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怪異?っぽい?

『家賃一万の事故物件に、闇堕ちした座敷わらしが住んでいた』

作者: 月白ふゆ

玄関の鍵を回した瞬間、家の奥から「見ている」気配が刺さった。


畳の湿り気と古い木の匂いが、鼻の奥にへばりつく。壁紙の継ぎ目の黒ずみ、換気扇の羽に絡んだ埃、台所の流しの金属がくすんだまま沈んでいるのが見える。築年数の割に家賃が安すぎる理由を、室内の空気が黙って説明していた。


事故物件。家賃一万円。


不動産屋は書類を差し出しながら、「気にしない方なら最高ですよ」と笑った。笑い方の端に、言葉にしない注意が混じっていたのも覚えている。


俺は気にしない方の人間だと思っていた。というより、気にしている余裕がない。残業が終わる頃には脳が擦り切れて、家賃の数字以外は霞んでしまう。狭くても古くても、眠れればいい。そういう割り切りでここへ来た。


引き戸を開けると、居間の暗がりに女が座っていた。


最初の一秒、何かの影だと思った。次の一秒で「人だ」と分かり、三秒目で「人じゃないかもしれない」と気づいた。


黒い髪が長く、肌は白いのに血が通っている。目は暗いのに澄んでいる。年齢は俺と同じくらいに見えるが、そう見せているだけの気配がある。布を幾重にも重ねたような白い衣が、部屋の薄汚れと噛み合わない。胸元だけが妙に現実的で、重さを隠さない形でふくらんでいた。胸の存在そのものが大きく重い。


「遅かった」


女はそう言って立ち上がった。声は冷たくない。けれど体温とは別の冷えが、言葉の奥に沈んでいる。


「……誰ですか」


俺の声が掠れたのを、女は気にも留めなかった。


「座間、梓」


名乗った瞬間、部屋の空気が「元からそこにいた」形に整う。俺が入居したのではなく、家に呼ばれたのだとでも言うように。


梓は床の間の前に立ったまま、俺を見た。


「ここ、住むの」


「契約しました。今日から」


「じゃあ契約、もう一つ」


一歩近づかれるだけで胸の奥が圧迫される。怖いのに、目を逸らせない。逃げ出せば正解だと分かっているのに、足が動かない。


「あなたがここで生きる代わりに、私をここから出して。注いで……満たして……溢れさせて」


満たして、という言葉が湿った畳に落ちて染み込んだ気がした。


俺は言い返す言葉を探した。冗談だろ、警察呼ぶぞ、出ていけ。どれも喉の奥で崩れた。現実味がないのに、現実より確かだった。


梓の手が俺の胸に触れた。冷たくない。普通の体温だ。なのに触れられた場所から、疲労が吸い出されるような感覚がした。代わりに梓の瞳の底の闇が、ほんの少し薄くなる。


「座敷わらしって、知ってる?」


知っている。家を守る福の神。子どもの姿で語られることが多い存在。けれど目の前の梓は大人の女だ。だから余計に、歪んだものが見える。


「……あなたが?」


梓は小さく頷いた。


「本当は、もっと小さかった。もっと軽かった。でも忘れられた。人が死んで、家が壊れて、誰も住まなくなって、私だけが残った。福を呼ぶはずの私は、闇を呼ぶようになった」


妙に淡々とした言い方が、逆に胸を痛くした。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実として言っている。長い時間を一人で過ごした者の声だった。


「あなたがここにいるなら、私はもう一人じゃない」


梓はそう言って、俺の袖を掴んだ。指先が少し震えている。強がりでもなく、怯えでもなく、縋り方を覚えたばかりの震えだ。


「抱いて。何度でも。妊娠しても、産んでも。私をここに繋ぎ止めて」


言葉が重い。けれど、その重さが嘘じゃないと分かる。


その夜、引っ越しの段ボールを開けないまま布団を敷いた。梓は当然のように隣へ入ってきた。拒めば命を取られる、という類の恐怖ではない。拒めば、この家が再び沈むのだと直感した。俺が背負うのは梓ではなく、この家の闇の方だ。


「名前で呼んで」


梓が囁く。耳に当たる吐息が熱い。体温は普通なのに、温度だけが違う。人の熱というより、家がやっと動き始めた熱だ。


「梓」


呼んだ瞬間、梓の肩が小さく震えた。喜びというより、救われそこねたものがやっと掴んだ手を離さないと決めた震えだった。


そこから先のことを、細かくは書かない。書けば軽くなる。けれど確かだったのは、抱きしめた瞬間に家の空気が変わったことだ。居間の隅に溜まっていた影が薄れ、雨戸の隙間から差す街灯の光が、前より遠くまで届いた。


