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プロローグ&第1話『入学式の熱』前半


深海の雫は、太陽に焦がれてはいけない。


焦がれたら、蒸発してしまうから。 焦がれたら、干上がってしまうから。 焦がれたら——世界が、傾いてしまうから。


そう信じて、私は「隠れる」ことを覚えた、十二の春のこと。







ガタゴト、と。硬い木の座席が、石畳の上で跳ねるたびに、荷物袋の底が膝の上でひと揺れする。

帝都の城壁を抜けてから、もう四時間は経っただろうか。


平民用の乗合馬車は、貴族の専用馬車のような滑らかさとは程遠くて、車輪が溝にはまるたびに、私の身体まで短く弾ませた。

窓枠の木は古く、どこかで塗装が剥げている。


私は窓の外をぼんやりと眺めていた。 十二歳の春。

亜麻色の麦畑が、遠くから春の光を受けて、黄金色に揺れている。


故郷のフェルンハイム——帝国直轄領の南端、『遠い里』の古い響きを名に持つ、麦と果樹の村。


あの畑のどこかで、父様は今日も鍬を振っているはずだった。

指先を、そっと膝の上の荷物袋に当てた。

袋のいちばん内側に、二つのものが入っている。


ひとつは、黒縁の眼鏡。古い銀の金具が、母様の肌の温もりをまだ覚えているような、そんな艶を持った、大切なもの。


もうひとつは、細いブレスレット。冷たく澄んだ水色の石が並んで、兄様が何度も術式を刻み直してくれた、手作りの守り。


——目立たず、騒がれず、無事に帰っておいで。 出発の朝、母様が玄関先で、そう言って私の頬に手を添えてくれた。

銀に近い金の髪を朝の風にほんの少しだけ揺らしながら、深い海の底のような蒼の瞳で、ただ、じっと私を見つめて。


母様は、昔——アクアニア魔導公国で「深海の魔女」と呼ばれた最強の魔術師だったらしい。 戦火の中で傷つき、国境を越えて帝国に流れ着いた母様を、名もなき一人の農夫が、拾った。


