己たることを張り上げ
とはいえ、掃除洗濯と言った家事が得意であり、屋敷でお祝いがあるとそれを成功に導いていた少女は、自分が何をすればいいのか見当がつかなかった。
何なら、お母様を喜ばせられるだろうか。
頭を悩ませている間に、何もかもが進んでいきそうで、余計に焦ってしまう気持ちが強い。
どうしよう。
なにをすれば。
でもいったい何を?
考え込んだ少女が寝台の上で、ぐるぐると終わらない考えを巡らせていた時である。
不意に、だ。
窓が開いたと思えば、信じられないほどの風が室内に入ってきた。
気温がさほど高くない季節であるため、風は強いほど突き刺すような寒さに感じられる。
「えっ」
鍵をかけ忘れてしまっていたのだろうか。
クラウスはそういう思いから、急いで立ち上がった。
このままでは、せっかく使用人たちが暖炉で温めてくれた部屋が、一気に寒くなってしまう。
寒い思いをするのは嫌だったし、何より窓が開きっぱなしでは不用心だ。
朝起こしに来てくれる誰かが、心配だってするだろう。
窓を閉めよう、と。
開いていたガラスに手を伸ばしたその一瞬だったのだ。
それが現れたのは。
それ、は。
なんだかとても美しい姿をしていた。
細い月の灯りの下なのに、自ら発光するように光る緑の髪をしていて、白くも黒くもない肌色をしていて、瞳は暗い緑の色をしている。まるで沼のような瞳だった。
それ、はクラウスの前に立っていた。ガラスの窓の縁に、静かに物音一つなく、立っていたのだ。
異常事態だった。否応なくそれが分かったし、なんだかとてつもない何かだともわかったのだ。
「沼の血脈の跡取り」
それ、はクラウスの名前を呼ばなかった。だがそれは間違いなく、彼女を指名している。どうしてだかわかった、何故分かったのかすら理解できないのに。
「沼の血脈の末裔。お前が、沼の名前から外れる事は許さない」
それ、がすこぶる美しい女性だと気付いたのは、その言葉の険しさからだった。
それは許さないと明確に語っていた。
中身は全く分からない、だがクラウスという少女がなにか、破ってはいけない何かを破ったのだとはわかる、そんな音の連なりだったのだ。
「沼の血脈の末裔。お前だけは、沼から外さない」
女性が手を伸ばす。伸ばした手がクラウスの肌に触れたその時だ。
「クラウス!」
鋭い声が響き、彼女と女性の間に鞘に入ったままの剣が差し込められた。
遅れて外套が翻り、彼女の視界から女性を隠す。
「ドルヴォルザードに言い忘れた事があった、と戻ってきて見れば。いったい何を引き付けたんだ」
警戒している。この女性は、夜の君にとってもそれだけ危険なのか。
そこでクラウスは自分が、緑の女性に見入っていた事実に気付いた。
全く警戒をしていなかった事にも気付かされる。
何故、鍵のかかった窓を開いて現れた女性を、怪しいとすら思わなかったのか。
その答えが出る前に、やや乱暴な音と足音がいくつも響き、養父たちが姿を現す。
「妙な物音が聞こえてきたと思ったら、夜の君、おさがりを! 怪しい女、一体どうやって入ってきた! 皆の物この女をとらえろ!」
養父が険しい声で警備達に声をかけるが、女性はそこまで進んでいるのに警備達には頓着しなかった。
ただ。
軽い平手打ちで、プロ―ポスを打った。
たったそれだけだったのに、それだけだったのに。
何かと何か、目に見えない二つの何かがぶつかり合ったと思えば、緑の火花と燐光が散る。
そして己よりはるかに大きな体の彼を、吹っ飛ばしたのだ。
だがそれのいく先に目もくれず、女性はクラウスを見ている。
他の物を全く認識していないような、態度だ。
そして、プロ―ポスが吹っ飛ばされたことで、他の誰もが凍り付いたように動けなくなっていた。