梓の白い衣の内側は、想像よりずっと人肌に近かった。重い胸が押し当たり、呼吸が少し苦しくなる。それでも嫌じゃない。むしろ、その重さが「ここにいる」という証拠で、胸の奥がほどけていく。梓は何度も息を吸って、吐いて、言葉にならない音を喉の奥に落とした。縋るための震えが、安堵へ変わっていく。


「ひとりにしないで」


泣き声じゃないのに、言葉の形が泣いていた。


「しない」


短く返すと、梓はそれだけで救われたみたいに瞼を落とした。触れ合いと体温の往復だけで、闇が少しずつ溶けていくのが分かった。俺の中の何かも同じように整っていく。消耗ではなく補給。削られるんじゃなく、満たされる方向の夜だった。


翌朝、台所から味噌汁の匂いがした。


起きると梓が立っていた。眠っていない顔だ。それなのに顔色は悪くない。むしろ少しだけ、昨日より血が通って見える。


「冷蔵庫、空のはずだろ」


俺が言うと、梓は鍋をかき回しながら答えた。


「家が出す。ここは本当は、そういう家だった。私が闇で止めていただけ」


闇で止める。福の神が闇で家を締め上げていた。誰にも気づかれず、忘れられたまま。


それから一週間、俺は仕事に行き、帰り、寝た。梓は待っていた。床の間の前、座敷わらしの居場所と言われる場所で、膝を抱えて俺の帰りを待つ。


「おかえり」


その一言で、一日の摩耗が少し剥がれる。俺は知らないうちに、玄関の鍵を開ける瞬間を楽しみにし始めていた。


梓は依存が重い。こちらの顔色を見て、声の端を聞き取って、俺が「帰ってきた」事実を確かめないと落ち着けない。体温を重ねることでしか安心できない。身体に絡みつく依存だが、根は孤独だ。だから俺は、切り捨てる気になれなかった。


ある夜、梓がふいに自分の腹へ手を置いた。


「赤ちゃん、欲しい?」


唐突なのに、唐突ではなかった。梓の存在の核がそこへ向かっているのを、俺も感じていた。


「……どうして」


「私、福を生む。昔は家に福を置いた。でも今は歪んでる。あなたにしか置けない。あなたの中に、福を作りたい」


言い方が不器用で、まるで「子どもが欲しい」と言う代わりに世界の仕組みを説明しているみたいだった。


「産めば産むほど、戻るの。本来の姿に。守る。整える。救う」


梓の瞳の底に、微かな光が灯った。闇堕ちした者が、回復の道筋を見つけた時の光だ。


俺は怖さと安堵を同時に抱えた。子どもを作るというのは普通なら生活の計算が先に立つ。でも俺の生活は家賃一万円の事故物件で、座敷わらしと暮らしている時点で計算が壊れている。


「……分かった」


そう言った瞬間、梓の指が俺の袖を強く掴んだ。涙は出さない。ただ、全身が「離れない」と言っている。


一ヶ月も経たないうちに、梓は淡々と告げた。


「できた」


俺はしばらく言葉が出なかった。喜びも責任も恐怖も、全部が混ざって喉の奥に詰まる。


梓は俺の手を腹に当てた。「ここ。いる」


まだ分かるはずがないのに、確かに温度が違った。梓の体温の奥に、もう一つ熱がある。


妊娠しても梓は休まなかった。


朝は味噌汁と炊き立ての飯。夜は俺が帰るまで床の間で待つ。掃除、洗濯、俺のワイシャツの襟の汚れを落とす。腹が大きくなるにつれて動きはゆっくりになるのに、家の空気はさらに整う。壁紙の黒ずみが薄れ、床板の軋みが消え、玄関を開けた瞬間の「見られている」圧が弱まる。