泥だらけで、銀の髪だけが雨に濡れて光っていたという、夏の夕方の話。父様は母様を連れ帰り、三日三晩、熱を出す母様の看病をした。

やがて目覚めた母様は、すべてを父様に話し、それからこう問うたそうだ。


——それでも、私を、ここに置いてくださいますか。


父様の答えを、私は知らない。けれど、十二年経った今も、母様は父様の隣にいる。

それが、父様の答えなのだろうと思っている。


『伝説』を捨てて、『ただの妻』になる道を選んだ母様——

その母様が、出発の朝、私に古い眼鏡を渡してくれた。


「——これは、あなたを守るための、魔道具よ」

眼鏡の奥で、母様の目が、少しだけ遠くなる。


「リアネの魔力は、私の娘だから、きっと強すぎる。帝国では、強い力は身を守ってはくれない。——だから、この眼鏡で、素顔と魔力を、隠して」


受け取った時、眼鏡は冷たかった。

けれど、かけた瞬間、母様の魔力がじんわりと肌に馴染んで、世界は少しだけぼやけた。 ぼやけた世界のほうが、私にはずっと、生きやすかった。


 「——リアネ、そんな眼鏡で隠せると思ってんのか」

出発の前夜、兄様が、裏庭の井戸端で、私の頭を乱暴に撫でた。

緩く束ねたくすんだ金茶の髪。母様譲りの深い水色の瞳。

端正な顔立ちには、一切の飾り気もない。母様の才能を濃く受け継ぎすぎた兄様は、帝国の魔法教育なんてままごとだと吐き捨てて、今は帝都の片隅で素性を隠して生きている。


「お前の魔力は、太陽の下に出せば、宝石みたいに光っちまうんだぜ」 そう言って、兄様は私の手首に、細いブレスレットを嵌めた。


「俺みたいにドロップアウトするなよ、リアネ。お前は父さん似でお人好しなんだから、『無能な特待生』のフリをして、卒業資格だけ掠め取ってこい」


「……兄様」


「これは、『魔力の底を隠すブレスレット』だ。俺が一晩かけて刻んだ、自信作。並の魔術師には、お前の底なんて絶対に見えねえ。眼鏡と合わせれば、二重防御だ」


「……でも、もし、バレたら」


「その時は、俺がお前ごと『アクアニアの濁流』で連れ出してやる。安心しろ」


——全然、安心できない。 兄様の冗談は、冗談で済まない威力を秘めているからだ。

私が唇をとがらせると、兄様は、にっと片方の口の端だけを上げて笑った。


「冗談だよ、半分は」


「半分は……」


「半分は、本気だ」

そう言って、兄様は、私の頭にぽんと手を置いた。


『父様の穏やかな慈愛と、母様の静かな英知、そして兄様の"隠しておけ"という忠告。』

——全部を胸に、私は学園へ向かう。  



ガタン、と馬車が大きく揺れて、私の意識は故郷から引き戻された。

車輪が、石畳のいちばん上等な区画に乗り換わる音がする。窓の外の風景が、急に変わった。


麦畑も、赤土も、もうどこにもない。

代わりにそこにあるのは、真っ白な石造りの城壁と、金と赤と白の旗。ソル・グラニア帝国の、太陽の紋章。


——聖アステリア魔導学院。

帝国の最高学府。魔力の強さがそのまま階級となるこの国で、その頂点に立つ者たちが集う場所。

平民の私が、特待生として、足を踏み入れる場所だった。


馬車が、正門のそばでゆっくりと停まる。

私は眼鏡のつるを、指先でほんの少しだけ直した。


「——よし」

小さく、自分に声をかける。

この眼鏡をかけていれば、視界は少しぼやけて、私の魔力も素顔も、泥で塗りつぶしたように誰にも見えない。


私の目標は、ただ一つ。


この学園を無事に卒業して、帝国の魔法管理から外れた場所で、静かに生きていく。


それだけ。

——それだけで、いい。


御者が外から扉を開けてくれる。

春の光が、ぱっと眼鏡の奥に飛び込んできた。

亜麻色の髪を耳にかける。荷物袋を抱き直す。

一歩、石畳へと踏み出した——その瞬間だった。


焦げたような熱い何かが、鼻先をふっとかすめた。



(……っ、熱い)


春の風のはずなのに、頬の肌がじりじりと痛む。


(……誰?)

間違いなくこの学院に、とんでもない火の使い手がいる。

私は無意識に、息を詰めていた。

歩き出して、数歩も行かないうちに、白いパラソルの群れに行く手を塞がれた。


「……そこ、邪魔ですわよ」

静かな、けれど芯の冷たい声が、上から降ってくる。


顔を上げると、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げた、私と同い年くらいの少女が立っていた。

白いレース、金の刺繍、光魔法特有の微かに煌めく空気。取り巻きの令嬢たちを、まるで波のように従えている。 少女は笑顔だった。

けれど、その目は笑っていない。


(……どけ、ということか)

私は慌てて壁際へ身を寄せようとした。


その瞬間——ぬかるんだ春の地面を、革靴のつま先がほんの少しだけ踏み外してしまった。

足元から、泥が飛ぶ。 私の靴へではなく。


——少女の、真っ白なドレスの裾へ向かって。


(……っ)

反射的に、指先でごく薄く、水の膜を展開した。

眼鏡とブレスレットの二重防御を、ほんの一瞬だけ裏側に回すほどの、極小の水魔法。


泥は少女のドレスに触れる前に、見えない膜に弾かれて、音もなく地面へ還っていった。

私は深く頭を下げた。


「……申し訳ございません。すぐに、お道をお空けいたします」 少女の微笑みが、わずかに濃くなった気がした。


——ちょうど、そのとき。


先ほどの比ではない「熱」が、背後から津波のように押し寄せてきた。


「——ルミエール」

ひと声、低く、空気を割くような声が響く。


「入学早々、見苦しい真似をするな」

周囲の空気が、焦げついた。


取り巻きの令嬢のひとりが「ひっ」と短く悲鳴を上げ、顔を青くする。

ルミエール、と呼ばれた少女は、振り返りかけた姿勢のまま、一瞬だけ表情を凍らせた。


ゆっくりと歩み寄ってくる、ひとつの影がある。

漆黒の髪が春の光の中でほどけるように揺れて、その下に、金の瞳がある。整った顔立ちは十二歳とは思えないほど大人びていて、でも、その周囲だけ、空気が焼けるように熱い。


カツン、と。 硬い革靴の音が、私の目の前で止まった。 ——彼が、そこに立っている。

ただそれだけで、春の風が夏の直射日光のように、頬を焼く。


(……この「熱」が、さっきのあの人なの)

呼吸が、浅くなる。


長い、沈黙。 彼は何も言わなかった。

ただ無言のまま——私の眼鏡の奥を、じっと見下ろしていた。何かを探すような、静かな、けれど逃げ場のない目だった。


レンズを二枚隔てているはずなのに、金の瞳がまっすぐに、私の深海に届いてくるような——そんな気がした。


(……見られている)

眼鏡の奥で、目を伏せた。


俯いて、息を止めて、ひたすら存在を消そうとする。 どのくらいの時間だったのか、わからない。


やがて彼は何も言わないまま、私の肩を掠めるようにして歩き出した。

硬い革靴の音が、一歩、二歩——次第に遠ざかっていく。

顔を上げる勇気は出なかった。

ただ、遠ざかっていく「熱」の気配だけを、肌でじっと数えていた。


ルミエール様と取り巻きの令嬢たちも、いつの間にか道を空けて、その背中を遠くから目で追っている。

プラチナブロンドの髪が春の光を受けて、微かに震えた気がした。


——ルミエール様の視線が、ゆっくりと私の方へ戻ってくる。

笑顔は、そのままで。 でも、その目の温度だけが、さっきまでとはまるで違っていた。


(……まずい)

肌が、総毛立つ。 理由はわからない。でもわかる。

共鳴系の私の内側で、水がごく小さくひとつ、波打った。


「……参りましょう」

ルミエール様はそれだけ言って、何事もなかったかのように取り巻きを従えて、石畳の向こうへ去っていった。

私はしばらく、その場から動けなかった。動悸が、収まらない。


(……目立たず、静かに) 自分に、言い聞かせる。

手首のブレスレットに、そっと触れた。兄様が刻んでくれた術式は、今日もちゃんと仕事をしている。


冷たい石の温度が、熱くなっていた指先を少しだけ冷やしてくれた。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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