9.覆面の烏
食宿明猫の一階、奥にあるこの卓は、他の客から見えない。
商談や顔見せなど、大事な話をするのにもってこいだ。
もっとも、まだ開店前で他に誰がいるはずもない。
にもかかわらず、この隔離場所に通されたのは、鈴猫の気遣い、いや、厄介払いに違いなかった。
(猫姐さんには、ほんと敵わない……)
鈴猫は、寝起きでぼんやりする黄華を手ひどく起こした。
濡らした毛巾で黄華の顔をごしごし拭いた挙句、手近にあった衣を適当に拾い集め、無理やり着せたのだ。
あまりの手荒さを抗議しようにも、鈴猫は手練れていた。
『それじゃ、あとは若い者同士でごゆっくり』
そんな、見合いの仲人みたいな言葉が聞こえたと思ったら、もう奥の卓へ放り込まれていた。
「……」
「……」
残されたのは、手荒に扱われ、よれ布巾みたいな黄華。
それから、そんな黄華へ、干からびた魚でも見るような視線を向けてくる、来客の二人だけ。
気まずい沈黙。それから、どうにも居心地の悪い視線。
呼ばれたから来たというのに、この仕打ちはなんだ。
よろよろと立ち上がる。自分の身なりをたしかめながら。
そこで、黄華は気が付いた。
(この格好は……)
ぶかぶかな男物で濃紺の道袍。
しわしわで薄淡な黄色の裳。
悪夢明けに無理やり起こされて、目と口が歪んだ顔。
まるで、下手くそな案山子みたいだった。
紺と黄色が変に眩しくて、これなら烏除けにもってこいだ。
むしろ、目の前の二人は優しい性質かもしれない。
この姿に相手に、あれくらいの視線で済ませてくれているのだから。
(一応、これでも嫁入り前の娘なんですけど!)
心の中で叫びつつ、平静を繕った黄華は卓へ着く。
来客の二人は思っていた通り。先日会ったお役人さまこと桓範と、怪しい上役の男。上役の男は相変わらず覆面をして黒衣を纏っている。さしずめ、『覆面黒烏』とでも言ったと体だ。
「お待たせしました。わざわざのご足労、何用でしょう?」
「あ、あぁ。いえいえ。先日起きた小船の件、貴女の見立て通り、川上の水車小屋から巻かれた縄が見つかりました」
それから、取り留めのない世間話を二、三。
一体、何の用事だろうか、と黄華が思ったそのとき、後ろに座る男がわざとらしく咳払いをした。
それを聞いて桓範は、軽く苦笑いを浮かべる。
(小船の件はただの口実……ってわけね)
しかし、桓範の反応が少し気にかかる。
さっさと本題を切り出せば良い物を、なぜ回り道するのか。
(ふむ……)
ようやく頭が回り始めた気がする。
思えば、鈴猫にされるがまま、この二人と会ってしまった。
しかし、この状況は黄華にとって望ましい物じゃない。
(役人がわざわざ家探しして訊ねて来た……と)
くるくると思考が巡る。
前提として、自身と彼らは、ほとんど初対面だ。
にも関わらず、口実を設けてまで、訊ねてきた理由は。
くわえて、なかなか本題を切り出しにくいようなこと。
(『頼みごと』もしくは『探りを入れに来た』あたりかな)
『頼みごと』の方は小船の件で、さらに知恵を借りたい、などだろうか。一方で、『探りを入れに来た』とすれば。
(身元の確認……かもしれない)
黄華は実家の料亭から、国境を越えて来ている。
越境自体は罪にはならないものの、移住の手続きは別だ。
短期の滞在ならともかく、三か月を超えるとなれば移住と見られて不思議ではない。まして、荊央は戸籍にうるさい。
(長居がばれたか、それとも)
移動は自由。しかし、勝手に住み着くのは不可。
どう違うと言いたいが、すべては税と管理のためらしい。
国境付近をうろうろして戸籍を持たず、税金から逃げ回る悪徳な商人の話を耳にしたことがある。
もしかすると、そのご同類に思われているのかもしれない。
(私はそういうのじゃ、ないんだけどなあ)
悪徳な奴らの存在は、定住をしないまっとうな遊牧民、つまりは『流浪の民』からしてみれば、苦々しい話だろう。
(とは言え、安易に戸籍を移すわけにもいかない)
言うまでもなく、理由は税金逃れではない。
