106. 両親
リトル・ウィング村に、春が近づいていた。
小羽屋の南側に立つ一本の大樹ムーランの木が、薄ピンク色のの蕾を
たわわに抱き始めていた。
冬の名残をほんの少しだけ枝先に留めながら
それでも木は確実に、次の季節を迎え入れる準備をしていた。
控え室の窓から見えるその木を眺めながら
ユーリは一息ついた。
「もうすぐ1年、か。」
魔法学校を卒業し、内定先を断って
リトル・ウィングに来たのが、ちょうど一年前の春。
その時もあの木が見事な花をつけていた。
何もかもが混乱の中にあった宿屋・小羽屋を
どうにか今日まで動かしてきた。
宿の台帳、仕入れリスト
各部屋の修繕計画・・・散らかった机の上には
様々な書類が雑多に積み上げられていた。
それらをかき分けながら
ユーリは羽根ペンを走らせていた。
コンコン。
控え室の扉をノックする音。
ユーリが顔を上げて「はい」と返事をする。
「邪魔するわね」
入ってきたのはフィヨナだった。
長らく悩まされていた足と腰の手術を王都で受け
昨日ようやく小羽屋へ戻ってきたばかりである。
まだ杖をついていたが
表情は明るく、何より穏やかだった。
「おばあちゃん、そんなに歩いて大丈夫?」
ユーリは心配だった。
「ええ、動きすぎなければね。
本調子、とはいかないけれど。
リハビリもしたいのよ。」
とにっこり笑うと
彼女は手にした封筒をユーリに差し出した。
「これ、届いてたわよ。」
「ありがとう。・・・ん?」
封筒の裏を見ると、見覚えのある名前、筆跡の署名。
カリナ・ローワン
ルイス・ローワン
ユーリは、心の中で何かがスッ引いた音がした。
ただ封を切り、さらさらと内容を目で追った。
______
ユーリ、フィヨナ
お元気ですか?
今月末、仕事の都合で東大陸へ向かいます。
滞在の合間にリトル・ウィングへ立ち寄る予定です。
x月xx日からx月xx日まで、お部屋空いていますか?
カリナ・ルイス
______
非常に簡素な文であった。
そして、書き記されている日付は再来週である。
なんて急な・・・
ユーリはその手紙を黙って机に置いた。
「・・・何しに来るの?」
フィヨナおばあちゃんは返事をせず
代わりにユーリの机の上を見てため息をついた。
どさっと、目の前の書類の山が崩れる音がした。
「あらあら、お仕事はできる子なのに、机の整理は相変わらずなのね。」
手を伸ばして書類をまとめ始めながら
言葉を続けた。
「あなたに会いに来るのよ。」
「それ、おばあちゃんの解釈でしょ」
ユーリは目を伏せ、静かに続けた。
「こっちの大陸に来るついでに、寄るだけだよ。いつもそうだったし。」
フィヨナは、書類を整え終えると
そっと椅子に腰を下ろした。
「あの二人も必死だったのよ。
ミノルテ島が戦火に飲まれて
可愛い盛りのあなたを私たち夫婦に預けてくれる。
そのくらいにはね。」
カリナ・ローワン
ルイス・ローワン
ユーリの両親である。
数十年前、故郷であったミノルテ島を追われ
ローワン一家・・・最もユーリを含めこの3名のみであるが
何とか島から脱出ができた。
しかし、その後のいくアテがあったわけでもなく
乳幼児のユーリは王都近くに住んでいた父、ルイスの遠縁
フィヨナ、ゴルム・リンデン夫妻に預け
自身たちは、移民を積極的に招致していた
西大陸の人間自治区へと出稼ぎに出ていたのであった。
フィヨナは穏やかに付け足した。
「送ってくれた厨房機材のことも、ちゃんとお話ししないとね。」
ユーリは今度は自身の両親に残酷な気持ちが芽生えた。
しかし、それはオブラートに包む・・・
いや、ドワーフ製の金庫にでも押し隠す気持ちで発言した。
「それは無視しといていいよ。
あの人たち、物さえ送っとけば良いって
思ってるんだから。」
ユーリは怒りというより、呆れに近い感情が沸いていた。
ユーリの記憶で両親に会ったのは
年に1回あるかないか・・・
そして、この3年間はユーリも会っていない。
誕生日のプレゼント、どこかの出張土産
年始のお祝いの品・・・
そんなものは、よく届いたことを思い出す。
届いたそれらの品を見た、幼き日のユーリは
嬉しい反面
何故両親が直接届けてくれないのかと
寂しく、悲しい気持ちになったことも
一緒に思い出されてきた。
フィヨナおばあちゃんは
ユーリのその顔を察していたに違いない。
再び、フィヨナは静かに口を開いた。
「島を逃げるのがやっとで
道中も安全とは言えなかった。
西大陸だって、安定した生活が送れる保証もなかったんだから。
それでも、ユーリには“ちゃんとした場所”で生きてほしいって
そう言って私たちに預けてくれたのよ。」
フィヨナをユーリの手をそっと握り撫でた。
ユーリはハッと我に帰った。
慌てて付け加える。
「その流れを否定はしないよ・・・
おかげで私はフィヨナおばあちゃんとゴルムおじいちゃんに
会えたわけだし!」
ユーリは小さい日のあの寂しさは
下を向いて目をグッと瞑ることで無理やり拭い去った。
それ以前に、その"寂しさ"は
フィヨナおばあちゃんとゴルムおじいちゃんに
とっくの昔に癒してもらっているのだ。
「別に、その辺の事情はわかってるよ!
