第十五話 夜をこえて
引き続き痛い描写があります。ご注意ください。
「……」
ひとまずの緊張が去り、ミモルが息を吐きます。その頃にはフェロルの治療で出血も止まり、怪我も目立たない程度にまで回復していました。
もう寝ようとしていた時間です。
月明かりの下、宿の主人がようやく連れてきてくれた軽装備の兵士二人も、惨状を目の当たりにして眠気が一気に吹き飛んだようでした。
「何人かは逃げました。残った人達に事情を聞こうとしたら、こんなことに……」
エルネアは言葉短く説明し、あとを濁して口元を手で覆います。室内には窓を開けてもなお、呼吸を止めたくなる匂いが充満していました。
事実をありのままに話すわけにはいきませんし、美女が苦しげな表情でそう言えば、大抵の人は「かなりのショックを受けたのだろう」と気を利かせてくれるはずです。
「大変でしたね。後はこちらで調べます」
予想通り、憲兵達は気の毒そうに声をかけてくれ、ひとまずはそれ以上を聞こうとはしませんでした。
夜は濃さを増し、月と星だけが存在を誇示するかのように煌めいています。
たった二人では無理だと兵士は応援を呼び、宿は夜中にもかかわらず物々しい人間でいっぱいになりました。
ミモル達も、物音に気付いて起きてきた他の客も、多少話を聞かれただけで解放され、自宅へ帰る予定だったオーブとカナンも、宿の主人の好意で泊めて貰うことになりました。
幸い、二階から上にまでは匂いは上がってきませんでしたし、今から他の宿を探して動き回る方が危ないと判断したためです。
「こんなことになるなんて……」
まだ床下ではがたがたと慌ただしい物音がしていて、まるで終わらない悪夢でも見ている気分でした。リーセンが皮肉っぽく言い放ちます。
『夢だった方がマシだったんじゃないの?』
眠れるはずがないと思っていましたが、体は休息を欲していたようです。ベッドに横になると、途端に睡魔が襲ってきました。
『こんな仕組み、間違ってる!』
男の子が誰かに向かって叫んでいました。勝気な瞳をした、ミモルと同い年くらいの少年です。
あの子、どこかで……。
『仕方がないのです』
あれはヴィーラ?
どうか怒りをおさめてと悲しげな声で話すのは、まさに探している女性でした。何か心を痛める出来事でもあったのでしょうか。項垂れて、随分と疲れている様子です。
『そういう決まりだからか? そんなもの……!』
少年は幼い子どものように地団太を踏み、その勢いは目の前の障害全てを壊さんばかりです。この世界の全てを憎んででもいるような口調でした。
『あの二人はただ一緒にいたかっただけだろ? 何がいけないんだよ!』
『マスター……』
半ばまどろみの中にいたミモルは、このセリフにはっとしました。
マスター。それは主人への――ネディエへの呼びかけのはずです。それなのに、今ヴィーラが呼んだのは間違いなくこの少年でした。
どういうこと? それにあの子は……。
『俺は認めない。絶対認めないからなっ!』
空に向って吠える姿には、並々ならぬ決意が滲んでいました。
翌朝は快晴でした。カーテンを開くと、街の中央に集まる巨大な建造物の群が日差しの下に圧倒的な存在感を放っています。
目を覚ましたミモルが食堂に降りていくと、先に起きていたネディエが席を立ち、足早に近づいてきました。
「おはよう……?」
昨夜の出来事がまだ脳裏に残っていたけれど、階下は恐れていたような光景ではありませんでした。きっと、宿の人達が寝ずに掃除をしてくれたのでしょう。
それでも、目を凝らせば何かを拭った跡や、取り去ることの出来なかった赤い染みが残っていて、あれが決して夢などではなかったのだと知らしめています。
「夢を見なかったか?」
ぐっと顔を寄せたネディエが、焦った口ぶりで問いかけてきました。食事もまだのところを見ると、そんなに早くから待っていたわけではなさそうです。
ミモルはすぐにピンときて、「見たよ」と短く答えます。
「私達と同じくらいの子どもが出てくる夢か?」
今度は深く頷きます。どうやら彼女も同じ夢を見たのだと解りました。
「あれは、前に占いで見たやつだ」
ミモルはえっと驚きの声を発し、すでに察しているらしいネディエは淡々と続けます。
「もっと背が高かったと言いたいんだろう? つまり、さっきの夢の内容は、あれよりも前ということになる」
道理で見覚えがあったわけだと、ミモルも合点がいきました。別の人間だと説明されるより、ずっと納得できる答えです。
同一人物だと仮定するなら、と彼女は前置きし、一つひとつ考えを組み立てていきました。
「あいつは多分、ヴィーラの前の主なんだろう」
「そうだろうね」
だから、あの男の子のことを「マスター」と呼んでいたのです。
「奴は何かに憤慨していた」
『俺は認めない。絶対認めないからなっ!』
空気を引き裂くかと思われるほどの叫びが、まだ鼓膜の奥に残っているような気がして、そっと冷えた耳に触れました。
ヴィーラが仕えていた少年です。子どもじみた我が儘で怒っていたとは、考えにくい気がします。それに、ヴィーラは辛いことに耐えているような顔つきでした。
「あいつが前の主に仕えていた頃、あった出来事。考えられるのは、悪魔との戦いじゃないのか?」
「あ……」
脳裏によぎるのは、悲しい選択をした少年ニズムと天使マカラの姿です。その発端は当時彼らが敵対していた悪魔の存在だったはずです。
彼らは神々の怒りを買い、引き裂かれ、それでもなお抵抗し――700年の時を経てミモルとダリアを巻き込んでいきました。
「私がもっと過去を覚えていたら」
声に弾かれたように振り返ると、ちょうどエルネアが言葉を切って苦笑するところでした。
「きっともっと早く、ヴィーラのもとに辿り着けたのかもしれないわね」
少女達は首を振って、責めるつもりではないと告げます。
確かに、ネディエの推測通りだった場合、エルネアが当時のことを覚えていれば、わざわざこんな回り道をせずに済んだでしょう。
事件の首謀者へ、一足飛びに辿り着けた可能性があります。
「エルが悪い訳じゃないよ」
「記憶がないのは、神々の意思によるものだろう?」
全ては、前の主との繋がりを断ち切ることで、新しいパートナーに集中させるこの仕組みのせいです。しん、と落ちた沈黙に、ミモルにはある考えが浮かんできました。
「もしかして、夢であの人が怒っていたのも」
『こんな仕組み、間違ってる!』
「……ありうる話だ」
ネディエも再び黙考の表情を作ります。そこへ、仲間達が二階から降りてくる足音が聞こえてきました。
これ以上同じ場所に留まり続けるのは良くないと、ミモル達は早々に宿を引き払い、街からも離れることにしました。
「私達も何かお手伝い出来たら良いんだけど」
カナンもオーブもそう言ってはくれましたが、ただ旅先で出会っただけの彼女達を巻き込むわけにはいきません。それに、オーブには主とこの一帯を守る役目があります。
街の入口での別れ際、危険な目に合わせてしまったことへの詫びと、会えて嬉しかった礼を告げて踵を返しました。
「気を付けてね!」
心強い声が背中を押します。たった1日一緒に居ただけの仲でも、別れには胸の詰まる思いがしました。