もちろん、遊牧して過ごそうとしているわけでも。
だから、本来なら決して後ろ暗くなどないのだ。
しかし、そう簡単にもいかない理由がある。
それは、逃げてきた『実家の料亭』の存在。
もしも戸籍を移すことで、実家に『黄華さんの引っ越し先です』などと連絡が言ってしまったら。
(それだけは避けないと)
実家に居場所が漏れてしまえば、追手がやって来る。
実家に戻され、昨晩の悪夢さながらに働くことになろう。
(もしや『警告夢』……だったのかも)
ひどい目覚めだったが、それならうなされたかいはある。
ぶさいくな格好と表情を晒した代償としても。
(適当な用事で、お引き取り願おう。そのあと、猫姐さんとどうしようか話せば……)
即決する。
『頼みごと』と『探り入れ』どっちに付き合う必要もない。
黄華は、顔をあげて桓範に向き直る。
「わざわざ小船の件をお伝えいただいて、ご丁寧にありがとうございます。ただ、すいませんが、私はこれで……。どうも、朝から調子が優れず、寝ていましたもので」
「そうでしたか。この夏はずいぶんと暑いですからね」
「桓範。世間話はもういい。本題に入るぞ」
名も知らぬ黒衣の覆面烏男が立ち上がる。
桓範とやらはともかく、こいつには用心しなければならない。黄華は、無意識に右手を握りしめた。
思い出されるのは、お手製の包子を奪われたこと。
それから、毒避けと思しき銀の匙。
ただの金持ちが地方の高官の位を買っただけと見做しているが、そこに外れはないだろうか。
「し、しかし……。恐らくは楽子山の勘違いではないかと。いかんせんこんな……珍妙な……」
次第に小声になっていたが、後に続く言葉は『珍妙な姿』だろう。普段なら、もう少しまともな格好をしていると主張したいが、この際どうでもいい。
(それよりも、『楽子山』と言ったな)
あの、飯勝負を持ち掛けてきた悪人顔の武官だ。
いや、持ち掛けたのは黄華からだが、とにかく、なぜ彼の名が出てきたのか。もしあの時、何を『食わせたのか』が伝わっているとしたら。
「……楽子山さまはお役目の前に店で食事をされていたとか。立派ないでたちでしたもので、ついつい、『絵描きとして』私の絵を差し上げてしまいましたが……」
黄華は軽く目を伏せ、頬を綻ばせる。
とびっきりの『作り笑い』
「もしかして、御迷惑でしたか?」
「ふん。そんなことは関係ない。俺は今日、おまえを試しに来たのだ」
「試しに?」
黄華は目を細める。
「そうだ。どうしても調理方法が分からない料理があってな。その作り方を、お前が知らないかを聞きたい」
「……私はただの絵描きですから。料理のことなどわかりません」
ひとまずそう言って茶を濁す。
黄華はかつてない焦燥を感じていた。
(こいつは、どこまで知っている?)
あの包子を作ったのが、黄華だと思っているだけなのか、それとも、楽子山から料理が得意だと聞かされているのか、どちらか分からない。
前者であれば、勘違いだと言い張って突っぱねるのが賢い。
しかし、後者だとすれば、断れば断るほど、この手の御仁は追求を強めるに違いない。
(楽子山の様子だと、そうそう言いふらしたりはしそうになかったけれど……)
楽子山か、あの、強面なわりに良い味覚を持った男。
その姿を回想する。不意に、去り際の言葉が蘇った。
『丁泉の元に仕えている。何かあれば頼れ』と。
なるほど。『丁泉』とやらがどんな奴か知らないが、楽子山を問い詰めてやって来たという線も考えられる。
(うーん)
確信はない。けれど、可能性はある。
もう少し桓範と話せば、糸口も掴めたかもしれない。
「これは、とある老いた貴婦人からの頼みでもある。その方は病に伏せっていて、せめてもの願いとして言付かった」
しかし、場の主導権は、この覆面黒烏に握られている。
(断りづらい話になるのも……まずい)
料理人としての黄華は、『お客が喜んでくれること』を何よりも大切にしている。もちろん、そこに貴賎はない。
