第三話
かつてリサがこの世界へ渡ってきたという雪の夜。
それは、その冬初めての雪だったそうだ。
ごうごうとすさまじい音を立てて、つぶてのように雪が吹きつけ視界を真っ白に覆う。
温もりを、色を、命さえも奪い取ろうとする白。
その話を聞いてから、リサの耳の奥ではいつも吹雪の音が響いているようだ。
オズウェルに愛を囁かれるたび、優しくされるたび、胸が痛む。
あなたに何がわかるというの。
あなたを愛せるとでも思うの。
思い出さないことが、あなただけの不幸だとでもいうの。
◇◇◇◇◇
リサの記憶では七度目の雪の夜。
オズウェルは火急の用事で宮廷へと呼ばれた。
吹雪の中飛び出したあの夜から、雪が降っている夜にはリサのそばから絶対に離れなかったオズウェルだが、今回ばかりは叶わなかった。
ずっと膠着状態にあった隣国との戦いが本格化したためだ。
宮廷魔法剣士は、その名の通り、宮廷に仕え魔法と剣をふるう。
本来なら常に宮廷へ詰めているものなのだが、オズウェルは己の持ちうるすべてで我儘を通してリサのそばにいた。
デューイが頻繁に顔を見せては口うるさく介入してきていたのも、最低限オズウェルに職務を忘れさせないためらしい。
だが、そういった我儘は、有事の際は許されることではない。
くれぐれも家を出てはいけない、と念を押してオズウェルは出掛けていった。
「なかなかやみませんねぇ」
暖炉の火をぼんやりと眺めていると、通いのメイドに声を掛けられる。
彼女はいつもなら日中に来るのだが、今日家をあけるオズウェルが無理を言い、夕刻から来てもらっているのだ。
「そうですね。……オズウェルさんは、大丈夫でしょうか」
口にしてしまってから、ハッとリサは息を詰める。
オズウェルがそばにいなくて心もとない、と思っている自分に気づいたからだ。
――重苦しいように感じていた存在を、そんな風に思うことがあるなんて。
そんなリサの動揺には気づかず、メイドは微笑んだ。
「大丈夫でしょう。オズウェルさんは、宮廷魔法剣士の前衛部隊の副長を担っている方なんですよ。戦にも慣れていらっしゃいます」
「副長……」
そういえば、デューイがそのようなことを言っていた気がする。
思い返しながら、リサは恥じるような気持ちになった。
オズウェルに世話になりながら、彼に興味を持たないように過ごしてきた。
正しい年齢も、宮廷魔法剣士という職業に関しても、知らない。
知る必要などない、と目を瞑ってきたのだ。
それは、オズウェルのことを好きになりたくなかったからだ。
好きになってしまえば、何もかもが誰かの思惑通りに動いてしまうようで、どうしても耐えられなかったのだ。
好きにならないことだけが、リサが梨咲であるという最後の証明になるようで。
――手放せなかったのだ。
「あの……」
今更オズウェルに聞くことはできないが、この人の好さそうな通いのメイドになら聞ける気がした。
迷いながらリサが口を開いたそのとき、激しく扉を叩く音がした。
「誰でしょう? 見て来ますね」
不審そうに出て行ったメイドは、間もなく青ざめた顔で戻ってきた。
何があったのかと問う前に、彼女の後ろに立つ姿に気づく。
そこには、肩にも髪にもたくさんの雪を纏わりつかせ、いつもよりもずっと厳めしい顔をしたデューイがいた。
戦場からそのまま来たのか、衣服はあちこちが汚れ、ところどころは焦げついているように煤けていた。どこかから錆の臭いがする。
「……デューイさん? どうしたんですか」
リサが問うても、デューイは口を開かない。
険しい顔のままリサを見つめているようで、どこか遠くの何かを睨みつけているような表情のままだ。
とうとうメイドがぶるぶると震えだした。
透明な滴がみるみるうちに溢れ、彼女の頬を濡らしていく。
「リ、リサさん……オズウェルさんが……」
メイドは懸命にことばを紡ごうしているが、片端から震えて意味を結ばない。
宥めるように彼女の肩に手を置いてデューイを見上げれば、ようやく重い口が少しだけ動く。
「オズウェルが、いなくなった」
「――いない? どういうことですか?」
眉間にしわが寄るのを感じながら、そのまま反芻する。
ゆるゆるとデューイが首を振るのに合わせ、雪が溶けて絨毯の上へ散っていく。
「ことばのままだ。死んだという確認ができない。生きているという確認もできない。いないとしか言えない」
隣国との最前線。
大規模な魔術の発動の中心に、オズウェルがいたはずだった。
だが、爆発が収まった後には、えぐれた地面と有機物がかつてあったという名残の炭だけ。
敵の宮廷魔法剣士ももちろん、どこにも、オズウェルの気配は見当たらなかった。
デューイのことばがゆるりと円を描きながら、脳裏に落ちてくる。
死んだか、わからない。
生きているか、わからない。
ぐにゃりと足元が歪んだような気がした。
「……捜して、いるのよね?」
「今回の爆発で、隣国の魔法剣士も多数消えた。相手の出方次第では、どこまで戦火が広がるか想像もつかない。これから王宮へ戻り、前線部隊を立て直すのが先だ」
薪がはぜる音で、リサの小さな声はかき消された。
戦いとは、そういうものなのか。
前衛部隊で副隊長まで務めている人が行方不明になったというのに、満足に探すことができないなんて。
デューイ自身だって、それでいいと思っていないことは態度にありありと出ているのに、どうしようもないということなのだ。
ほのかな苛立ちとともにこみ上げるのは、やはりここがリサの知る世界ではないのだという虚しさだった。
ごうごうと吹雪の音が止まらない。
それが外から聞こえるものなのか、リサの耳の奥でするものなのか、わからなかった。
「……私……私は何をしたら……」
呆然とつぶやくリサに、初めてデューイが痛ましそうに目を細めた。
「なにも」
閉ざされた扉の前で、リサは身じろぎできなかった。
縫い止められたように足が動かない。浅く速い自身の呼吸がやけにうるさかった。
デューイがまた来ると言い残して帰り、メイドも自宅へ帰ったことさえ遠い過去のことのように感じる。
二人を送り出すとき、自分は何と言っただろうか。
扉には施錠をしただろうか。
今は一体何時なの?
「ただいま、リサ。今日のお昼は何を食べたの?」
優しい声が聞こえた気がして、はじかれたようにリサは振り向く。
だが、そこには誰もおらず、ただ赤々と燃える暖炉があるばかりだ。
「どうして……」
こんなこと、許されると思うのか。
勝手にリサのことを好きだと言って、勝手にいなくなって。
そのときのリサは同意したかもしれないけれど、今のリサはオズウェルのために記憶を失うことに同意などしていない。
記憶はない。頼るべき人もいない。
いつもであれば、オズウェルに直接ぶつけたであろう苛立ちは、どこへも行けずそのままリサの爪先をたどって掌の皮膚を破った。
掌を滴る赤いものに、先程デューイが纏っていた錆の臭いが血だったのだと、今更気づく。
あれは、デューイ自身のものだったのか。他の誰かのものだったのか。
今リサの身体を震わせるのは、オズウェルの身を案じる思いなのか、いきなり放り出されたことによる身勝手な怒りなのか。
足元の砂が、音もなく崩れていくようだった。