航空工作艦
1923年に発生した関東大震災の被害は甚大であり帝都は多くの家屋が焼かれ十万人が被災する事となった。
この地震の特徴は昼間、多くの家庭が昼食の準備をおこなっていた時間帯に発生したことに起因する。
幕府統治が終わり政府が作られた頃からこの日は防災の日とされ、多くの場所で町内会単位での避難訓練などが行われていた。その最中に発生した大地震は、しかして多くの建物を倒壊させ多くの火災を発生させた。
元より避難訓練も住民の自主参加に任せることが多く発生時間帯も昼食の時間に近かったことから各所の台所では火が使われていた。
これが倒壊した建物に引火し至る所で大火災へと発展していった。
最終的な被害は死者、行方不明者が推定6万人。建物被害は全壊が約10万棟、全焼が約19万100棟。また震源断層のある神奈川では液状化が原因とされる地盤沈下や揺れによる崖崩れ、沿岸部では津波による被害が生じていた。
しかし未曾有の大震災の後でも皇国は適切な震災復興並びに被災者救援を行うだけでなく、荒廃した土地を大規模な工業都市へと変貌させる関東改造計画まで立案されることとなった。
元より大陸の開発などへ財源を投資せず合衆国や連合王国との中継貿易や大陸で必要となる物資の加工工場としての発展が1921年の五か年計画によって大規模に進められていただけありその動きは迅速であった。
その速さは翌年1924年の国会で既に承認されただけでなく今後発生するであろう大規模な災害から皇国の機能を守るためとし帝都機能の分散と沿岸の津波対策、建造物の耐震基準の設定に複数の工業地帯の拡大を行う大規模な皇国改造計画となって進められる事となった。
この計画では主に宮城、新潟、横浜、名古屋、大阪、富山、福岡の大規模な工業地域化、大阪、福岡、仙台、松本、札幌各都市の予備帝都機能の追加が行われる事となった。
これらは五か年補充計画と呼ばれ1921年に発表された五か年計画を発展させた8か年計画として発表されることとなった。
特に国内の土木産業には数年前から力を入れていた事もありトラックやホイルローダー、ダンプなどの建設重機の輸入と国産化は急ピッチで拡大していった。
その効果もあり震災後の1924年1月には合衆国自動車メーカーのGM資本による自動車工場が横浜に建設される事となりその生産工場を基にして名古屋では豊田が自動車製造を開始、財閥の三菱も自動車製造部門を新たに立ち上げるなどこの年を境に国内のモーターリゼーションが急速に発達する事となった。
国全体がそのように大きく動く中でも艦建造は縮小しつつ行われていた。
横須賀と横浜の造船所は大震災で使用不可となっていたが、偶然にもここ数年は横須賀、横浜での軍艦の建造は行われていなかった。
しかし建造は主に小型艦が主となっており現在軍艦として建造が予定されているのは1924年の海軍予算で吹雪型駆逐艦6隻、1200t級護衛駆逐艦6隻、掃海艇2隻、補給艦1隻、外洋型潜水艦10隻が新たに新造され代わりに旧型の一部駆逐艦を艦種変更で対潜駆逐艦という新種別へ分類していた。
これらは従来の一等、二等駆逐艦、駆潜艇、砲艦などの分類を時代に即したものへ変更するためと1924年に変更案が通過したものである。
このため海軍の種別は新たに駆逐艦、対潜駆逐艦、砲艦、水雷艇とされることとなった。
このうち吹雪型6隻は1922年の睦月型駆逐艦の後期型の建造予算が当てられていた他1200t級も予算通過は1923年の年始であるため1924年の予算で通過しているのは僅かに掃海艇と補給艦、潜水艦のみであった。
この他にも内火艇30艇、カッター40艇と砲弾など弾薬などが予算には含まれている。
しかし大型艦は相変わらず超弩級戦艦5隻、航空母艦2隻、巡洋艦として5500t級軽巡洋艦14隻のみだった。
だが全く大型艦が無いかと言われればそういうわけではなかった。
1924年8月、被災した横須賀から呉に移設された艦政本部では次期大型艦の建造が予定されていた。
数ヶ月前に主任設計を任される立場となった結月の元にある要望書が届けられた。
震災発生時彼は九州の大神に視察に出ており建設途中の工廠を見ていたため難を逃れることとなった。
しかし同時に当時艦政本部にいた主任技官四名が震災により亡くなり、その穴埋めとして主任補佐をしていた彼は馴染みのない呉で主任技官をすることになったのだった。
同じく小春も主任技官に上がっていたが彼は潜水艦の設計に力を入れているため現在疎遠であった。
そんな彼のところにやってきた海軍少佐は資料を渡し静かにその場で待機していた。
まるで機械みたいな人間だなと結月は思ったがその言葉をそっと腹の中にしまい込む。
そこには艦載機数20機から30機、排水量1万tクラスの航空母艦の要望のようなものが書かれていた。彼が首を傾げたのは整備能力に長けた工廠能力の付与や資材運搬能力など空母には不釣り合いな単語であった。
