其之零 夕暮れの街道
この作品を、
―日本一の用心棒役「5万回斬られた男」―
故・福本清三 さんに捧げます。
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夕暮れの街道を、一人の男が歩いていた。
西の空は茜色に染まり、山の稜線へ沈みかけた陽が、街道を長く照らしている。
昼間の喧騒も薄れ、行き交う人影もまばらになっていた。
男は肩に荷を掛け、特に急ぐ様子もなく歩いていた。
「……腹減ったな」
ぽつりと呟く。
今日の仕事は終わった。
金も入った。
天気も悪くない。
ならば、あとは飯を食って寝る。
実に平和な一日だ。
――そう思っていた。
遠くから、馬の嘶きが聞こえた。
続いて、人の怒鳴り声。
男は足を止めた。
「……ん?」
街道の先。
土煙が上がっている。
その向こうから、荷馬車が一台、こちらへ向かって走ってくる。
いや。
よく見ると、逃げている。
馬車を囲むように、数人の男たちが刀を抜いている。
護衛の者もいるようだが、明らかに分が悪そうだった。
「おいおい」
男は目を細める。
襲撃。
どう見ても襲撃だった。
「……よりによって俺の帰り道でやるかね」
関わらない。
それが一番だ。
面倒事には近づかない。
見なかったことにして、そのまま通り過ぎる。
それが大人というものだ。
男は一歩、脇へ避けた。
――その直後。
「助けてくれ!」
馬車から男の声が響いた。
男は足を止めた。
「…………」
振り返る。
襲撃者の一人が馬車へ飛び乗り、御者を斬りつけようとしていた。
その瞬間。
男の表情から、わずかに笑みが消えた。
「……あーあ」
ため息。
そして、頭を掻く。
「見ちまったか」
見なければよかった。
本当に。
見なければ、今頃は宿で飯でも食っていた。
だが、見てしまった。
それに――。
「助けを求められて、無視するほど落ちちゃいねぇんだよな」
男は腰の刀へ手を添えた。
ゆっくりと歩き出す。
襲撃者の一人がこちらに気づいた。
「何だ、てめぇ!」
男は答えない。
ただ歩く。
「止まれ!」
怒鳴り声。
さらに一人が刀を抜いた。
「関係ねぇ奴は失せろ!」
男は足を止めた。
そして、困ったように笑った。
「それが出来たら、そうしてるんだけどな」
「何?」
「こっちも夕飯前なんだ。出来れば早く終わらせたい」
「舐めやがって!」
男が迫る。
刀が振り上げられた。
その瞬間だった。
男の身体が、僅かに沈んだ。
次の瞬間。
――キンッ。
乾いた金属音。
襲撃者の刀が、宙を舞った。
「な……」
男は既に、その懐へ入っていた。
刀は抜かれている。
だが、その切っ先は相手の喉元ではない。
肩口。
腕を狙った一閃。
男が柄で相手の手首を打つ。
「ぐっ!」
刀を落とした男が尻餅をつく。
周囲の襲撃者たちが、一斉にこちらを見る。
男は小さく息を吐いた。
「……お前ら」
刀を構える。
「飯前の人間を怒らせるもんじゃないぞ」
次の瞬間。
男の姿が、夕暮れの街道から一瞬だけ消えた。
――いや。
消えたように見えただけだった。
一人。
二人。
三人。
襲撃者たちの手から、次々と刀が弾き飛ばされていく。
斬らない。
殺さない。
ただ、戦う意思だけを叩き折る。
最後の一人が恐怖に顔を歪めた。
「な、なんだ……てめぇ……」
男は刀を鞘へ収めた。
「通りすがりだ」
「通りすがり……だと?」
「そう」
男は肩をすくめる。
「俺も、こんな予定じゃなかったんだけどな」
静寂が戻る。
襲撃者たちは、もはや戦う気力を失っていた。
その時。
「……もし」
馬車の中から、声がした。
男が振り返る。
そこには、商家の者らしき男たちがいた。
そしてその中心に――一人の恰幅のいい男がいる。
男は震える手で着物の埃を払いながら、こちらへ歩いてきた。
「お怪我は……?」
「こちらは何とも」
「そうですか……」
恰幅のいい男は、助かった安堵からか、大きく息を吐いた。
そして男を見上げる。
「いやはや……まさか、あれほどの腕前とは」
「大したことじゃありませんよ」
