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第二十話 帰り道の先に

入院の日、荷物は少なかった。


着替え。洗面道具。眼鏡の予備。充電器。

それだけで足りる年齢になっていた。足りる、というより、増やさなくなったのだと思う。


病室の窓は東向きで、朝の光だけは律儀だった。

棚の上の時計は静かに進み、点滴の袋は透明なまま少しずつ軽くなる。看護師の足音は、廊下の角でいつも丸くなる。そういう音を、以前よりよく拾うようになった。


体の中に、よくないものが見つかってから、季節はいくつか進んだ。


通う日が増え、説明を受ける日が増え、数字を見る日が増えた。

治す、抑える、整える、様子を見る。人は大きなことほど、やわらかい言葉で言い換える。


私も、いくつか試した。

光を当てること。薬を入れること。眠っている力を起こそうとすること。

効いた日もあれば、そうでない日もあった。少し持ち直したように見えて、別のところで疲れていた日もある。


医師は丁寧だった。

看護師も親切だった。

誰も嘘は言わなかったし、必要以上に暗くもしなかった。


それでも、体は自分のものだからわかる。


朝、起き上がる前に一度呼吸を整えるようになった。

以前なら何でもなかった距離で、途中の椅子を意識する日が出てきた。

シャツの袖を通すだけで、少し休みたくなる朝もある。

食事は出される。食べたい気持ちはあるのに、途中で箸が止まる。温かいものより、冷たいもののほうが口へ入りやすい日もあった。


できないことが急に増えるわけではない。

昨日できたことが、今日は少し重い。

その“少し”が、静かに積もっていく。


横になっている時間が、増えていった。


その変化を、私は知っていた。

いや、知っていた気になっていただけかもしれない。


あの人が昔、静かな声で言っていた。


——横になっている時間のほうが長い場所にいるの。


そのとき私は、言葉として受け取った。

今は、体でわかる。


横になる、というのは休む姿勢ではない。

重さを分ける工夫で、残った力を次の時間へ回す方法だ。座っているだけでも、体は思っているより働いている。


病室でできることは少ない。


窓の外の天気を見る。

配膳車の音で時刻を知る。

テレビをつけて、内容を覚えない。

同じ看護師の歩き方を見分ける。

点滴の管が絡まない位置を探す。

眠って、起きて、また少し眠る。


そして、ときどき目を閉じる。


あの場所へ戻ろうと思えば、手続きはできたのかもしれない。

記録の保管期間がどうなっていたかは知らない。更新すれば、また扉は開いたのかもしれない。


けれど、行きたいとは思わなかった。


不思議なくらい、思わなかった。


あの場所には、椅子も、光も、風も、午後の整った時間もあった。

現実より軽い足取りで歩ける道もあった。

若い声も、若い顔も、失われない景色もあった。


けれど、あの人はいない。


それだけで、十分だった。


いや、違う。

いないから行かない、というだけではない。


あの人と過ごした時間が、もう終わったものとして綺麗に残っていた。

綺麗に残っているものへ、後から手を入れたくなかった。


人は、思い出を磨くことはできても、続きを足すと濁ることがある。


私はそれを恐れていたのかもしれない。


病室の天井を見ながら、昔のことを思い出す日が増えた。


子どもの頃の通学路。

初めて給料で買った腕時計。

働き始めた頃の上司の怒鳴り声。

終電の匂い。

冬の賞与の日の気楽さ。

定年の朝の、妙に晴れた空。


思い出はある。

それなりにある。


けれど、不思議なことに、細部が欠けている。


何年目のことだったか。

誰と一緒だったか。

本当に嬉しかったのか、あとから嬉しかったことにしたのか。

そのあたりは曖昧になる。


人生は長いぶん、薄まる。


けれど、あの人とのことは違った。


窓の白さを覚えている。

カップの取っ手の角度を覚えている。

砂糖壺の位置を覚えている。

歩く速度。

紙袋の折り目。

笑う前の間。

こちらを見ずに、同じ景色を見る時間。


細かいところほど、残っている。


これが恋なのだろうか、と時々思う。


