第1話 灰を拾う朝
暖炉の灰の中に、今朝も黒い染みのついた紙片が一枚残っていた。
小指の爪ほどの大きさ。端が丸く焼けて、真ん中だけ炭化を免れている。鉄媒染のインクは完全には燃えない。それを知ったのは八歳の冬で、理由を知ったのはもっと後だった。
ふるいを傾けて、灰を落とす。
粉が舞い上がって鼻の奥に入る。くしゃみを噛み殺すと、目の奥がじんと痛んだ。冬の灰は湿気を吸って重い。腕に来る。
紙片を指で摘まみ、袖の内側に隠しておいた油紙の上に載せた。
三文字。
「ヴォル」。
続きは読めない。焼けている。ここ二週間ほど、似たような断片を何度か見かけている。同じ名前の一部かもしれない。別の単語かもしれない。灰からは断片しか出てこない。続きは焼けている。いつもそうだ。
油紙を小さく折り、左の袖口に滑り込ませた。
ベルタはまだ来ていない。洗濯場の湯を沸かすのに手間取っているのだろう。耳の遠いあの人は、私が灰を触っていることに特に意味を見ない。「お嬢様が手伝ってくれる」。それだけ。それでいい。
ふるいを元の場所に戻し、灰受けを暖炉の下に押し込む。膝をついていた石畳が冷たくて、立ち上がると膝の皿が痛い。
作業用の手袋を外した。指の腹が黒い。爪の間に灰が入り込んでいる。
石鹸で洗えば薄くなる。消えはしない。もう何年も消えていない。手袋をしていれば隠せるが、薄い木綿の作業用の手袋はすぐに穴が開く。今の一組も、親指の先がほつれかけている。
食堂には誰もいなかった。
正確には、もう誰もいなかった。父と継母とゾフィーの朝食は終わっていて、テーブルの端に私の分が残されている。
スープ皿を覗く。表面に白い脂の膜が張っていた。匙で割ると、中はぬるい。温め直すほどの量でもない。パンは硬くなりかけている。
座って、食べた。
脂の膜が唇に張りつく感触が嫌で、先に匙の背で端に寄せた。こんなことをしている間にスープはさらにぬるくなる。分かっている。分かっているが、あの白い膜を口に入れるのがどうしても嫌だった。
食べ終えて、皿を下げようとした時、廊下から足音がした。軽い。ゾフィーだ。
「お姉様!」
扉が開く前に声が来る。この子はいつもそうだ。
「お姉様、今度のパーティ、一緒に行けるのですって! お父様がそうしろって」
ゾフィーの頬は薄く紅が差している。朝から身支度をしていたのだろう。ドレスは新しい。淡い藤色。仕立てが良い。
私のドレスは、ゾフィーが去年の社交シーズンで着たものだ。脇が少しきつい。
「ええ。聞いています」
「嬉しい! お姉様がいると安心するの」
そう言って笑う。悪意はない。この子には、いつも悪意がない。
だからどうしようもない。
「あの子は何も感じないから」と継母が使用人に言っているのを、先週、廊下の角で聞いた。ゾフィーはそれを知らない。知らないまま、私の隣で笑っている。
私はゾフィーに微笑み返した。口元だけ。目は——たぶん、いつも通りだ。
パーティの付き添い。体面のため。公爵家の長女が引きこもっていては外聞が悪い。それだけの理由で席が用意される。選んだのではない。命じられたのだ。
ゾフィーが去った後、皿を持って立ち上がった。スープはもう完全に冷めていた。
部屋に戻る。
北向きの、暖炉のない部屋。冬は息が白い。
机の上に手帳を開いた。数字が並んでいる。家計簿に見える。そう見えるように書いている。
インク瓶の蓋を開けた。冬の朝はインクが硬い。瓶を両手で包んで、少しだけ温める。
袖口から油紙を出し、紙片を広げた。
「ヴォル」。
手帳に数字を書き込む。日付と、紙片の状態と、読めた文字を、決めた法則で変換した数字に直す。誰が見ても家計簿だ。卵の値段と薪の束数にしか見えない。
ここ三ヶ月で、灰から出る紙片の量が増えている。
以前は週に一枚あるかないかだった。今は、三日に二枚。誰かが、いつもより多くの紙を燃やしている。父の書斎の暖炉。あそこは私が靴磨きの名目で出入りする場所だから、灰の変化に気づける。
何が起きているのかは、まだ見えない。
「ヴォル」が人名の一部なのか、地名なのか、それすら確定できない。
手帳を閉じた。
インク瓶の蓋を戻す。作業用の手袋は机の端に置いてある。親指のほつれが少し広がった。繕う糸がない。
十四年、こうしている。
母が死ぬ前に言った言葉がある。
「暖炉を見ていなさい」
六歳の私には意味が分からなかった。暖炉を見た。灰を見た。最初は何年も、ただ見ていただけだった。文字の痕跡に気づいたのは八歳。油紙で保存することを覚えたのは十二歳。手帳に暗号で記録し始めたのは十五歳。
それが何のためなのか、まだ分かっていない。
母が何を伝えたかったのかも、分かっていない。
ただ、やめなかった。やめる理由もなかった。北向きの部屋で、暖炉もなく、温かいスープも出ず、名前を呼ばれるのは命令の時だけ。
灰はまだ少し温かい。朝一番の暖炉の残り熱。指先がかじかんでいる時、灰の温度だけが手に残る。それだけのことだ。理由にはならない。でも、やめなかった。
午後、ベルタの灰捨ての手伝いに行った。
客間と、廊下の二基分。こちらの灰は何もない。紙片は出ない。ただの薪の灰だ。
ベルタが大きな声で言った。耳が遠いから、いつも声が大きい。
「お嬢様、最近この暖炉の灰が多いねえ」
父の書斎のことではない。客間の暖炉だ。来客が増えているのだろう。
「そうですね」
「お客さんが多いと薪が減るよ。冬はまだ長いのにねえ」
ベルタは灰の量を薪の消費としか見ない。それが普通だ。灰は灰。捨てるもの。
でも——書斎の灰が増えているのは、薪の問題ではない。
誰かが紙を燃やしている。いつもより多く。いつもより頻繁に。
何を。
袖の中の油紙が、腕に触れている。薄い紙一枚の重さ。
「ヴォル」。
三文字。それだけしか読めない。
◇
夜。部屋に戻る途中で、書斎の前を通った。
灰の確認ではない。ただ、部屋への近道がここを通る。
扉は閉まっていた。だが、隙間から声が漏れていた。
父の声。低い。
「——の件は急げ」
継母の声が答えた。
「分かっています。でも、書類の——」
父が遮った。
「あの子が二十歳になる前に済ませろ」
足が止まった。
あの子。この屋敷で二十歳が近いのは、私だけだ。ゾフィーはまだ十七。
靴の中で、髪飾りの角が足裏に当たっている。
何の件か。何を急いでいるのか。何を「二十歳の前に」済ませなければならないのか。
足音を殺して、その場を離れた。書斎の前に立ち止まっていたのは、五秒ほどだ。
部屋に戻った。手帳を開いた。
「ヴォル」の三文字。そして今夜の、「二十歳になる前に」。
灰の断片と、壁越しの声。どちらも全体が見えない。
だが——灰が増えている。父が急いでいる。何かが動いている。