「無理するな」


俺が言うと、梓は首を振った。


「休んだら、闇が戻る。私はもう、闇を飼いたくない」


休むことは安静じゃない。忘れられた時間へ戻ることだ。暗い部屋で一人になり、闇に溶けることだ。梓にとって「休み」は、死に近い。


出産は静かだった。病院ではなく、この家の座敷で。


畳に布を敷き、梓は俺の手を握り、息を整える。痛みの気配はあるのに叫ばない。声を上げれば家が揺れる、とでも言うように歯を食いしばる。


その時、部屋の隅の影が最後の抵抗みたいに濃くなった。壁が軋み、天井が鳴る。俺は恐怖で動けなくなる。


梓が低い声で言った。


「見ないで。聞かないで。私だけを見て」


俺は梓の瞳を見る。そこに闇がない。代わりに、古い家を守る者の強さがある。母の強さ、と言ってもいい。


やがて小さな泣き声が部屋に落ちた。生まれた。命が、ここにある。


梓が赤ん坊を抱き上げた瞬間、彼女の姿が一瞬だけ変わった。白い薄布の衣が淡い金の糸を含んだ着物のように見え、髪がただの黒ではなく光を含んだ墨色になる。空気が、神社の境内のように澄んだ。


そして影が引いた。


梓は微笑んだまま、赤ん坊に頬を寄せる。


「……戻ってる」


嬉しさだけじゃない。怖さも混ざっている。戻るほどに、闇の記憶が遠くなる。遠くなるほどに、忘れられた痛みが輪郭を失っていく。その喪失が、梓にとっては別の恐怖なのだと分かった。


「戻っても、梓は梓だろ」


俺が言うと、梓は一瞬目を見開き、次に安堵したように笑った。


その夜、梓は眠らなかった。赤ん坊を抱いたまま、俺の胸に頭を預ける。


「ねえ」


「何だ」


「もう一人、いい?」


あまりにも自然に言うから、俺は苦笑した。呆れではない。妙な納得だ。梓にとって「次」は欲望だけじゃない。回復の道だ。福の神としての機能を取り戻す道だ。


その後の時間は、早送りみたいに過ぎた。


二人目、三人目。梓は産むほどに整い、家は産むほどに明るくなる。事故物件だったはずの家は、いつの間にか「守られている家」になっていった。玄関の圧は消え、雨戸の隙間の光は奥まで届き、畳の湿り気さえも生活の匂いに変わっていく。米の匂い、洗剤の匂い、子どもの汗の匂い。人が生きる匂いが家に満ちる。


変わったのは梓と家だけじゃない。


俺自身も、変わっていった。


残業が続いても倒れない。睡眠が四時間でも動ける。朝のだるさが消え、風邪をひかなくなり、階段を上がっても息が切れない。体が軽いというより、芯が濃くなる感覚。生命力が増している、としか言いようがない。


最初は気のせいだと思った。次に、梓の料理が栄養満点だからだと理屈をつけた。だが四人目の妊娠が告げられた夜、梓が俺の胸に頬を当てて囁いた。


「あなた、もう普通じゃない」


「何がだ」


「巡り。命の巡りが強い。子が外へ福を配ると、その残りが戻ってくる。戻り先が二つあるの。私と、あなた」


梓は自分の腹に手を置き、次に俺の胸に手を置いた。


「私だけが回復すると、あなたが折れる。あなただけが強くなると、私が壊れる。だから、分ける。家がそうしてる」


家が。座敷わらしが本来守るはずの「家」が、今は生き物みたいに巡りを調整している。


「子が福を配るほど、あなたの力も増える。あなたが強いと、私は闇に戻らない。子も迷わない」


強くなるのは嬉しくない。けれど折れないことは、これ以上ない安心だった。守るものが増えた今、倒れることが一番怖い。


梓の依存は相変わらず重かった。ただ質が変わっていく。縋るための依存から、守るための誓いへ。俺を繋ぎ止めるためではなく、俺と家族を守るために「離れない」と決めた重さだ。


そして、子どもたちが歩き始めた頃、もう一つの異常が日常になった。


子どもたちは時々、消える。


朝まで布団にいたはずの小さな体が、ふっと気配ごと薄くなる。玄関の鍵は閉まっている。窓も閉まっている。なのに、いない。


最初の時、俺は血の気が引いた。事故物件の家で子どもが消える。悪い想像はいくらでも湧く。


だが梓は床の間の前で静かに腹を撫でながら言った。


「行ってるだけ。戻る」


「どこへ」


「あなたの周りの、いい人のところへ」


淡々としているのに、袖を掴む指先が震えていた。放したくないのだ。それでも放す。福の神としての本能が、母としての本能を押しのける瞬間がある。


「子どもたちは座敷わらしの位相を持ってる。必要な時だけ、現れる。いい人を見つける。あなたの周りには、いるでしょう」


俺は思い浮かべた。会社の若い総務の子。新卒で入って、理不尽を押し付けられても踏ん張っている。隣の部屋の老人。いつもゴミ出しを手伝ってくれる。駅前の弁当屋の店主。疲れた顔をしているのに、いつも「無理しないで」と言う。


