27
マシェリが初めて夜会へ出席したのは、十五歳の誕生日を迎えた翌月。
父であるクロフォード伯爵のエスコートでテラナ大公の城へ赴き、他十数名と共に社交界デビューを果たしたのだ。
初めて目にする大公と妃殿下を前に、さすがのマシェリも恐縮し、胃が痛くなってしまったのを覚えている。
夜会の会場となった居館にもそれなりの豪華さと広さがあった。しかし会場の規模も煌びやかさも、人の多さも。このフランジア帝国の大広間には遠く及ばない。一歩中に足を踏み入れた途端、眩しい光と音の波に酔ってしまいそうになる。
――思わず、マシェリの手に力がこもった。
「大丈夫?」
声をかけられはっとして顔を上げると、グレンが心配げにマシェリを覗き込んでいた。その左頬にはマシェリ作、出来たてほやほやの赤い手の跡がくっきりと残ってしまっている。
そういえば心なしか、客たちの視線もグレンにばかり注がれているような……
(心配されてるのは貴方の方ですわ)
つい頬が緩み、そう言いそうになるのをグッと堪える。マシェリは口角を上げ、夜会で身に付けた淑女の笑みを貼り付けた。
「ええ、もちろん大丈夫です」
「良かった。あれだけ拒まれた上、パーティーまで途中退場されてはかなわない」
グレンがにっこりと微笑む。しかし、目は全く笑っていなかった。どうやら彼は平手打ちより、さっき執務室でキスを拒んだ事を未だ根に持っているらしい。――心が広いんだか狭いんだか。よく分からない皇子様である。
「お手をどうぞ。お姫様」
差し出されたグレンの腕に手を添え、大広間の奥へと歩を進めて行く。
華やかに着飾った客達にぐるりと視線を巡らせてみれば、マシェリに向けられてくる、好奇に満ちた眼差しと出会う。広げた扇の端から覗くようにチラリと見る者。あからさまに眉をひそめ首を振る者。まるで値踏みでもするかのように、マシェリの頭からつま先までジロジロと眺める者。
フランジア帝国の第一子にして、唯一の皇位継承者。僅か十四歳で国政に携われるほど聡明かつ稀に見る美貌の持ち主でありながら、女嫌いとも噂されていた皇太子殿下。その彼を射止めたのが公国の伯爵令嬢であると聞き、みな興味津々なのだろう。
ーーしかし、随分と無遠慮である。
パーティー中はさすがに何も出来ないが、あまりに態度がひどい奴はしっかり記憶に留めておいて、後で口なり手なり出してやろう。少々物騒な事を考えながら、マシェリは手始めにちらりと左斜め前に目をやった。
絨毯ギリギリに身を乗り出し、額に手をあてつつ、マシェリをやたら熱心に見ていたのは、紫色の衣を着た男。
肩で一束にまとめた栗色の長髪。切れ長のモスグリーンの瞳。額の真ん中には、紫の小さな宝石が貼り付けられている。
(紫色は確か、カイヤニの国色だったはず)
ならば彼は大公か。しかし――随分と若い。楽しげに隣の婦人に笑いかけている姿は、せいぜい二十歳くらいにしか見えなかった。
貴賓席にあと少しという所まで来て、ふと振り返り、眉をよせる。
(……やっぱり、何度数えても一人足りない)
足りないのは緑色。――それは、ブルーナの国色だ。ふと思い付いて貴賓席に視線を向けてみれば、やっぱりと言うか案の定というか。皇帝陛下の側に立つビビアンの顔から、胡散臭い笑みと生気が失せていた。
どこか虚な目で、ぼんやりと宙を見つめている。
「どうやら、招待客が数人来ていないようだね」
大広間の一番奥、金細工が施されたテーブルの前まで辿り着くと、グレンが呟くように言った。