だってあまりにもあり得ない事だったのだ。小柄な姿の女性の、軽い平手打ちで大きな男が吹っ飛ばされて壁に叩きつけられるなど。
人間、あまりにも信じられない光景があると、思考も動きも止まるのだ。
女性はそれでも、周りを無視している。
超然とした態度のまま、クラウスだけを見つめ、最後の通達のように告げた。
「沼の血脈の末裔。離れる事は契約を違える事。お前だけは違える事を許さない。それでもと言うのならば、「待ってください!」
そこでクラウスは声を張り上げて、女性の言葉を遮った。ものすごく勇気のいる事だったが、言わなければならなかったのだ。
クラウスは、聞かなければならない。
「あなたの言葉の何もかもが分からない、あなたの言葉の意味する事のすべての前提条件を知らない! それで違えただの何だのと言わないでください! 説明もしないで破ったとか言われるのはとても、心外です!」
「クラウスっ!」
養父が彼女を庇おうと、視線をそらそうと声をあげる。
だが女性は、クラウスの言葉を聞き、目を瞬かせた。
「ジョンの孫が知らない。ジョンの孫が。ジョンの選んだ後継者が」
ジョン。ジョンという名前はたくさんいるから、誰なのかよくわからない。
余計にこんがらがった、と思いながらもクラウスは、この状況の流れを素早くつかもうとする。
「あなたのいうところのジョンすら、わたしは知らない!」
彼女がまた大きな声で告げると、女性はじいっと、とても暗い底なしの、緑青に似た色の瞳を向けてくる。
「愚かな。知らせない事で隠そうとしたか、名前を男の名前にして隠そうとしたか、それとも資格がないと思わせたかったか」
彼女の静かな声は誰かを嘲笑っているようだった。
「あの女は愚かだった。死ぬと言った、死んでしまうと言った、死んだあとは守れないのだと教えた、それでも男のもとに嫁いだ。嫁いで子供を産んで死んだ、産んだ子供の片割れは死んだ原因とされてうとまれたのに」
その流れの一部は、知っている気がした。
自分の母も、自分とキララを産んですぐに死んだのだ。そして自分は死んだ原因と言われた。
そこだけならば、彼女の語るあの女、は自分の実母なのかもしれないが。
「知りたければ末裔の子供、始まりの沼まで来ればすべてすべて、明らかになるだろう」
ばちゃん。
それだけ告げた女性は、水音とともに消えた。水音のするものなんて何もなかったというのにだ。
明らかに、人間以外の何かだったのだ。
彼女が立ち去った事で、ようやく人々の空気が動き始めた。
そこで張りつめていた神経が緩み、クラウスは友人のもとに駆け寄った。
「プロ―ポス、大丈夫!?」
今まで近付けなかったのは、おそらく相手の視線に縛られていたからだろう。
手が今更震えはじめていた。
助け起こした彼は、頭を思い切り打ったらしく、目を回して気を失っていた。
だが、彼があの時割って入らなければ、自分はどうなっていたか見当もつかない。
「えっと、誰か、お医者様を! 使える寝台を教えてください!」
ざわめく周囲、そして辺りの警備に先ほどの女性の捜索、と人員を振り分けていた養父が、数人クラウスに警備の人間を貸してくれ、急ぎ寝台と医者を用意する事になった。
「シャリアお母様なら、何か知っているのかな」
医者の診断の後、寝台に眠る友人を見つめながら、クラウスは女性の言葉を思い出せる限り思い出そうとした。
そこでふと思い出したのは、ギースウェンダル家の領地は広大な沼を持っている事であり、何年もそこの夫人をしていた彼女ならば、何かを知っているかもしれないという事も閃いたのだった。
帰ってきたら聞かなければ。
そうしなければ、何もできないと彼女の直感のような物が告げていた。