
「分かりました」
次に、片腕を吊った兵士が口を開いた。
「俺は、少しだけ粒があった方がいい」
誰も聞いていないのに、言った。兵士は自分でも驚いたように口を閉じる。だが、もう遅い。言葉は出た。
「噛めるんですか」
サエが聞いた。
「少しなら」
兵士は気まずそうに答えた。
「噛まないと、腹に入れた気がしない。でも、大きいと疲れる。……わがままですまない」
「わがままではありません」
サエが言った。即答だった。自分でも驚いたように、サエは一瞬止まる。だが、言い直さなかった。
「わがままではありません」
もう一度言った。
食堂に、今までなかった音が増えていく。粥をすくう音ではない。木匙が椀に当たる音でもない。人が、次の一口について考える音だった。
マテルナ司祭の声が落ちた。
「皆さん」
その一言で、食堂の空気が締まる。
「救われる者が、選り好みをするものではありません」
静かだった。怒鳴ってはいない。だから、余計に響いた。
「食べられることは、恵みです。感謝を忘れた食卓には、不満が生まれます。不満は、回復を乱します」
子どもが椀を抱え直す。巡礼者が目を伏せる。兵士が口を閉じる。戻ろうとしている。いつもの食卓へ。いつもの返事へ。
セラフィナが立ち上がった。
「選り好みではありません」
声は、強くない。だが、逃げていない。
「食べる人の言葉です」
マテルナ司祭が、セラフィナを見る。
「聖女様。あなたは、救われる方々に不満を教えるおつもりですか」
「いいえ」
「では」
「私は、祈りの後に残った言葉を聞いています」
セラフィナは、自分の手を見る。
「痛みを取ることと、痛かった場所を聞かないことは、同じではありません。粥を出すことと、次に食べたい形を聞かないことも、同じではありません」
マテルナ司祭の眉が動いた。
「苦しむ方々に、選択の負担を与えるべきではありません」
「選べと言っているのではありません」
セラフィナは言った。
「聞いているだけです」
沈黙。その時、昨日の子どもが、椀を抱えたまま小さく口を開いた。皆が見る。子どもは、怯えたように肩を縮めた。
でも、言った。
「これは、贅沢ですか」
誰も答えられなかった。子どもは続ける。
「温かい方がいいって言うのは、贅沢ですか」
マテルナ司祭の笑みが、完全に消えた。俺なら、ここで殴ったかもしれない。だが、今ここで口を開くのは、俺ではなかった。
セラフィナは子どもの前に戻り、膝をついた。
「贅沢ではありません」
子どもが目を上げる。
「それは、あなたの体が食べる前に怖がっていることを、教えてくれた言葉です」
「……怒られませんか」
「怒られる言葉ではありません」
セラフィナは、ほんの少し笑った。
「聞くべき言葉です」
サエが、厨房の入口で息を吐いた。エドヴァルドは、食堂の端で腕を組んでいた。黙っている。だが、目は粥ではなく、人を見ている。
マテルナ司祭は、ゆっくり言った。
「聖女様のお言葉は、尊重いたします」
その声は丁寧だった。
「ですが、救護院には秩序があります。皆が皆、望みを口にすれば、混乱が生まれます。等しく与えられる慈悲こそが、弱った方々を守るのです」
等しく。その言葉に、サエの眉が動いた。俺は黙っていた。今は、まだ俺が口を挟むところではない。
セラフィナが答える。
「等しく与えることと、同じものだけを渡すことは、違うと思います」
マテルナ司祭の目が細くなる。
「……聖女様」
「私も、よく間違えます」
セラフィナは言った。
「祝福を、同じように流せばいいと思っていました。でも、痛い場所は同じではありません。怖い場所も同じではありません」
彼女は粥の椀を見る。
「だから、同じ粥を出すなら。せめて、食べた人の言葉は同じにしない方がいいと思います」
食堂のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。その音は、祈りではなかった。感謝でもなかった。少しだけ、口が開いた音だった。
マテルナ司祭は、それ以上その場で言い返さなかった。
「本日の食事を続けましょう」
彼女がそう言うと、修道女たちが動き出す。椀が下げられ、次の椀が配られる。
けれど、空気は戻りきらなかった。戻せなかった。
子どもは、自分の椀を両手で持っている。巡礼者は、食べる前に匂いを確かめている。兵士は、粥の粒を匙で探している。全部、小さい。だが、昨日までなかった動きだった。
サエが、厨房へ戻る前にセラフィナへ近づいた。
「聖女様」
「はい」
「今聞いたことを、全部は入れられません」
「分かっています」
「体に悪い希望もあります。叶えられないこともあります」
「はい」
「それでも、聞くべきですか」
セラフィナは少し考えた。
「聞いて、叶えられないなら、叶えられないと返すべきだと思います」
サエは黙った。「聞かないことと、叶えられないことは、違います」
その言葉は、セラフィナ自身にも刺さっているようだった。サエは小さく頷いた。
「……明日の仕込みで、少し試します」
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
サエはそう言って、厨房へ戻った。俺は、ようやくセラフィナの隣へ行った。
「よく聞いたな」
「怖かったです」
「だろうな」
「レンジさんなら、もっと強く言ったと思います」
「言っただろうな」
「それだと、皆さんは黙ったと思います」
「分かってる」
分かっている。だから黙っていた。
セラフィナは、食堂を見ていた。
「私は、祝福が怖いです」
「今さらか」
「今さらです」
彼女は、少しだけ笑った。
「痛みを取ることと、痛かった場所を聞かないことは、同じではありません。粥を出すことと、次に食べたい形を聞かないことも、同じではありません」
「消すな」
「はい」
セラフィナは頷いた。
「だから、次は聞きます。祝福の後に、何が残ったか」
いい顔だった。弱い顔ではない。優しい顔でもない。自分の祝福を、少し疑った顔だった。その顔なら、皿の横にいてもいい。
食堂の奥で、マテルナ司祭がこちらを見ていた。穏やかさは戻っている。だが、その奥に硬いものがある。次は、あの硬さが出てくるだろう。弱者に贅沢を教えるな。そういう顔だった。
俺は粥の大鍋を見た。今日、粥は変わっていない。変わったのは、粥の周りの口だ。まだ小さい。すぐ閉じる。誰かに見られれば、また感謝に戻る。
だが、一度開いた口は、鍋の中身より厄介だ。
俺は空の椀を手に取った。明日は、鍋を割る。いや、割るな。食べられなくなる。
分ければいい。同じ鍋で黙らせているなら、鍋を分ければいい。
厨房の方で、サエが木匙を置く音がした。




