Wolf-5 壊れていく音
バルコニーで月を見上げていたベアトリクスは静かに目を伏せた。教会でオリヴィエがやっていたのを真似て手を組み、祈る。
「不安なのですね、ベアトリクス」
「ごめん、起こしちゃった?」
「今宵は少し風が冷たいですね」
風に舞う髪を抑えながらマルガレーテがバルコニーに出て来た。
ベアトリクス達が秘密基地に帰還してから二週間が過ぎた。レミの行方は知れず、捜索に行くと言って出かけた狼のマルセルも戻ってこない。オリヴィエからの連絡も特にない。
「駄目だよね。しっかりしなきゃ。アタシが弱気でいると、みんなも不安になるだろうし」
「……わたくしの前では『お姉ちゃん』でなくてもいいのですよ」
「でも、マルガレーテだって……。マルガレーテのことも、アタシが守らなきゃ」
「怖くないと言えば嘘になります。自分のことも分からずに、森の中に放り出されて。けれど、わたくし」
バルコニーの柵に手を載せて集落跡を見下ろしていたマルガレーテが、ベアトリクスに顔を向けた。宵闇に紛れてしまいそうな黒髪の奥で月明かりを余さず取り込む青い瞳が煌く。
「わたくし、思っていたよりも結構強いのよ」
目の前にだけ朝がやって来たようだった。ぱっと花が咲くようにマルガレーテが笑った。それは、ベアトリクスがこれまで見て来た中で一番の笑顔。
澄まし顔の令嬢が不測の事態に怯えている。マルガレーテはずっとそんな状態だった。次第に表情が柔らかくなっていったが、ここまでの笑顔を見せたことはなかった。可憐で、それでいて芯の強さも感じさせる顔。その瞬間、ベアトリクスは全ての語彙を失った。ただ、黙って見惚れることしかできない。
世界で一番美しくて素敵なのはわたくしなのだから。
その言葉に深く納得した。
「本当のわたくしがどんな子なのかはまだ分からないけれど、今のわたくしはこうすることを選択します」
マルガレーテはバルコニーの柵から手を離すと、ベアトリクスに体を向けて歩み寄った。そして、静かに抱き締める。
「わたくしの前では『お姉ちゃん』でなくてもいいのですよ、ベアトリクス。弟や妹に言えないことを、わたくしには話してくれていいの」
何も言えなかった。何も言えなかったが、ベアトリクスの目からは涙が数粒零れ落ちた。狼達と共に野山を駆け回るベアトリクスに比べて、深窓の令嬢たるマルガレーテの体はか弱そうで細い。しかし、その背に縋るようにしがみ付いてしまった。
「孤独だったのね。皆に囲まれているのに。でも、大丈夫よ。今は……今は、わたくしがいます」
怖くてたまらなかった。ずっと、ずっと、ずっと。レミ達を連れて戦場から離れた時から、ずっと。皆の「お姉ちゃん」であるベアトリクスは、その身の内から生まれ続ける恐怖や不安を己に閉じ込めていた。オリヴィエに心情を吐露することはあれど、彼に見られたくない姿もあった。
他の群れの人狼も、森の獣も、人間の大人も。ただのベアトリクスであれば、そんなもの怖くない。しかし、「お姉ちゃん」のベアトリクスにとっては全てが恐ろしい。
自分の些細なミスで小さな子達を危険に晒すかもしれない。自分が「行け」と指示を出した先で誰か酷い目に遭うかもしれない。秘密基地にいる時も、調達に行く時も、常に緊張していた。責任感に押し潰されそうになりながら、「お姉ちゃん」として振る舞った。レミが寝た後に一人で泣いたこともある。
マルガレーテのような存在が、甘えられる相手が、同年代の人間の女の子が、欲しかったのかもしれない。
泣きじゃくるベアトリクスの頭をマルガレーテは優しく撫でた。
「たくさん頑張ったのよね」
「……ん」
肩の荷が下りたようだった。マルガレーテから離れ、涙を拭ったベアトリクスの表情は晴れやかなものだった。
「ありがとう、マルガレーテ。貴女をもっと頼って、甘えていいのかもしれないね」
