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アストラルエデン 〜最弱なわたしの魔力譲渡に、最強の乙女達が群がる理由〜  作者: 植物めんじゅ
2章 極楽浄土に君臨せし破壊の修羅

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第60話 紡がれる悪魔の糸

 東京の喧騒を貫く地下鉄の車内。夕暮れの光が窓から差し込み、あたしの横顔をオレンジ色に染め上げていく。ガトゴトと規則正しく揺れる車内のシートに背中を預けながら、あたしは自分の両手を見つめて、何度も深呼吸を繰り返していた。心臓が、いまだにうるさい。なんなのよ、もう……。なんなのよ、あのFランクお荷物大聖女は……っ!


 目を閉じれば、更衣室のあの甘くて、もわっとした湿り気のある熱気が蘇ってくる。震える両肩に優奈の白くて細い手を置かれた時の、あの心臓が止まるほどの緊張感。最初は、約束通り「チュッ」と唇を触れ合わせるだけの、形ばかりのキスだと思って、ギュッと目を閉じていた。なのに。『軽く口を開けてください』なんて。驚いて目を開けた瞬間に、あいつの熱くて柔らかい舌が、あたしの口内へ躊躇うことなく滑り込んできたのだ。


 ひゃうぅぅっ、って……ウチ、マジで変な声出しちゃったし……っ!


 思い出して両手で顔を覆った。顔から火が出るどころか、体温が一気に沸騰して、襟元をパタパタと仰がずにはいられない。初めて体験した、濃厚なディープキス。完全にパニックになったあたしは、あいつを押し返そうとしたのに、暖かい何かが体内に流れ込んだ瞬間、嘘みたいに全身の力が抜けて、腰が砕けてしまった。舌を吸い上げられた瞬間、 脳がぐにゃぐにゃに蕩けるような、圧倒的な快感に支配された。その時の、更衣室中にジュルジュルと響き渡った生々しいキスの水音を思い出すだけで、お腹の奥がじわじわと疼いて、太もも同士をキュッと擦り合わせてしまう。


 そりゃあ、あの二人が優奈のことになると、理性もプライドもかなぐり捨てて狂ったように執着するわけだ。身を以て体験して、初めて心底納得してしまった。しかも、その濃厚すぎるキスの最中、玲香センパイと望愛は、ギラギラとした熱い、それこそ今すぐあたしを喰い殺しそうな嫉妬の視線を、ずっとウチらに送っていたのだ。あのギャラリーの存在も含めて、羞恥心で死にそうだった。極めつけは、あの嵐の後の明楽センパイの乱入だ。変態丸出しで優奈の胸にダイブして、おっぱいをスーハースーハー吸引して、玲香センパイに引き剥がされそうになっても驚異的な力で動かないあの野生児。挙げ句の果てに「闘源郷脱退してフィーリアに入る! 優奈のこと好きになっちゃった!」と、電撃加入を宣言しやがった。


 ため息混じりに小さく笑った。あたしはあくまで、今回のトーナメントの助っ人(代理)として参加したに過ぎない。契約上、救済の祈り手(フィーリア)の正式なメンバーではないのだ。でも。……あたしも、正式に加入、打診してみようかな。ガラじゃない、と自分自身に突っ込みを入れつつも、胸の奥には、確かに温かい希望の光が灯っていた。かつて孤独に溺れていた望愛が、優奈の隣で本当に嬉しそうに、楽しそうに笑っている。そして、氷の令嬢と呼ばれ、社長の人形だった玲香センパイが、自分の意志で剣を構え、仲間を信じて誇らしげに胸を張っている。あそこには、あたしがずっと憧れて、けれど手に入らないと諦めていた、本当の居場所があった。


 それに、今回のトーナメントで優勝したことで、新薬の開発計画は正式に更新された。寧琉がアークライトの新CEOとしてデジタル署名を完了し、ラボはすでに再稼働を始めている。延命治療だけではない。日和の魔晶壊疽(マナネクローシス)を根本から完治させるためのプロジェクトが、再び動き出したのだ。……好転してる。あたしの人生、間違いなく、これから最高に良い方向へ進んでいく。


 窓の外を見上げれば、夕闇の空に、一番星が美しく瞬いていた。あの時、すべてを諦めてアークライトの犬になる道を選んだあたしの選択は、間違っていなかった。日和を救うための、暗い、泥にまみれた戦いは、ようやく報われようとしているのだ。電車が駅に滑り込み、扉が開くと同時に、あたしは軽い足取りでホームへと躍り出た。向かう先は、日和が入院している特別看護室。早く日和に、トーナメントで優勝したこと、そしてお姉ちゃんが日和のために新薬の開発を勝ち取ったことを、自慢げに話してあげたかった。