俺の周りには確かにいる。善良で、努力しているのに報われない人が。


「子が福を配ると、道が繋がる。あなたの周りが守られる。あなたが守られると、家も守られる。私も守られる」


梓は言い切ると、俺の胸へ額を押し当てた。重い胸が当たり、呼吸が少し苦しくなる。けれどその重さが、梓の不安の重さだと分かる。


「帰ってくる。必ず」


自分に言い聞かせるように言って、梓は息を吐いた。


その夜、俺は会社で珍しく早く席を立った。胸の奥が落ち着かない。仕事の疲れではない。家の巡りの中に、自分が組み込まれている感覚がある。誰かが助かる前の、ざわつきだ。


駅前のコンビニで買い物をして帰る途中、総務の子からメッセージが来た。


『すみません、今日提出の資料、絶対間に合わないと思ってたのに……机の引き出しに、揃ってました。私、昨日確かに見た時は足りなかったのに。上司も急に「助かった」って……何か、怖いです』


俺は立ち止まって画面を見た。揃っていた? 足りなかったはずの資料が?


家の玄関を開けると、居間の灯りがいつもより柔らかかった。梓が床の間の前で膝を抱えている。腹が少し丸い。妊娠は途切れない。梓は休まない。


「おかえり」


「……子は」


梓は視線を廊下の奥へ滑らせた。「もうすぐ」


俺が靴を脱ぐより先に、梓は俺の袖を掴んだ。


「補給がいる」


「……今か」


「今」


短いほど必死だ。俺は頷き、梓を抱き寄せた。


体温が重なる。重い胸が押し当たり、呼吸が少し苦しくなる。疲れが消える。代わりに、胸の奥が熱くなる。命が巡る感覚。梓は俺の肩に額を寄せ、声にならない息を落とす。闇が遠のいていくのが分かった。俺の中に、折れないための芯がもう一段増える。


しばらくして、廊下で小さな足音がした。


障子の隙間から、小さな影がひょいと顔を出す。にこり、と笑う。まだ言葉がたどたどしいのに、その笑いだけは妙に「知っている」笑いだ。


影は畳の上に小さな紙束を置いた。会社の封筒。中身は、見覚えのある書類の控え。総務の子が探していたはずの添付資料のコピーだ。


影は何も言わず、梓の腹に手を当ててから、俺の足元へと戻ってきた。次の瞬間、普通の子どもがそこにいた。よちよち歩きで、俺のズボンの裾を掴む。


「ぱぱ」


言葉の重さに、喉の奥が熱くなった。


梓が小さく笑って、しかし目尻が濡れている。


「帰ってきた」


「行かせるの、怖いんだろ」


俺が言うと、梓は目を逸らさずに頷いた。


「怖い。でも行かせる。私が闇だった時、誰も来なかった。だから私は、来る側になりたい」


来る側。助ける側。福を配る側。


それから、子どもたちは時々消え、時々戻った。消える度に俺は落ち着かなくなる。戻る度に梓は息を吐く。梓の指先の震えは消えない。母だからだ。福の神でも、母は母だ。


子どもたちが向かうのは決まって「いい人」のところだった。


隣の老人が冬の夜に倒れかけた時、子どもが玄関の前に立って「だめ」と首を振り、老人がもう一度室内へ戻った。その直後、救急車のサイレンが通り過ぎた。老人は翌日、笑いながら「なんか嫌な予感がしてさ」と言った。


駅前の弁当屋の店主が閉店を考えていた頃、子どもが店先の猫を追いかけて客を呼び込み、偶然そこへ来た人が「この味、好き」と言って常連になった。店主は「運って、戻ることあるんだな」と笑った。


総務の子は、いつの間にか表情が明るくなった。上司が変わったわけでも仕事が楽になったわけでもない。けれど「守られている」感覚が戻ったのだろう。彼女は少しだけ強くなっていた。


そして福を配るほどに、俺の体はさらに濃くなる。


残業後に家へ帰っても倒れない。抱きしめているだけで胸の奥が熱くなり、梓が眠るまで側にいられる。夜が長くなっても疲れない。梓が不安に揺れる度に、俺の体がそれを受け止める器になっていく。


ある夜、梓が俺の胸に頬を当てて低く囁いた。


「増えてる」


「何が」


「巡り。あなたの中の命の勢い。出るものも、増えてる」


梓は言い方を慎重に選んだ。露骨に言わないのは、梓が人の生活を壊したくないからだ。母であり家の神であり、今は人として暮らしている。言葉一つで関係が崩れることを知っている。