「わたくしは自分のことも分からなくて、一人でできないことも多いけれど……。わたくしにできることなら、なんでも力になるわ。好きなだけわたくしの胸で泣いて良いのですよ」
「ほ、ほどほどにしておくよ。恥ずかしいし……」
「ほほほ……」
マルガレーテは優雅に笑う。
「貴女も落ち着いたことだし、わたくしはそろそろ休みますね。貴女もちゃんと寝ないと、いざという時咄嗟に動けなくてよ」
「うん、ありがとう。おやすみ……」
後ろ姿がカーテンの向こうに消える。
ベアトリクスは小さく息を吐いた。
恥ずかしい姿を見られた。けれど、マルガレーテにならば見せてもいいと思った。理由は分からなかった。
「……ありがとう、マルガレーテ」
夏が近づく頃だが夜風は冷たい。ひんやりとした空気に撫でられた頬が、なぜだか火照っているように感じた。胸の辺りもほんのりと暖かいような気がする。
マルガレーテに抱き締められた感覚がまだ残っているようだった。時折、彼女の体や腕が振れた部分に軽く手をやる。その度に頬が緩む。
「あぁ……」
いつまでも、いてほしい。
ずっと、マルガレーテと一緒にいられたらいいのに。
抑え込んでいたはずの気持ちが溢れ出してしまいそうだった。
「マルガレーテがいてくれれば、アタシも、子供達も……」
きっと楽しい……。という言葉を飲み込む。
ベアトリクスは首を横に振った。自分に言い聞かせるように、「駄目だよ」と強く言う。「駄目なのに」という小さな声が漏れる。
それからしばらく、ベアトリクスはバルコニーから外を眺めていた。見張りの狼が丁度交代したのを見届けてから、バルコニーを後にした。
ベッドの上ではマルガレーテが静かに寝息を立てていた。眠っていても美しいその姿は、まるで精巧に作られた彫像のようだった。触るとひんやりとしているのではないだろうか。ガラスの箱に丁寧に入れて飾られていてもおかしくない。ベアトリクスは思わず息を呑む。
これまで何度もその姿を見ている。しかし、今夜はこれまでとは違う感覚がした。自分の中でのマルガレーテの立ち位置が、きっと変わってしまったのだ。「秘密基地にやって来たお客さん」から「秘密基地の家族」に。愛おしく、尊く思った。アタシが守らないと。手放したくない。ずっと、このまま……。伸ばした手が微かに震える。
「……おやすみ、マルガレーテ」
黒髪にそっと指を這わせて撫でた。そして、名残惜しそうに、躊躇いがちに、手を離した。
翌朝。集落跡に悲鳴が響き渡った。
まだ太陽が昇り切っていない早朝。勢いよく階段を上って来る足音にベアトリクスは飛び起きた。外からは子供達のざわめきが聞こえている。
「お姉様! お姉様!」
壊れるのではないかという強さでドアを開けて飛び込んで来たロザリーは、顔面蒼白だった。汗と涙がぐしゃぐしゃに混ざって顎から数滴落ちる。ぐっすり眠っていたマルガレーテも流石に体を起こし、心配そうに見遣る。
「ロザリー、どうしたの」
「お、おね、お姉様っ……! お姉様ぁっ……!」
興奮した様子のロザリーはベアトリクスに呼び掛けることしかできない。パニック状態になっており、言葉が出て来ないのだ。
何があったのか分からなくても、何かとんでもないことが起こっているということは想像に難くない。富豪に随分と厳しく躾けられたロザリーが己の動揺を周囲に悟らせるようなことはほとんどないからだ。抑制できないほど、混乱している。
「ロザリー、落ち着い……て……。えっ……」
ベアトリクスはロザリーのことを上から下まで見ると、血相を変えて部屋を飛び出していった。
「ロ、ロザリーさん、一体何が……。あっ、血っ、血が……! 怪我をしているの?」
手や服の一部に血が付着していた。歩み寄ったマルガレーテに対し、ロザリーは小さく首を横に振る。そして、顔を覆って泣き出してしまった。慌てるマルガレーテの前に頽れ、体を震わせる。
「あぁっ……あぁ……! こんな、こんな、こと……! ここで、始まってしまうなんて……!」