「大したことがない?」
男は苦笑した。
大したことはある。
自分でも、それくらいは分かっている。
だが、わざわざ自慢することでもない。
すると、恰幅のいい男が深々と頭を下げた。
「このご恩、決して忘れません」
「いやいや、頭を上げてください」
「しかし――」
「本当に。俺はたまたま通りかかっただけですから」
「たまたま……ですか」
男は頷いた。
「ええ」
そして街道の先を見る。
もう陽は山の向こうへ沈みかけていた。
「……ところで」
男は腹を押さえた。
「…ついでと言ったらなんですが」
「はい?」
「この辺りに、飯を食えるところってあります?」
しばしの沈黙。
やがて、恰幅のいい男が吹き出した。
「はははっ!」
「……何かおかしいですか?」
「いえ、これは失礼」
恰幅のいい男は笑いながら頭を下げる。
「私は黒金屋喜兵衛と申します」
その名を聞いた瞬間。
男は、ほんの僅かに眉を上げた。
黒金屋。
この宿場町で、その名を知らぬ者はいない。
表向きは大きな商家。
米、反物、旅籠、運送。
町の人間なら、一度くらいは黒金屋の世話になったことがある。
だが――。
それだけではない。
男も、この商人がただの商人ではないことくらい知っていた。
「……黒金屋の旦那ですか」
「おや、ご存じでしたか」
「そりゃあ、この辺りじゃ有名ですから」
喜兵衛はにこりと笑った。
「では、改めまして」
そして再び、深々と頭を下げる。
「本日は、誠にありがとうございました」
「いや、だからそんなに――」
「ところで」
喜兵衛は顔を上げた。
その目が、商人らしい笑みに変わる。
「もし差し支えなければ――」
「はい?」
「我が黒金屋で、少しばかりお力をお借りすることはできませんかな?」
男は固まった。
「…………」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がする。
夕暮れの空を見上げる。
さっきまで、ただの平和な一日だった。
飯を食って。
酒を飲んで。
寝る。
それだけだったはずなのに。
「……旦那」
「はい」
「俺、今の一件だけで十分厄介事に巻き込まれてる気がするんですが」
「お気のせいでしょう」
「その笑顔で言われると、余計に信用できないんですが」
喜兵衛は笑った。
男は頭を抱えた。
――この時はまだ、知らなかった。
この小さな出会いが。
黒金屋を巡る裏の争いへ繋がり。
蓮華の会、蛇牙組、そしてこの宿場町に潜む様々な人間たちと関わることになるなど。
そして後に、自分がこの町で――
「先生」
そう呼ばれるようになることなど。
この時、その男…
――黒沢 一之進は知る由もなかった。
あとがき
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
まずは無事、序章を書き終えることができました。
そもそも
この物語を作るキッカケは…
時代劇には、お約束のシーン
悪徳商人がいる。
何やら怪しい取引をしている。
そこへ正義の味方が乗り込んでくる。
すると――
「先生……お願いします!」
奥から用心棒が現れる。
「どぉれ……」
……そう、あの人である。
その用心棒を主人公にしたら面白いんじゃないか?」という、かなり単純な発想から始まりました。
……本当に、それだけです。
ところが主人公を考え、舞台となる宿場町を考え、悪徳商人を考え、周囲の人々を考えているうちに、
「あれ? 用心棒の話だったはずなのに、商売の話まで始まってない?」
という状態になりました。
剣を抜けば強い。
けれど、できることなら抜きたくない。
そんな主人公が、いったい何を考え、誰と出会い、どんな騒動に巻き込まれていくのか。
ここから物語は本格的に動き始めます。
時代劇らしい勧善懲悪……になるのか。
それとも、もっと面倒くさいことになるのか。
そのあたりも含めて、楽しんでいただければ幸いです。
それでは次章も、どうぞよろしくお願いします。
――さて、次はどんな厄介事が「先生」を待っていることやら。




