1、人生投げやりな男
冷蔵庫を開ける。・・・なんだ。なにもないじゃんか。
ため息とともに戸を閉め、仕方なく流しの横のスペースに置いてあるインスタントコーヒーに手を伸ばす。勝手に食器棚からマグカップを取り出し、粉を入れて湯を注ぐ。辺りに安っぽい香りが立ち込めた。それを片手にテレビでもつけようかとしばし思案しているところに声がかかる。
「ちょっと」
視線を向けると隣の寝室にあるベッドの上からこちらを睨みつける女が見えた。
「なんで先に起きてるのよ?起こしてくれたらいいのに」
ムスッとして彼女は言う。ちなみに服は着ていない。胸の前で掛け布団を抱えている。
・・・何をいまさら隠す必要がある?昨日は恥じらいもせす、僕に体を預けて、散々恥ずかしいことをしていたのに。
「ごめんごめん。あんまり気持ちよさそうに眠っているから、起こすのがかわいそうで」
なんて、心にもないことを言ってみる。しかし相手はころっと態度を変え、不機嫌はどこへやら、頬を赤らめながら甘い声を出す。
「でもぉ、耳元で囁いて、起こしてほしかったなぁー」
・・・冗談。何で僕がそこまでしなきゃいけないの?昨日会ったばっかりの人に。
「ごめんね?君の可愛い寝顔を、もっと見ていたくて」
にこやかに笑い、手にしたカップを彼女に差し出す。嬉しそうに受け取った彼女はそれに口をつけた。あーあ、せっかく入れたのに。
「あ、いけない。僕もう行かないと。泊めてくれてありがとう。・・・楽しかったよ?」
そう言いながら彼女の頬にキスをする。くすぐったそうにする彼女。
ちなみに、僕の“彼女”ではなく、正確には“昨日知り合ったただの人”。もっと正確に言うと“一夜の宿を提供してくれた心優しい見ず知らずの女”。そして僕はと言うと・・・
そんな女たちをカモにいている、ただの男娼・・・・だったりする。
「この街もそろそろ限界だな・・・」
人通りの多いショッピングセンター前のベンチに座り、僕は独りごちた。この街に来て1ヶ月くらいか。毎日違う女を引っかけては泊まらせてもらい翌朝にはトンずらする。そろそろ一夜を共にした女たちと再会してしまう可能性が出てくるころだろう。・・・ま、別に再会したところで、僕は特に悪いこともしていないので構わないのだが。だって、ちゃんとお礼はしているつもりだ・・・体で、ね?
しかし、女とは執念深いというか、勘違いが多いというか、僕と一度寝ただけで恋人になったと勘違いする輩がいる。・・・馬鹿じゃないの?こっちはあくまで生活手段。それくらい分からないの?そっちだって見ず知らずの男を引っ張りこんで遊んでんだから、そう言うことでしょ?お互いに後腐れなく、そっちは遊べて、こっちは宿を無償でもらえて、それでお互いメリットがあるじゃないか。それ以上、何を望むの?欲張りだね。
これでも、僕はまだ献身的な方だ。ちゃんと朝相手が起きるのを待って、お礼とささやかなサービス(目覚めのキス)をしてから家を出る。よくいる朝になったら勝手に出て行く奴よりはましだと思う。いや、やってることは売春で、宜しくないことだって言うことくらいは自分でもわかってるけどさ。
ただ、やってる自分が言うのもなんだけど、よく初対面の見ず知らずの男とやる気になれるね?そんな奴に抱かれてうれしいか?見た目が良ければそれでいいの?僕なら嫌だなぁ。まぁ、生活手段だから仕方なくやってるけど。それに・・・その間だけは、なんだか幸せな気がするし。たぶん。
あぁ、そうか。この世にはきっとそういう人ばかりなんだ。みんな何かに飢えていて、それは人のぬくもりだとか、お金だとかいろいろだけど、きっと人間は欲張りだから、そう言うものが目の前にぶら下がると、ついつい手を出してしまうんだ。きっとそう。
幸せ・・・幸せかぁ・・・。僕にとって幸せってなんだろう?確かに女の子を抱いているときは気持ちがいいし、布団も部屋もあったかくて心地いいし・・・。でも、やっぱり幸せって感じではないな。満たされた・・・と思っても、それはほんの少しで、5分もすればなくなってしまう。幸せってなんだろう?まぁでも、僕には縁のないものかもしれないな。
・・・あぁ、お腹すいた。結局さっきの家では朝ご飯食べそびれたし。コーヒーにすらありつけなかった。でも、あの手のタイプはしつこい。たぶん勘違いするタイプだと思う。「愛してるって言ったじゃない!」そう言ってしつこくせまってくるのだ。たしかに、昨日の夜、ベッドの中で言った『愛してるよ』の言葉。しかしその裏には『今だけね?』という続きあるのだ。それくらい言わなくてもわかってよ?君だって雰囲気壊したくないでしょ?そう言うもんでしょ?男と女なんて。