私だってもう大人なんだから!
そうじゃなくて、あの人たち
あんな立派な機材、何の相談もなしに送りつけるなんて
非常識すぎだよ!!」
「ユーリ・・・まあ、そうね。私もあれは驚いたわ。
設置工事の職人さんが朝から来て
どんどん新しい設備が増えていって。」
フィヨナは、困ったように、それでいて少し懐かしそうに笑った。
「でも、その設備、今じゃすっかり馴染んでるわ。
あなたが使いこなしてるからね。」
「それもさ、ユーリに聞け、なんて言って!
私がここに来るように仕向けてるみたいじゃない!」
ユーリはフィヨナおばあちゃんの手をそっと離した。
「いつもあの人達の、手紙とか物とかで
その場にいなくても遠くから指図するこの感じ!
すっごい腹たつの!」
ユーリは勢いよく立ち上がった。
机の端に積み上がっていた書類の山がまた、バサリと崩れ落ちた。
羽根ペンが転がり、書類に染みを作ってしまった。
ユーリはそれを見て更にムカムカとしてきた。
「こっちは、こっちで精一杯なのに!
こっちの状況とか苦労なんて何も知らないくせに!」
書類を再びかき集めながらブツブツ呟く。
何やら自分でも久しぶりに頭に血が上るのがわかった。
フィヨナは、椅子に座ったまま、落ち着いた表情でユーリを見ていた。
「あなたの怒りは当然よ。ユーリ。」
その一言に、ユーリは動きを止めた。
自分でもわかる。
きっと今の自分の顔は
顎の下に皺ができていて
しょぼくれた幼な子みたいな顔をしている・・・
「あなたは子どもの頃からずっと
訳のわからない大人の都合で振り回されてきた。
きっと私達や、ルイス、カリナ達にに迷惑をかけまいと
ぐっと我慢してたのよね。」
フィヨナの申し訳なさそうな顔はユーリには堪える。
ユーリにとってフィヨナは
恩があるとか言う以前に
単純に慕っているのだ。
「それは・・・今更、別にいいんだってば!
そうじゃなくて!
来るのが“今”なのが、腹立つの!
都の学校を卒業したときも、就職の内定が出たときも
何の反応もなかったくせに!
宿を継いで、やっと経営が落ち着いて
ある程度うまくいってる“今”来るって何?
まるで“成果報告”でも聞きに来るみたいにさ!」
ユーリは乱暴に書類を元の位置に収めた。
しかし、少々冷静になってくると別の感情が湧いてきた。
両親が来て、ユーリが上手くやっていないと
思われるのもかなり癪であった。
「もういいよ、あの人たちに
ここで私が上手くやってるって思い知らせる。
厨房器具のお金だって
私がこれから売り上げて耳揃えて返すって宣言するから。」
フィヨナは、少々困った顔をしていた。
しかし、間を置いてからようやく動いた。
それじゃ、おもてなしのために
私も料理を少し仕込むことにするわね。
と言葉少なめに言うと控え室を後にした。
そのしばらくの間控え室には
ユーリが羽根ペンを滑らせる音だけが響いた。
詳細第一章を見てくださいね。