「殿下は、アズミ姫にお会いした事がおありなんですの?」
「それはもちろん。視察でブルーナ公国へ行った時にはあちらの城にも顔を出すからね――それに……」
侍従が椅子を引きに来ると、グレンは言葉を切った。
着席した途端、また五人の大臣がぞろぞろと前に出て来る。「それに」の続きが気になったが、マシェリはとりあえず前を向いていた。
「アズミ姫は、僕の初恋の相手だったんだ」
不意にグレンが言う。身動ぎもしないマシェリの視線の先で、三人目の大臣が盛大な咳に苦しんでいた。それを見かねて侍従が渡した水のグラスを、大臣が取り損ねる。
かしゃん、と落ち、ガラスの破片が床に飛び散った。
「ブルーナ公国は五カ国の中で最も財政豊かな国だから、ビビアンも諦めきれないんだと思う。アズミ姫との婚姻が、フランジア帝国にとっては一番国益に繋がるから」
マシェリは、グレンの方を見なかった。侍従がグラスの欠片を片付けるのを、ただぼんやりと眺めながら、小さなため息を一つ吐く。ーー言うべき言葉は分かっている。なのに……。なのに、どうしてこんなに口が固く閉じてしまうのだろう。
マシェリは、膝の上の手をきゅっと握り締めた。
「……それを分かってらっしゃるのなら、わたくしとの婚約を今すぐ破棄して、アズミ姫と婚約されるべきですわ」
絞り出した声が震えないよう、精一杯喉に力を込めて言う。意に反する言葉を口にするのは、これほど苦痛が伴うものなのか。
押し寄せてくる後悔が、マシェリの心を重くした。下を向けば、膝上の手にぽとりと滴が落ちる。
「――本当に、そう思っているのなら、何故泣くの?マシェリ」
グレンの手のひらがマシェリの頬にそっと触れ、その指先が涙を拭う。滲んだ視界の中のグレンは、少しだけムッとした顔でマシェリを睨み、口を尖らせていた。
「実はね、僕の妃候補は彼女を含めて五人ほどいたんだよ。公女が三人に侯爵令嬢が二人。でも婚約当日、仕事に託けて謁見の間で半日くらい待たせておくと、皆帰ってしまうんだ。そしてぜーんぶ自然消滅」
涙を拭った指をぺろりと舐めながら、グレンが悪戯っぽく笑う。
「半日なんて。帰って当然ですわ」
「うん。……だけど、君はそうしなかった」
水と間違え、白ワインのグラスを煽った小柄な大臣がふらつき、テーブルクロスを掴む。綺麗に並べられていた食器類が派手な音を立てながら床へと滑り落ちると、オーケストラの指揮者が、たまりかねたように指揮棒をばきんと折った。ーー思わず、マシェリとグレンが同時に二階の演奏室を見上げる。
躊躇いがちに視線を戻せば、逃がさない、とばかりにグレンの眼差しがマシェリを捕らえた。
「靴を脱ぎ捨てて走ってまで、僕を迎えに来てくれたのは君だけだよ。マシェリ。襟首を掴んで、陛下の前に来いと叱ってくれたのも、ね」
「でも……! わたくしなどではフランジア帝国の、国益の足しになりませんわ。公国のーー……たかが、伯爵令嬢ですもの」
ドレスの胸を抑えながら俯き、首をふるふると横に振る。
「それでも、僕は君がいい」
グレンはマシェリの左手を取り、両手で包むように握り締めた。
「もう一度、改めて言うよ。マシェリ……どうか、僕と結婚して欲しい」
「殿下……」
指揮者が折れた指揮棒を放り投げ、退場して行く。客達は皆頭上の演奏席に注目し、貴賓席に背を向ける。ビビアンは頭を抱え、皇帝陛下は欠伸をし始め、侍従はひたすら床を掃除していた。
グレンが赤髪を撫でながら、耳へとかける。マシェリの膝に置かれた右手は、今度はピクリとも動かなかった。