◇◇◇


 病院の長く静かな廊下。夕暮れの薄暗い光が差し込む廊下は、いつも以上に静まり返っており、自分のスニーカーがきしむ音だけが不気味に響いていた。日和が入院している特別看護室のドアの前に立ち、あたしはいつものように、努めて明るい笑顔を顔に貼り付けた。


「日和ー! お姉ちゃんが来たよー! 良いニュースがたくさん――」


 バッと勢いよくドアを開けた瞬間、あたしの言葉は、喉の奥でピタリと凍りついた。


「お姉ちゃん……! 見てこれ!!」


 ベッドの上に身を起こした日和が、これまでにないほど弾けた笑顔で、両腕を大きく突き出して見せてきた。あたしは、その光景に、驚愕を通り越して、心臓を冷たい氷の楔で貫かれたような衝撃を受けて立ち尽くした。


「うそ……。日和、どうしたの、これ……?」


 日和の両腕。いつもなら皮膚がただれ、肉が内側から腐り落ち、血と膿に塗れたそれを隠すように、包帯がこれでもかと分厚くくぐるぐる巻きにされているはずだった。なのに、今の彼女の両腕には、包帯なんて一枚も巻かれていなかった。そこにあったのは、十代前半の少女の、張りのある、一片の傷痕すら残っていない、透き通るように白い、美しい生肌だった

。

「お薬を飲んだらね、スーッて痛いのが消えて、こんなに綺麗になったんだよ! お姉ちゃん、私、もう痛くないの! もう、外に出れるんだよ!」


 日和は大はしゃぎし、ベッドの上でウキウキしながら体を揺らしている。けれど、あたしの脳内は、冷徹なシーカーとしての計算と、おぞましいまでの恐怖でパニックを起こしていた。あり得ない……。不治の病である魔晶壊疽(マナネクローシス)の組織壊死が、一晩で完治するなんて……そんなの、現代魔導科学の常識を根底から逸脱している。新薬の開発は、さっき寧琉から再始動の連絡があったばかりだ。まだ薬なんて完成しているはずがない。臨床試験すら始まっていないのだ。なのに、なぜ日和の腕が治っている?  日和に、誰が何の薬を飲ませた?


「ひひひ……。私が、治してあげたのさ」


 背後から、大気がねっとりと張り付くような、粘つく低い女性の声が響いた。


「――っ!?」


 あたしは弾かれたように振り返り、拳を構えた。病室の隅。影の中に溶け込むようにして、パイプ椅子に脚を組んで座っていた一人の女性。白衣を無造作に羽織り、艶やかな黒髪をハーフアップに整え、銀縁眼鏡の奥から濁った冷酷な瞳でこちらを凝視している。研究者のような出で立ち。けれど、その底知れない不気味な存在感は、まともな人間のそれではない。


「あんた……一体、何者なのよ? ここは特別看護室よ。許可なく立ち入ることは――」


「ひひひ……。冷たいねぇ、聖堂君。……中谷と言えば、思い出してくれるかな?」


「なか、たに……っ!? そんな、あり得ないでしょ! だって、あいつは……中谷は、男の……っ!」


 あたしの記憶にある中谷は、神崎の隣でいつも手を擦り合わせていた、あの猫背の陰湿な中年男性のはずだ。目の前にいるのは、洗練された、知的な雰囲気を漂わせる女性研究者。性別すら違う。 でも――その粘つくような、気味の悪い声の響きだけは、確かにあの中谷のそれだった。


「ひひひ……。アストラルブースターを作り、極楽浄土(エリュシオン)のシステムをハッキングし、不治の病すらも一瞬で治して見せた。……私ほどの領域に達した研究者にかかれば、アバターはおろか、現実世界の肉体の姿形、性別、声帯すらも、自在に変形させることなど造作もないのさ」


 中谷は立ち上がり、ゆっくりとと歩み寄ってきた。銀縁眼鏡の奥で、蛇のように細められた濁った瞳。


「お姉ちゃん、この先生、すっごく優しかったんだよ! 私が痛いって泣いていたら、美味しいシロップみたいなお薬をくれてね、そしたら、一瞬で痛いのが全部消えたの!」


 日和は何も知らない無邪気な笑顔で、中谷の白衣の裾を握りしめている。その光景に、あたしの血の気が一気に引き、全身の毛穴が収縮するほどの戦慄を覚えた。こんなやつが与えた薬がまともなはずがない! 日和は……この化け物に人質に取られている。


「日和、そいつから離れなさい!!」


 あたしは日和を庇うようにして前に立ちはだかる。


「日和を人質にするつもり!? あんた、死んだはずでしょう!? 競技場で、明楽センパイにボロ雑巾のように叩き潰されて、体力ゲージだってゼロに……っ!」


「ひひひ、仮想空間でのアバターの崩壊が、即ち現実の肉体の死であると、誰が定義したのかな? 私はシステムのセキュリティを書き換えたと言ったはずだよ。私が死ぬようなデータを、私自身が残しておくはずがないだろう?」


