96. モメラス
雰囲気が腐っていて、目がヤバイ。
それは、モメラスがユーリに向けて放った言葉だった。
しかし、それが自身を心から案じてのものだと
ユーリにも伝わっていた。
そして今回は、自覚もあった。
“一歩も外に出られない“という事実。
新たな特需が発生し、実際のところ外に出る余裕などなかった。
それは確かだ。
だが、“忙しくて出かけられない”のと、
“一歩も外に出られない”のとでは
ルミナス山ほどの差がある。
“外に出られない“という現実は
心に重くのしかかり、ユーリを内側から締め付けていた。
ユーリは文字通り
この小羽屋に縛りつけられていたのだった。
「まだ外には出られないの?」
モメラスが心配そうに問いかけた。
魔力の回復具合について尋ねられれば
答えは「否」だった。
ユーリは静かに首を横に振る。
モメラスは少し訝しげな表情を浮かべた。
「これじゃ、根本的な解決になってないじゃないか。
君をここに置いておくことで
安心できるのかもしれないけど・・・」
言いかけた言葉を、モメラスはふと切った。
そして少し沈黙したのち、こう言った。
「ねえ、ユーリ。今夜、少し飲まない?
外じゃなくていい。食堂はお客の目があるし
控え室でも、どこでも。
俺が酒とつまみを持っていくよ。」
思いがけない提案に、ユーリはわずかに目を見開いたが
その真意はすぐに伝わった。
今の自分にとって、それはとてもありがたい申し出だった。
「うん、そうしたい。今日は大丈夫なの?」
「ちょっとだけ用事を済ませたらね。
ザイカにも声かけて・・・いや、今はやめとこう。
あのカップルの邪魔はしたくないし。」
その夜、二人は全ての仕事を終えた後
食堂の端の席でこっそりと飲むことにした。
控え室には転移の鏡があるため
なんとなく、避けたかったのだ。
モメラスはエールを持参してくれた。
つまみは、ユーリが昨日作りすぎた料理の残り。
モメラスは「美味しい、美味しい」と言いながら
気持ちよく食べてくれた。
ユーリは、食べながら、飲みながら
モメラスにいろいろなことを語った。
オーガの使節団を受け入れた時の反省。
オランジェリーパーティで嫌な思いをした事。
ザラストルの気持ち悪さ。
シュンテンが気にかけてくれる事。
マリーン先生の魔法陣の事。
サムエルのこと・・・
モメラスは否定も、肯定もせず
ただ「うん、うん」と頷きながら
聞いてくれていた。
つまみがだいぶ減り
エールが空になり
飲み物をジンライムに切り替える頃には、
ユーリの心は少し軽くなっていた。
「モメラス、聞いてくれてありがとう。
悪口とか愚痴って、ずっと無駄な事だと思ってたんだけど
言葉にするだけで問題が整理されて
少し楽になるね。」
「どういたしまして。
今の君、いつものユーリに戻った気がする。
本当に、よかった。
また何かあったら、いつでも付き合うよ。」
モメラスは優しく微笑んだ。
その表情に、ユーリは思わず涙が出そうになった。
「モメラスって、一緒にいると落ち着くし、楽しい。」
「え、そう?」
「うん、本当に。
すごい能力を持ってるのに
ちっとも鼻にかけないし。
そういうところも、尊敬してる。」
「急にどうしたの?でも、ありがとう。」
モメラスは素直に嬉しそうに、そして少し照れていた。
「なんていうか、価値観が合うというか。
男女種族を超えた友情っていうか。
モメラスも、私のことを変に
異性として意識してないから
一緒にいて安心する。」
「・・・どうしてそう思うの?」
「え?」
「俺は今も、どうやってユーリを口説こうかって
考えてるよ?」
予想を超えたその言葉に、一瞬戸狼狽えるユーリ。
だが、すぐに吹き出した。
「って、考えてるだけかい!
じゃあ、いつ口説くの?」
「さぁ?いつにしようかな?」
モメラスは俯いて、クスッと笑った。
「今じゃないんかい!
そうやってからかうの、やめて!」
と、ユーリも笑いながらジンライムを飲んだ。
「今度は、ザイカとブロムも誘って、皆で飲もうね。」
今回は急だったので声はかけられなかったが
みんなで楽しく飲めたらいいなと
ユーリはふと思った。
よく考えてみれば、モメラスと二人きりという状況は
かなり珍しいことに気づいた。
ふと時計を見ると、時刻は午後11時。
こんな時間までモメラスが残っているのは珍しい。
「今日は帰っちゃわないんだね。」
「さすがに、今日は君を一人にしないよ。
ちゃんと居住棟まで送ります。」
まるで当然のようにモメラスは言った。
「じゃないと、ユーリ。
君、お客様相手に管巻き始めるかもしれないし。」
「なっ!? そんなことしないよ!!」
それは心外だった。
ユーリには、お客様の前では
酔いすらも吹き飛ばせる自信があったのだ。
しかしモメラスは呆れたように笑って指摘した。
「ユーリ、自分で思ってるより酒癖悪いからね?
特に酔ってる時言動を忘れるの!
本当に気をつけなよ!」
「・・・え?
私、何か変なこと言ってる?」
急に不安になったユーリが問う。
「言ってる。」
その顔は笑っていたが、少し真面目でもあった。
「ちょっと、モメラス!?
からかわないで!!教えて!!」
ユーリが強目に食いついたが
モメラスはハハハと笑うばかりだった。
日付が変わるころ、二人の飲み会はお開きとなった。
宿泊棟から居住棟までは数十メートル。
しかしモメラスはしっかりと付き添ってくれた。
外は雪に覆われているが
積もる雪はどこか温かみがある。
「ユーリ、俺には君の現状を変える力がない。
本当にごめん。」
歩きながら、モメラスがぽつりとつぶやいた。
モメラスの口から白い息が出て夜気に混じり
それは、すぐに消えた。
「なんでモメラスが謝るの?
あのときモメラスが応急処置してくれなかったら、
私は完全に失明してたし
魔法も使えなくなってたって
クロエさんが言ってた。
・・・ちゃんとお礼、言ってなかったね。」
ユーリは立ち止まり、モメラスに向き直って頭を下げた。
「いつも助けてくれて、本当にありがとう。」
雪が音を吸収し、あたりはしんと静かだった。
湿った冷たい匂いがツンと鼻を刺す。
モメラスはしばらく黙ってユーリを見ていたが
やがて歩き出した。
雪を踏みしめる音が、心地よく響いた。
「俺には、俺にできることしかできない。
でも、できることは全力でやるよ。
これからも。」
ユーリはその言葉を咀嚼しようと努力したが
真意を受け切る事ができなかった。
「寒いし、風邪ひくよ。早く帰ろう。」
振り返ったモメラスの笑顔は、やさしかった。
夜の雪は、わずかな光を集めて
暗がりに、静かな明るさを生み出している。
しかし、今年一番の寒さはもう過ぎた。
これからは、少しずつ、確かに
暖かくなっていくのだろう。