若いころ、恋愛らしい恋愛はしなかった。

仕事を理由に後回しにした。忙しかったのも本当だし、臆病だったのも本当だ。誰かを強く必要とする前に、締切や数字や責任のほうが先に来た。


それでも生活は成り立った。


働き、食べ、眠り、年を取り、退職し、日用品を買い、ニュースに腹を立て、季節の変わり目に服を入れ替える。


それはそれで、十分に人生だった。

不足ばかりではない。笑った日も多かった。私は私なりに、ちゃんと暮らしてきた。


ただ、あの人と出会って、少しだけ昔に戻った。


昔というのは年齢ではない。

心の動き方だ。


返事を待つこと。

同じ時間が近づくと少し落ち着かなくなること。

相手の体調で天気まで違って見えること。

何でもない一言を、帰ってから思い返すこと。


甘酸っぱい、という言葉を若いころは少し馬鹿にしていた。

けれど、あれは味ではなく、時間のことだったのだと思う。


胸の奥が少し痛く、でも悪くない。

そういう時間の味だ。


もっと早く出会っていたら、と思わないでもない。


二十代で。

三十代で。

まだ忙しく、まだ健康で、まだ先の長かったころに。


けれど、たぶん駄目だっただろう。


あのころの私は急ぎすぎていた。

相手を待つより、予定を守ることに慣れていた。

あの人も、あの人で別の人生の途中にいたはずだ。


あの世界だったから。

あの年齢だったから。

残り時間を知り始めたころだったから。


出会えた。


それでいい。

たぶん、それがいい。


病状は少しずつ進んだ。


起きている時間より、まどろんでいる時間が増えた。

食事は形より、口あたりで選ぶようになった。

会話の途中で眠気が差し込み、目が覚めると話題だけが先へ進んでいる。

昼と夜の境目が、少しずつ薄くなる。


窓の外では、季節だけがきちんと進んでいた。


ある朝、桜が見えた。

次に気づいたときには葉が濃くなっていた。

その次には、陽の高さが変わっていた。


私はもう、長くないのだろうと思った。


怖さがないわけではない。

痛みもある。苦しさもある。

終わることへの未練も、少しはある。


けれど、不思議と取り乱しはしなかった。


人生には、必ず終わりが来る。

それを知りながら、皆、途中を生きている。

私にも、その順番が来ただけだ。


もしあの人に会わなかったら、どうだっただろう。


もっと静かで、もっと平らで、少し退屈な老後だったかもしれない。

それも悪くはなかったろう。


けれど私は、午後の立ち上がりを知った。

誰かと同じ時間を持つ喜びを知った。

遅れて来た青春のようなものを知った。


いい人生にしてくれて、ありがとう。


声には出さない。

出さなくても、届く気がした。


夜、痛み止めが少し増えた。

窓は暗く、廊下の灯りだけが細く差している。私は手のひらを開いて閉じる。若いころより骨ばって、あのころより少し軽い手だ。


この手で、仕事をした。

鍵を回した。

カップを持った。

誰かの温度を、ほんの少しだけ覚えた。


十分だと思った。


その後、月日は静かに流れた。


ある朝、病室の窓に薄い光が差した。

看護師がカーテンを少し開け、空気を入れ替えた。ベッドの上の呼吸は浅く、間が長かったという。


昼前には、点滴の滴る音だけが規則正しかった。

午後には医師が呼ばれ、必要な連絡がなされた。書類は丁寧にまとめられ、棚の私物は小さな袋へ収められた。


夕方、病室は整えられた。


しわのない白いシーツ。

空になったコップ。

窓辺に残る、傾いた光だけ。


人生には、必ず終わりが来る。


けれど、終わるから消えるわけではない。

同じ時間に座った午後。

言葉になりきらなかった気持ち。

遅れて訪れた青春の味。

そういうものは、どこにも置かれず、誰にも見えず、それでも確かに残る。


病室はやがて次の人のために使われる。

窓はまた朝を入れ、廊下では新しい足音が曲がり角を曲がる。


帰り道の先には、たいてい何も書いていない。


だから人は、途中で誰かと並んだ時間を、

生涯と呼ぶのかもしれない。

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