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第13話「テオ様の正体」前半①


運動会の翌日の昼休みは、いつもより十分早く来た。


実際の時間はいつも通りだったのに、休み時間に廊下の柱時計を二度見上げて、二度とも針は思ったほど進んでいなかった。


(……早く)


声には、しなかった。


四限が終わって、午後の講義のための短い休憩時間にいつもよりゆっくりした歩幅で北廊下の突き当たりへ向かった。


ゆっくり、と言い聞かせていたけれど、私の靴の底はいつもより少し速く石畳を叩いていた。

旧図書室の重い木の扉の前で一度息を整えても、息はいつもの細さに戻らなかった。


昨日の運動会のあと青の旗の下の末席でずっと戻らなかった、その息の細さの輪郭のまま、私は扉を押した。


    


旧図書室の中の空気はいつもの通り、古い本の匂いと北の窓から差し込む薄い光だけで満ちていた。


長机のいつもの位置に——アルフォンス様が、座っていた。


漆黒の髪が、北の窓から差し込む光を低く返している。

長机の上には開いていない一冊の本があり、本を見ているのではなく、ただ卓の縁に視線を落としている。


私の足音で、アルフォンス様の視線が、こちらへ上がった。


「……来たか」


低く、迷いのない、いつものアルフォンス様の声。


「……はい」


私は扉を後ろ手で閉めて、閉めたその音がいつもより自分の耳に大きく響いた。


(……二人だけ、だ)


声には、しなかった。


    


「……こっちに、来い」


アルフォンス様が、長机の自分の隣の椅子を、指先で短く示した。


いつもなら、テオ様の前の椅子——アルフォンス様の向かい側に座る場所だったのが、今日は隣。


私は、迷いながら長机の脇を回って、アルフォンス様の隣の椅子に座った。

座った時、左の手のひらの中に、まだ昨日の温度の輪郭が残っていた。


(……まだ、消えていない)


声には、しなかった。


そして——


(……いつもなら、テオ様が向かい側にいる)


ふと、昨日の運動会の最後の、薄水色の旗の下で動いた唇のことが頭の隅をよぎった。


「明日」


——あの唇の動きは、今日のこの旧図書室の昼の方ではなくて別のどこかを指していたのだと、そう思うことにした。


    


「……うるさくないか」


アルフォンス様が、長机越しに、静かに切り出した。


「……いえ」


「廊下の方、聞こえないか」


「……北廊下は、いつも、静かです」


「そうか」


それだけだった。


それから、しばらく二人とも何も言わないまま、私は左の手のひらの中の温度を握り直した。

握り直したその熱の輪郭の隣に、昨日アルフォンス様が約束してくれた言葉が、まだ置いてある。


「明日。旧図書室で」


その言葉に応えて、いま私はここに座っている——


それで、いまは、いい。


    


——その時。


すぐ隣で、アルフォンス様の右手の指が長机の縁の上でわずかに動いて、私の左手のすぐそばで止まった。


触れる、ほどの距離ではなかった。


——けれど。


触れない、と決めた距離でも、なかった。


アルフォンス様の指の輪郭が、私の指の輪郭の、すぐそばにあった。


私は顔を上げる勇気がないまま、長机の縁の、ふたつの手の影だけを見ていた。


横で——


漆黒の髪の下の、アルフォンス様の耳の先が、わずかに赤かった。


    


「……昨日のこと」


アルフォンス様が、また、口を開いた。


私は、顔を上げた。


「……何か、聞きたいことが、あるか」


低く、こちらの逃げ場を作るような、抑えた声だった。私は、首を、横に振った。


「……いえ」


「いいのか」


「……はい」


聞きたいことは、たくさんあった——なぜ、観衆の前で名前を呼んだのか。なぜ、観覧席に向かう時、私の左手を握ったのか。なぜ、最後に「呼びたかったから、だ」と言ったのか。


——けれど。


そのどれも、いま、私は聞きたくなかった。聞いたらその答えで、私の手のひらの中の温度が別の意味に変わってしまう。


(……いまは、いい)


(……いまのままで、いい)


声には、しなかった。

アルフォンス様は、私の答えを、受け取ってくれた。


「……そうか」


それだけだった。

それから、しばらく二人とも何も言わないまま、旧図書室の薄い光の中で二人でただ座っていた。それで、よかった。


    