「これは……空母ですか?」
仕様書には次期戦闘補助艦としか書かれておらず一体どういう船を要望としているのかが分かりづらかった。
「いや、空母ではなく航空機整備艦というものだ。空母艦内では整備できない損傷や本格的な整備を行うための工作支援艦の一種だ」
意外のように思えるが航空母艦の格納庫は整備をするという点では向いていない。
平時での赤城、天城、鳳翔による運用の試験では意外にも格納庫内での整備には手間がかかることがわかった。
開放型格納庫の赤城型はシャッターを開いて艦載機を迫り出させることで空間を確保することが出来るが潮を含む海風は精密機械の塊である飛行機には天敵に等しかった。
しかし閉鎖格納庫の鳳翔では大きさの問題もあるが空間の余裕がなく飛行機の本格的な整備は難しいとの報告があがっていた。
特に戦時には被弾による損傷が増えるだけあり例え空母に戻っても、整備が出来ず再出撃ができないとなれば戦力としては除外される。
特に発動機や燃料タンク、胴体構造部、フラップの損傷と言った飛行に必要なものは格納庫での本格整備は不可能であった。
部品そのものも予備を大量に持っていけるわけではないから部品交換だけでは数が足りない。そもそも所狭しと航空機を乗せているところで発動機を下ろしたり翼の構造を丸裸にして燃料タンクを取り外す作業など不可能に近かった。
地上基地で出来ることが洋上の空母では出来ないのだった。
それゆえに航空母艦は箱物という幹部も出てきていた。
そこで軍部は航空母艦に随伴し必要に応じて損傷機を受け入れ作戦可能な状態まで修復する航空機修理専門の設備を持った艦を求めたのだ。
これは海軍の戦略思想が本土周辺での艦隊決戦思想から戦略物資を南方に求めて南進し作戦を展開する南方遠征に切り替わっていた事もあった。
本土周辺であれば本土の飛行場に回して整備することも可能ではあるが南太平洋の島々に整備拠点を設けるのは皇国の力では不可能であった。特に生産工場が本土か大陸にしかないため基地を作ったとしても部品の輸送コストは高くなる。
そこで移動可能な洋上の整備拠点として航空機整備艦を求めるのも自然な事であった。
「またどこからこのような発想を……」
「空母での航空機運用で判明したことだ。狭い格納庫や空母の限られた空間、資材では被弾損傷の度合いによっては整備不可能とならざる負えない機体が必ず出る」
必要とされるのは搭載能力よりも工廠としての機能。艦内に旋盤やプレス機などの工作機械を置き部品の交換だけでなく修復や簡易ながら製造することが出来る艦内工場、そして艦載機を本格整備できる専用格納庫だった。
「なるほど専用の整備設備を設けた工作艦と…しかし見た目が空母ですし運用次第では空母として運用出来てしまいます。条約を考えれば1万トン以下がよろしいかと思いますがその大きさでは満足いくものは不可能かと」
基準排水量1万tの壁は巡洋艦などの戦闘艦ではない工作艦であっても立ちはだかるものであった。
本格的な工廠設備を持つ艦艇としてはA-63工作艦の計画が進められていたがそちらは艦艇の応酬処置や修復を行う艦であり補助艦艇である。見た目としても起重機を搭載した貨物船に似た形状である。だから排水量も1万7000tとかなりの大きさであった。
しかし航空機整備艦は空母に随伴する事からも戦闘地域での使用がある程度想定されており格納庫と飛行甲板を見れば空母と何一つ変わらない見た目である。
当然航空母艦認定される。これを空母としないとすれば条約すり抜けとなってしまい他国も同じように航空機整備艦や工作艦と称して空母を建造する可能性が高まる。しかし補助艦によって航空母艦の排水量枠を削られるのは流石に容認できないことだった。
既に保有する空母枠を埋めるための次期大型航空母艦の計画は進んでいたからだ。
「だからいつも通り通告は小さめにする予定だ。許容範囲は基準排水量12000トン以内、これならどうだ」
当然通達数値は1万トン以内を予定していた。
「一段の格納庫で飛行甲板への露天駐機が可能ならそこその運用能力は持たせられるかと」
彼の想定としては航空機を二機同時に本格整備する空間と別途で12機を完成状態で積載できる程度の格納庫という軽空母並みのものであった。
飛行甲板に艦載機の露天駐機をする場合なら滑走距離との関係もあり約6機ほどと考えられた。
これらは現在開発中である時期主力艦載機の大きさを元にしている。在来の10年式などであれば20機は格納庫に搭載可能だった。
しかし格納庫天井に整備用のクレーンを搭載するなどしたため見た目以上に格納庫の天井高が嵩み横からはかなり背の高い見た目になるのではないかと結月は危惧し始めていた。
横面積が大きいと横風による煽りを受けやすく転覆の危険性が高まる。戦場へ向かう艦であることを考慮すれば被弾などで船体が傾斜した時の復旧や抗堪能力にも影響が出かねないものだった。