『ベッドの中で言った言葉は信用できない』そんなセリフのあるドラマか小説を見たことがある。まさにそれ。と、まぁそれはそうと、下手に居続けると、後が怖い。この街もさっさと出ないといけないかもしれない。
ポケットから財布を出す。残金2360円なり。・・・ショボイ。
そろそろ本格的に商売しないとな・・・。ちゃんとお金で買ってくれるお客のところに行かないと。でも、仕事となるとその辺の女の家に泊まるのと違って、何かとサービスしないといけないから面倒だし気を使う。お金をもらう以上、仕方ないけれど。でも、できればやりたくないなぁ・・・。なら、普通に働けばいいんだけど、このご時世、住所も持ってない人間を働かせてくれるところなんてありゃしない。一度落ちたら最後、あとはそれをずるずると引っ張って、今の僕が出来上がり。くだらない。
あぁ、本当にお腹すいた・・・。よく考えてみれば、昨日は朝にトースト一枚食べたきりだった(もちろん泊めてもらったお宅で)。昼はたいてい食べないし、昨日の夜は珍しくなかなか引っかからなくて、真夜中にようやく宿にありついてそのままあの子とやってくたびれて寝た・・・。
要するに、昨日から何も食べてないから腹が減った。さて、どうするか。
その時、道の先に黒いものが見えた。いや、黒い服を着た人影だ。
・・・このクソ熱い真夏に、真っ黒な服を着るなんて、暑くないのかなぁ。まぁ、黒は紫外線を吸収するからいいとか言うけど。そう思って視線を上げると、そこに立っていたのは以外にも小さな女の子だった。背丈からすると、小学校高学年くらいか。
丈の長い黒いワンピースに、黒い日傘をさして歩く少女。その色のせいで、ただでさえも白い肌がかなり目立つ。肩甲骨くらいまでのダークブラウンの髪が、歩くたびに揺れる。そのどこか凛とした歩き方は、背丈に反して大人びていて、表情も、幼い子供のそれとは違った。
そのどこか不思議な雰囲気に思わず目を奪われる。しかし、それも数秒、その時にはすでに彼女とすれ違っており、はっと我に返って足早に歩きだす。
・・・なんか、変わった子供だな。
しかし、感想といったらそんな物で、特に気にすることもなく、とにかく腹ごしらえをしよう・・・と思った時だった。
「何か用?」
背後から声がかかった。凛としたソプラノ。
「え・・・?」
振り返ってみると、そこには先ほどの少女。少し茶色がかった瞳で、こちらをまっすぐに見つめている。
「なんで?」
思わずこちらが問い返してしまった。なんで、そう思った?
「・・・だって、さっきから私の事を見てただろう?」
静かに言う少女。その口調は、やはり小学生らしくない。
「いや、特に用はないよ?・・・ただ、黒ずくめで暑そうだなって思っただけ」
我ながら頭の悪そうな感想だ。小学生相手に。
「・・・そう」
そう言って少女は背を向けて歩きだそうとした。その時、ビュッと強い風が吹き、少女の日傘が手を離れて数メートル飛んでいった。
「あっ・・・」
そう言って追いかけようとした少女を手で制し、拾いに行く。だって、その傘は僕の方に向かって飛んできたから。
そして数歩歩いてそれを拾い上げ、少女のもとに戻って手渡す。
「・・・すまない。助かった」
「どういたしまして」
「・・・」
「・・・」
何か話さねばならないだろうか?いや、何を?別にこのまま離れてもいいじゃないか。でも、すでに生まれてしまったこの間を、どうにかしなければ。
「・・・小学生が日傘なんて、ずいぶんと大人びてるね。大きなおせっかいかもしれないけど、子供は日に当たって元気に遊んだ方が健康的だよ?」
なんとなく思ったことをそのまま口にしてしまった。馬鹿だな。子供相手に。
「・・・そうだな、私もそう思うよ」
しかし、予想外にもそう返してきた少女。というか、話し方が少し変だ。なんだか、威厳のある年寄りと話しているみたいだ。声は可愛らしいのに。
「ときに、君。どうやら勘違いしているようだから言うが、・・・私は子供ではなく、年齢は20歳で、法的にはれっきとした大人だぞ?」
「・・・は?」
20歳?え、・・・同い年?
「うそだ」
「失礼だな、君。仮にも初対面の人間に向かって」
形のいい眉をしかめて少女・・・いや、彼女は言った。
「見た目はこれだが、私は嘘など一つも言っていないよ。それにこの体は別に病気ではなく、私はいたって健康だから同情の類も、不審者を見る目もやめてくれ。まぁ、肌は生まれつき弱いから、日傘をさしてるわけだが・・・」
いや、そこまで聞いてないし、別に不審者を見る目もしていない。
「そう・・・なんだ。それは悪かったね。・・・じゃ、」
そう言って別れようとした時、
ぐぅ~
僕の腹の虫が限界とばかりに盛大に鳴った。