——その時。


旧図書室の重い木の扉が、低くひと音鳴った——ノックではなかった。扉が外側から、押されている。


私は、肩を、跳ねさせかけた。


アルフォンス様が、長机越しに視線を上げ——扉が、開いた。


入ってきたのは、銀の髪の、薄水色の旗の下の影だった。


「——あ」


私の口から、小さく、声が漏れた。

テオ様が、そこに立っていた。


「——テオ様」


私の声が、自分でも意外なほど、細く出た。


旧図書室の重い木の扉の脇に、テオ様は、立ったままだった。

すぐには、入ってこない。銀の髪の毛先が、北の窓からの光をひと粒だけ受けて、薄水色に光っている。


「……邪魔をしたか」


低く、抑えた声だった。


——けれど、その「邪魔をしたか」の温度は、いつもの「……さあ、何のことかな」とは別だった。


私は、隣のアルフォンス様の方を、ひと拍だけ見た。


アルフォンス様は、表情を、ほとんど動かさなかった。

長机の上の、卓の縁に置いた指の位置だけが、わずかに引かれた。

引かれて、自分の膝の上に戻っていった。


(……離れた)


声には、しなかった。


    


「いや」


アルフォンス様が、低く、答えた。


「俺は、出る」


「フェルドラク、待て」


テオ様が扉の脇から、一歩長机の方へ進み出た。


「——少しの時間で、いい。リアネに、話がある」


私の名前が、テオ様の口から、いつもの温度で出た。

——けれど、いつもの温度の中に、ひと粒だけ別のものが混ざっていた。


私は、顔を上げて、テオ様を見た。

テオ様の目は、本越しではなかった。

昨日の、運動会の閉会の後の、薄水色の旗の下と同じ温度の目だった。


(……あの「明日」が、これだった)


声には、しなかった。


    


アルフォンス様が、隣でわずかに息を吐いた。


「……話、か」


「はい」


「リアネに、か」


「はい」


短い、ひと往復。


その短い往復の中で、アルフォンス様の声の温度が低く、別の質感になっていく気配があった。

私の隣で、長机の天板のほんの一点だけ、空気がじりりと熱を帯びた。


熱くは、なかった。


——けれど、確かに空気のひと粒が、別の温度に変わった。


(……アルフォンス様)


私は、隣の椅子のアルフォンス様の方を、見上げた。

アルフォンス様は、テオ様の方を見ていて、こちらは見ていない。

漆黒の髪の下の金の瞳が、いつもより深かった。


「……どうぞ」


私は自分の声で、その熱の輪郭を低く戻そうとした。


「……アルフォンス様、すみません。少しだけ」


アルフォンス様の視線が、ようやく、こちらに落ちた。

短く、私を、見た。

それから、テオ様の方へ、戻った。


「……後で、迎えに来る」


低く、それだけだった。


「……はい」


私は、頷いた。


アルフォンス様は、長机から、立ち上がった。

立ち上がる動作の途中で、開いていない一冊の本を、片手で軽く取った。

その本を抱えたまま、扉の方へ歩いていく。


テオ様の脇を通り過ぎる時、二人の足音が一拍だけ重なった。


二人の視線も、その一拍だけ、交差した。


何の言葉も、なかった。

ただ空気のひと粒だけが、低く別の音を出した。

それから、アルフォンス様は、扉の向こうに消えた。


重い木の扉が、低い音を立てて、閉まった。


    *


旧図書室には、私とテオ様だけが、残った。

長机の上の、開いていない本も、もうない。

アルフォンス様の指が置かれていた長机の縁の、その温度の輪郭だけが、私の隣にまだ残っている。


テオ様が、長机の向こう側——いつもの椅子へ、回り込んできた。

回り込んで、いつもの位置に、座った。


座った時、テオ様の手元には本がなかった。

朝、開いていたはずの古文書も、長机の上に置いてあった蔵書も——いまテオ様の手には、何もなかった。


(……本が、ない)


声には、しなかった。

テオ様が、長机越しにまっすぐ私を見た。


「……リアネ」

低く、迷いのない声だった。


「お前の眼鏡と、お前の左の手首のブレスレット、アクアニア式の魔道具だな」


——心臓が、止まった。

止まった、という以外の言葉は、私の中になかった。


「……え」


私の声が、自分でも分からないほど、薄く出た。


テオ様は、私の答えを、待たなかった。


「帝国の魔道具技術では、作れない。アクアニアの古い式だ」


「……」


「お前は、自分が何者か、知る必要がある」


——テオ様の目は、まっすぐだった。

逃げ場の、ない目だった。


旧図書室の北の窓から差し込む薄い光が、テオ様の銀の髪と、長机の天板と、私の左の手首のブレスレットを同じ温度で照らしていた。


その光の中で、私の左の手のひらの中の、アルフォンス様の温度の輪郭がいつのまにか消えかけていた。







※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。



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