それでも飛行甲板に装甲を貼る必要もなく、弾薬庫などは最低限機銃用に有れば十分であることから防御に取られる重量は最低限度で済み見た目以上にトップヘビーにはならなかったのだがこの時はまだそのことを結月は知る余地もなかった。
航空工作艦龍驤
同型艦1隻
対帝国戦争以降より皇国海軍はその主敵を太平洋を挟んだ反対側にある合衆国海軍へ変更していた。
そのため交戦想定海域が皇国近海から南太平洋の群島とハワイまでの西部太平洋の広大な海域へとなっていた。
その中で従来の近海戦では問題とならなかった航空母艦による艦載機の整備性の悪さが問題となるようになった。
本来航空母艦の格納庫は航空機の収容に特化した構造となっており点検は兎も角として故障機の本格整備は構造上不得意であった。
そこで考案されたのが航空機を整備する能力に特化した艦であった。
船体
全長201m、全幅24m
基準排水量11903t
公表数値9842t
全長、全幅共に当時皇国で計画されていた次期重巡洋艦のものを手本にしている。
そのため船体としてはやや細長い印象を受けるが艦内に部品の製造なども行える本格的な艦内工場を備える関係で似ているのは水面上の外見のみとなっている。
艦中央部分はやや大きく膨らんでおり断面としても四角に近い形となっている。
船体が軽空母と分類されるほど小柄であるため飛行甲板の有用面積を増やすためアイランド式の艦橋は採用されず、格納庫の前方部分に飛行に吊り下げられる形で格納庫から迫り出した艦橋が置かれている。
しかし艦首ギリギリまで延長された飛行甲板が邪魔で視界は良くないため艦橋自体は左右に大きく広がり飛行甲板下から耳のように飛び出す見張り用のウィングデッキを持っている。
このため軍艦の艦橋より貨物船の横長の船橋のようだと言われている。
艦首側は2本の柱で飛行甲板を支えており甲板自体が役二度の傾斜をつけられている。
武装
最前線に出撃する艦ではないが戦場に近い位置で航空母艦の支援を行うため、武装に関しては航空母艦に近い兵装を有している。
対空装備として当時新開発の三年式12cm砲を基にした十年式45口型12cm対空砲を連装砲架として4基搭載している。
大型艦では天城型に続く採用であるが大型艦での搭載は龍驤以降は新型に切り替わったため搭載していない。
また近接対空装備として新たに毘式12mm単装機銃を単装機銃架で10基搭載している。
この機関銃は口径12.7mmの水冷式であり1918年に合衆国で開発された重機関銃であった。
合衆国ではブローニング・ウィンチェスター.50口径重機関銃あるいはM1918と呼ばれたこの機関銃は当時世界大戦に参戦を始めようとしていた合衆国陸軍への配備が予定されていた。しかし合衆国が本格的に参戦を行うよりも早く1918年同年に戦争が停戦したため、量産と配備は行われなかった。
しかし1920年代に航空機の重武装化、また艦の対空装備を強化する必要があるとされていた皇国に目をつけられ大量発注をされることとなった。
このためブローニング社は輸送コストと生産コストを下げるために皇国内に新たな工場を建設し量産を行い始めた。
この時の皇国は大陸の玄関口でもあり国を挙げて海外の企業誘致をおこなっていたこともあり比較的早期に行われることとなった。
龍驤に搭載されたものは二型とされるもので弾薬の給弾機構の方向を左右両対応とした改良型である。
航空艤装
飛行甲板下に一段式の閉鎖式格納庫を持っている。
この格納庫のうち後部側側15m分は航空機の整備をするための整備区画とされており天井部分には移動可能な天井クレーンが搭載されていた。
また格納庫後部は発動機の運転試験のために開放型とされていた。
飛行甲板長201mm、幅21mと、航空母艦の中では飛行甲板が狭い部類に入る。遮風柵は鳳翔で試験され採用となった前面遮風柵に加え、狭い甲板での落下事故防止のため航空機を駐機する必要がある甲板の後ろ半分は側面遮風柵も装備した。
エレベーターは2基で、前部エレベーターは長さ11.1m、幅15.7mの横長の長方形、後部は整備区画手前側に長さ12m、幅15.7mのものを搭載していた。
格納庫内部と飛行甲板後部に多数の機体を完成状態で格納することができるが固有の飛行隊は戦闘機部隊2個小隊6機(のちに3個小隊6機)のみであり平時は霞ヶ浦飛行場に所属している。
装甲
船体は完全に非装甲とされており船体の設計規格も民間の貨物船と同じものであった。
構造上軍艦として見れば撃たれ弱いと言わざる追えないが本来が戦闘艦ではないことと建造コストの高騰を抑えることに繋がっている。
機関
費用削減のため同時期に建造されていた甲型駆逐艦(吹雪型)の機関を流用して搭載している。
主缶と主機の数は駆逐艦と同数であり常用出力は50000hpまで低減させている。
艦隊に随伴する必要があるため最大戦速25kn、巡航速度では当時の戦艦、空母と同調できるよう18knにされている。