 中谷は一歩も退かず、むしろ楽しげで、歌うように話を続ける。


「日和は人質、という表現は心外だねぇ。私は彼女を本当に救ってあげたいんだよ。特段副作用はないし、今すぐ彼女の命に別条を当てるものでもない。……そこは、優しいお姉ちゃんとして、安心してくれたまえ」


「ふん、実際どうだか! あんたみたいな詐欺師の言葉、信じられるわけないでしょ! ――それで? あたしに、何をさせるつもりなわけ?」


 中谷を油断なく睨みつけた。こいつがわざわざ姿形を変えて、日和を治して見せ、あたしの前に現れた。その目的は一つしかない。


「話が早くて助かるよ、聖堂君。ひひひ……。君にはね、私のお仕事を少しだけ、手伝って欲しくてねぇ」


「あたしが、あんたの片棒を担ぐとでも思っているの? 冗談じゃないわよ。ウチらはトーナメントで優勝して、寧琉の下で正式に新薬の開発を始動させた。あんたの薬なんて、もう必要ない!」


「本当に、そうかな?」


 中谷は、クスクスと肩を揺らして、嘲笑うように言った。


「……ひひ。実はねぇ、彼女の魔晶壊疽(マナネクローシス)は、完全には治っていないんだよ」


「……なっ!?」


「私が投与した薬は、あくまでアストラル細胞の侵食を一時的に、かつ強制的に抑制した即効性の延命剤に過ぎない。……継続的に、私の提供する薬を投与しなければ、あと三日もしないうちに、彼女の体は元通り……。四肢が徐々に腐り、溶けていく体に戻ってしまうのさ」


 その冷酷な宣告に、ベッドの上で陽気に揺れていた日和の動きが、ビクリと固まった。 彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まり、怯えたように自分の綺麗な両腕をぎゅっと抱きしめる。


「い、嫌だ……。お姉ちゃん、私、あの痛いの、もう嫌だよ……。体が腐っちゃうの、嫌だ……っ!」


 泣き叫ぶ日和。その悲痛な声が、あたしの胸を、これ以上ないほど残酷に抉り取っていった。三日。 寧琉のラボが再始動したとはいえ、薬の開発には数ヶ月、あるいは数年はかかる。中谷の薬を拒絶すれば、日和は再びあのみるみるうちに肉が腐り、溶け落ち、激痛に叫び声を上げ続ける地獄の毎日へと、真っ逆さまに突き落とされることになる。


「嫌だよねぇ、日和君。じわじわと肉体が腐り、溶けて、激痛に苛まれながら死を待つ毎日は……。お姉ちゃんが、ちゃんとお薬をもらってくれるから、大丈夫だよぉ」


 中谷は日和のパサついた金髪の頭を、優しく、慈しむように撫でた。その蜘蛛のような指先が日和に触れるたび、あたしは自分の魂が、ボロボロと崩れ落ちていくような絶望を覚えた。人質なんかじゃない。これは逃げ場のない呪いだ。


「……分かったわよ。あんたの仕事、手伝ってあげる。……その代わり、日和の治療は継続してもらうわよ。一分だって、薬の投与を遅らせたら、あんたを地の果てまで追いかけて、ハチの巣にしてやるからね」


 あたしは、自分の唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、血の混じった声を絞り出した。


「ひひひ……、ご協力感謝するよ、聖堂君。スマートな判断だ。……それでは、さっそくお仕事の話をしようか。……場所を移すとしよう」


 中谷は、満足げに笑うと、病室のドアを開けて暗い廊下へと一歩を踏み出した。


「お姉ちゃん……。行っちゃうの……?」


 ベッドの上で不安そうにあたしの服の裾を掴む日和。あたしは涙を必死に堪え、これまでで一番優しく、温かい笑顔を向けて、その小さな手を握り返した。


「大丈夫だよ、日和。……お姉ちゃん、ちょっとお仕事に行ってくるだけだから。日和の腕、すっごく綺麗だよ。……お姉ちゃん、日和のこと、絶対に守ってあげるからね」


 手を離す。あたしは日和に背を向け、中谷の後を追って病室を出た。振り返れば、ついさっきまで、あたしの人生は最高に輝いているように思えた。優奈との、あの恥ずかしくて、頭がぐにゃぐにゃになるような甘いキスの熱。玲香センパイや、望愛、明楽センパイ達と、正式にギルド救済の祈り手(フィーリア)のメンバーとして、笑い合えるかもしれないという、温かい未来の予感。


 けれど。そのすべての光は、今、この瞬間に完全に閉ざされた。ごめんね、優奈。 ごめんね、玲香センパイ、そして望愛。暗い、深い、底の見えない闇の廊下。中谷の白衣の背中を追いかけながら、あたしは自らの心が、冷たく、硬い石のように死んでいくのを感じていた。

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