(7)
壱-(7)
まがりなりにも自衛宙軍の一部署である八部本部の無機質な空間に、ありえない物体が浮遊していた。
シャボン玉である。
子どもの玩具としては有名な虹色の泡玉も、大人になれば見る機会も少ない。
――最後に見たのはいつだったかな。
などと現実逃避気味に思いつつ、サリュウは暗灰色のスチール鋼板の床に座って無邪気にシャボン玉を吹き散らす鳶色の髪の少女に目を向けた。
その横でしゃがんで少女の相手をしているのが、そもそもの発端である、チヒロ・ハナダ。
テロの予知夢を観、さらに強力なテレパシストである彼女に簡単に話を聞いて、全員に顔だけでも見せておこうと目論んだサリュウの魂胆は、見事にぶち壊された。
話し合いが長期戦になるとみた一同は、夜番と昼番のメンバーは引き上げ、朝番は仕事を開始していた。
本来はサリュウが朝番の指揮を執るのだが、今回は三等宙佐であるダイナンに任せることとする。そのうえ、
「どうせ起きてしまいましたから」
と、自他共に認める短時間睡眠のラギ二等宙佐が、フォローとして加わった。
本部は入り口から扇状に広がっており、全体がすり鉢型なので、上段のフロアデッキから全面を見渡せる。そのフロア壁際の八分の一ほどを透明なアクリルで仕切り、ソファとテーブルを置いた一画が、本部における応接室だ。
朝番であるフアナ・ユカリが、応接室の机にコーヒーを並べて、フロア最前の一番見晴らしのいい〝隊長席〟に座るサリュウに声をかけた。
「隊長。コーヒーをどうぞ」
「ああ、ありがとう」
フアナが、十九才にしては蠱惑的なラインを描く胸の前でお盆を抱え、こっそり尋ねる。
「あの、あれで……話し合い、できるんですか?」
あれ、というのはもちろん、チヒロにべったりくっついた、あやうい神経の少女のことだろう。
サリュウは、シャボン玉が飛び交う非日常的な光景に、軽くため息を洩らす。
「まあ、なんとかなるだろう」
「でも、あれじゃあ……」
「フアナ」
発言を遮るように名前を呼び、サリュウは新人隊員である彼女を見た。
「御苦労だった。仕事に戻ってくれ」
「……はぁい」
叱られたことが分かったのか、フアナは少し頬を膨らませ、長い栗色のウェーブヘアをひらひらなびかせながら自分の席に戻る。
部屋の広さと計器の多さに関わらず、席数は少ない。三つある巨大スクリーンの前に二席、サリュウの右下方に一席、中央に一席。フアナはアスマと並んで最前の席に座り、イヤホンをつけた。
サリュウは椅子を半回転させると、床に座り込む黒髪の少女に呼びかける。
「チヒロ」
「は、はい」
「マナクを外して、あちらで話ができるか?」
チヒロが、透明な仕切りで区切られた一画に、不安そうな眼差しを向ける。
「たぶん大丈夫と思いますけど……マナクをわたしの見える位置にいさせてもらえますか? わたしの姿が見えていれば平気だと思うので」
「そうか」
サリュウは応接室の配置を考えて、彼女たちが今いる場所が視界から隠れてしまうことに気づいた。応接室の隣にある休憩用のソファなら、ちょうどよい。
折り良く、まだソファに居残っていたカイデンと目が合う。
「なんだよ」
「カイデン、そこでマナクの相手を頼む」
雑誌をめくりかけた男の手が止まった。
目を見開いて、思考を読むまでもなく、俺が?という顔になる。
《そう、おまえ》
《な、泣かないか?》
《おまえの腕の見せどころだ。女性の扱いはうまいもんだろう》
サリュウの皮肉にカイデンが顰め面になる。そこへ、
《――すみません。お願いします》
新しい思考が流れ込んできた。チヒロだ。
カイデンは、不承不承頷いた。
「……分かったよ」
話がまとまったとみると、チヒロは手早く荷物を拾い集め、シャボン玉を吹き散らしている妹に声をかけた。
「マナ。ここはおじゃまになるから、あっちへ行こう」
「やあだっ」
「ほら、あのおにいさんが遊んでくれるって」
「やーあっ」
「おにいさんがマナと遊びたいなあって。ほら、行ってみよう」
返事の代わりに、マナクは思いきりカイデンに向かってシャボン玉を吹きかけた。小さな虹色の泡玉がぷつぷつはじけ、大きなひとつが目の前に泳いでいく。
カイデンは、ふ、と笑うと、シャボン玉に人さし指を向けた。
と。
すう、とシャボン玉が、意志をもったように空中高く浮き上がる。
「わあ!」
マナクが歓声をあげた。
天井すれすれまで昇りきった虹色の泡玉が、くるくるっと回って、ぱちんとはじける。
「わーあーあっ」
飛び跳ねるように喜ぶマナクを、今のうちとばかりにチヒロが手をひいて、カイデンのいるソファに誘導した。
「ほら、マナ。おにいさんにもっと遊んでもらいな」
「うん!」
マナクはシャボン玉を自在に操るカイデンのサイコキネシスに、もう夢中だ。瞬く間に、その一帯がシャボン玉工場と化す。
チヒロは大きな容器からシャボン玉液を補充して、身振りでカイデンにバッグに入っているからと教えた。
「一度熱中すると当分大丈夫だと思います。無理なようなら、すぐに呼んで下さい。わたしもできるだけ早く戻りますから」
「分かった」
「すみません」
チヒロは頭を下げると、再びマナクに声をかける。
「マナ、少し姉さんいなくても平気?」
「うん」
「姉さんはすぐ隣の部屋にいるから。マナが見えるからね」
「うん」
「マナ、おにいさんと待っててね」
「うん」
聞いているのだかいないのだか、うやむやの答えをする妹をカイデンに任せて、チヒロはようやく応接室に入った。
ユカリ(縁の色=紫):紫草を本に挟んでおくと、他の頁にも色が移ることからつけられた呼称