王宮書記官ホローブン
「エレナちゃん、お帰りなさ~い。」
「わぁ。ただいま~アデット。」
扉を開くと、この仕事帰りのお父さんに駆け寄って抱き着いてくれる娘・アデットがいる。なんと疲れが吹き飛ぶ瞬間だろう。
日を重ねるごとに、私に仕事を分ける[書記官らしき人・その何番]の人数も増えていた。空が夕焼けになる少し前頃には、こうして女性陣から急かされて早退気味に帰宅するけれど。
それでも、緊張と集中を必要とする清書ばかりのお仕事で、きちんと疲れたお父さんと同じにはなる。
そう、体育の時間も部活も無い。私は遊び足りてない。
このままでは、裏紙の羊皮紙の隅に……攻略対象の顔を描いてパラパラ漫画を作るだけの青春になってしまう。
なので、私は文官ローブをベッドに脱ぎ捨てて、アデットと一緒に廊下を静かにお外に出て、この子のお家のある文官居住区画まで競走した。
お城の外れに行くと、石壁を利用しつつ煉瓦造りの壁が混ざる。文官家族の居住区画。
このヴァルモンド城は外敵から攻め入られた事がないんだけど、城内に勤める平民が増えた頃にこうして造られたらしい。
オルダニア王国が平和な証。
文官さんでも、だいぶ偉い人たちになると毎日お城からの出入りができて街のお家から通えるようだけど。多くの文官さんたちは街に実家がありつつ家族と一緒か単身で、この集合住宅で小さな生活圏を営む。
確かに、全員があんな洞窟みたいな城内のお部屋では、幼い子も健全な情緒が育つか不安よね。
幾つかの、いい匂いが漂う。
「ママ、連れてきた。」
「エレナさま、今日もお疲れ様でしたね。」
「おじゃましま~す。」
細かいところで堅苦しい身分差があった理由は、私が「優秀な算術士の卵」という採用枠だったからだ。だからあんな個室が用意されたし、女の子同士で食べ物も一緒に食べられなかった。
でも貴族と平民ほどには、絶対な身分差でもない。理由というものはどうとでもなる場合もあるもので、大勢と食堂で食べるか、誰かにお招きされるかの選択の自由くらいはあるというわけだ。
空が薄暗くなった頃には、ちらほらと何人かの男性が帰宅してくる。
私と けんけんぱ を遊んでいたアデットが、「パパだよ」と私に言う。
「アデット、お姉さんと遊んでたのかい。」
相変わらず、ご自宅におじゃましてさえいるのに私には特に関心を向けない。[算術士らしき人・その6]さんだ。
そして、うん。さすがに本物のお父さんの前では私のお父さん気分も敵わない。
えっと、そうなのよ。
もしこれで、アデットのお父さんが特別な人だったりしたら話も分かりやすくなったりすると思うんだけど。アデットのお父さんはごく平凡な目立たない文官さんでした。
誰だったかな。1人、名前が初めから分かってる人が1人、いた気がするわよね。
[書記官らしき人・その29]。29番ってだいぶ後のほうなのでよほど私に接点が無かった人。
新人1週間頃のある時、[書記官らしき人・その29]が差し出してきたのは、この仕事場では初めての算術作業だった。
「文書の扱いは分かってきましたかな。エレナ君は算術士になってもらうためにも頑張ってもらうよ。」
「……あ、はい。その、つもりです。」
「優秀だと聞いているしけっこうな事だが。ロイエル殿によると少しだけ、間違いを見つけると勘違いしてしまう事もあるようだからね。」
「あははは。若輩なものでして。」
本当に間違いなだけだったら、私がここであなたの監視下に置かれる事も無かったわけですが。
と言っても、忘れていた。それくらいこれ見よがしな視線が私に向けられるわけではない。……むしろ私を避けてませんか?
カルスル家に通っていた頃に数回、パーティション越しに見かけていたディドレル会の使いの方のお顔がそこにあった。