一方、金や権力を背景に道理を曲げてくる人間は、何よりも嫌っていた。憎んでいたと言ってもいい。
そして、その最たる例は、黄華にとって実の父親だった。
同時に、その父親の地位や権力の源泉になる自分自身と、受け継いできた料理の秘伝や腕前にも、複雑な気持ちを抱いている。
「それでしたら、なおさら。私の様な素人料理ではなく、高貴な方向けの料理人を頼ってはいかがでしょう」
桓範へ少し視線を向ける。
しかし、彼は目を閉じ不動の姿勢を取っていた。
(こっちはもう貝ってわけね)
桓範はだんまりで、黄華の背中には、汗がじんわりだ。
「もちろん、ただでとは言わない。もしお前がその料理を無事に作れたなら、金銀財宝、望むものを全て与えよう。それなら、悪い話でもあるまい」
『金銀財宝、望むものを全て与える』
その言葉を聞いた後、黄華の言動はほとんど反射だった。
「だったら、その財宝とやらを飯の上にでも、かけてやればいいでしょう。金で自由に人を操れると、あなたは本当に思っているのですか?」
「……」
「……」
たしかに黄華は、金に物を言わせる人間が嫌いだ。
ましてや、料理に絡んで金をちらつかせるなんて論外だ。
もちろん、病に伏せた貴婦人の望みと言うのは気になる。
けれど、覆面黒烏の言葉には何の証拠もない。
「ほお?」
きっかり三秒ほどの沈黙ののち、読めない表情で覆面黒烏はそれだけ言った。口元をひどくゆがめた、いやな笑みを浮かべて。
(い、言い過ぎたか!!)
桓範の方へ視線を向ける。いつの間にか彼は窓の桟に手を置き、眩しそうに日差しを眺めながら、どこにでもある竹の葉を大層大事な物のように愛でている。
均整の取れた姿勢が描く、完璧なまでの振る舞いだった。
完全に、『我関せず』を決め込んでいる。
「では、何の条件なら話を聞くと?」
目の前にいる名も知らぬ覆面男の上背が、不意に大きくなった気がする。奴は、どす黒い気配をまき散らし、一歩、また一歩と近寄って来る。
こうなったら仕方ない。危険なら逃げてやる。
ここからの作戦は、『三十六計逃げるにしかず』
「ふ、ふん。名も知らぬ相手から、嫌な頼み事を受ける者など、どこにいましょうか。どうしてもやって欲しいなら、あなたの嫁か妈妈にでも頼めばいいでしょうよ」
精一杯虚勢を張って、嫌味たっぷりに吐き捨てる。
見たところ、武器の類は携帯していないが、念のため一歩下がって距離を取る。本当に危険なら、さすがに桓範も止めに入るだろう。……入りますよね。入ってくれください。
「はっはははははははははははは」
覆面黒烏は、突然、大声で笑い始める。
身体を丸め、心底面白いとでも言わんばかりに、ここが飯屋でなければ転がり回るくらいの勢いで、思い切り笑う。
ひとしきり笑った後、頬をひくひくさせて、笑い収まらない様子で、彼はこう言った。
「嫁か母親に頼め、か。くくっ。面白いことを言う女だ。桓範、こいつの名はなんと言ったか?」
「はい。絵の署名では『黄華』と」
恐ろしい速さで変わり身して、丁寧に礼をする桓範。
てっきり激怒するだろうと思って腹を括ったというのに。
覆面黒黒烏の腹の底がまったく読めない。
(いったい、何なんだよ。こいつ……)
頭は大丈夫な人だろうか、そんなことを思いながら身を固くする。正直、もうなんでも良いから早く帰って欲しい。
覆面黒烏は、悠然とした佇まいで黄華の正面に立つ。
ひらり、と黒衣の裾が舞った。
意外と髪も長いのだと、その時知った。
黒衣の胸辺り、襟元が開いて刺繍が目に入る。
青糸で小さく紡がれた、美しい光沢の鴻。
黄華は、息を飲んだ。
露になった端正な顔立ち。
それには、知的でありながら、瞳には童子と戯れているような温かみが同居していた。
烏じゃない。黒孔雀みたいだ。
「てっ、ていせんさまっ!!」
絶叫する桓範の声が、どこか遠くで聞こえた。
「俺の名は丁泉だ。よく覚えておけ。それから、黄華……お前は、俺の嫁になれ!」
『がしゃん!』
桓範が卓に頭を叩きつける音だけが、その場に響いた。