俺は苦笑した。「それ、笑っていい話か」


梓は真面目な顔で頷いた。


「いい話。あなたが増えると、子が迷わない。私が闇に戻らない。家が安定する。だから、いい」


理屈としては理解できる。だが感情としては妙な照れと怖さがある。人間が神の循環に組み込まれていく怖さ。元に戻れなくなる怖さ。


「怖いか」


俺が尋ねると、梓は少し黙ってから言った。


「怖い。でも嬉しい。あなたが強いと、私は安心できる。依存が軽くなるわけじゃない。むしろ深くなる。でもそれは、縋るためじゃない」


梓は俺を見上げる。暗い瞳の底に、揺るがない光がある。


「誓うため。離れないため。家を守るため」


その言葉の後、梓は小さく息を吐いて笑った。


「あなた、私の神様になってる」


背筋が冷えた。だが同時に、胸の奥が温かくなる。神様になりたいわけじゃない。ただ守りたいだけだ。梓も子どもたちも、周りの「いい人」たちも。守りたいものが増えた結果、俺の体が勝手に変わっていく。


五人目が生まれた夜、家の空気は完全に変わった。


事故物件だったはずの家には、もう影がない。天井の軋みも床の冷えも玄関の圧も消えた。残っているのは生活の匂いだ。


梓の姿もまた戻っていた。淡い金糸のような光が髪に混じり、白い衣は確かな形を持つ。けれど梓は浮世離れしない。台所に立ち、子どもたちの額の汗を拭き、俺のシャツのボタンを留める。神になって消えるのではなく、神として「ここに住む」ことを選んでいる。


それでも、子どもが消える朝は来る。


ある日、三番目の子が消えた。いつも通りなら夜には戻る。けれどその日は夕方になっても戻らなかった。


梓が床の間の前で膝を抱え、腹を撫でる。妊娠はまた始まっている。途切れない。梓は休まない。けれど今日は息が浅い。


「……遅い」


梓の声が震えていた。


俺は靴を脱ぎながら「どこへ行った」と尋ねた。


梓は少し迷ってから答えた。


「いい人のところ……のはず。でも今日は境目が揺れてる。悪い人の匂いが混じってる」


悪い人。つまり、誰かが「善良に見えて」実は誰かを踏みにじる側にいる。あるいは追い詰められて善悪の境界が揺れている誰か。


会社の人間関係が浮かんだ。穏やかな顔で「大丈夫、任せて」と言いながら、裏で責任を押し付けてくるタイプ。善良を装い、弱い者を使い潰す人間。


梓が俺の袖を掴んだ。指先が冷たい。久しぶりに感じる冷えだ。闇が戻りかけている。


「補給がいる」


「今か」


「今」


言い切るほどに必死だ。


俺は梓を抱き寄せた。体温を重ねる。胸の奥が熱くなる。いつもなら疲れが消えるのに、今日は逆に胸が痛い。梓の不安が流れ込む。重い胸が押し当たり、呼吸が詰まる。けれどその圧が、梓がどれだけ恐れているかの形だと分かる。


「ねえ」


梓が囁いた。


「もし子が、悪い人に捕まったら」


「捕まるのか」


「捕まる。闇は甘い。闇は福を餌にする。私が闇だった時、そうだった」


梓の瞳が揺れた。闇堕ちの記憶がまだそこにある。


「でも、取り返す」


俺は言った。理屈ではなく胸から出た言葉だった。


梓が少し目を見開き、次に笑った。笑いの中に涙が混じる。


「あなた、ほんとに強くなった」


「強くなったんじゃない。強くされただけだ」


「違う」


梓は首を振った。


「強い人は折れる。あなたは折れない。折れない人になった」


その言葉の重さに、俺は息を吐いた。


夜遅く、玄関の外で小さな音がした。


梓が立ち上がる。俺も立つ。障子の向こうに、小さな影が揺れた。影はふらついている。いつもの「にこり」がない。


梓が障子を開けた瞬間、三番目の子が転がり込んできた。小さな体が震えている。普通の子どもの体温より少し冷たい。闇に触れた冷えだ。


梓はすぐに抱き上げ、自分の胸に押し当てた。重い胸が子どもを包み、梓の体温が冷えを溶かす。梓は低い声で「どこ」と尋ねたが、子どもは小さく首を振った。言葉にできない。闇の境目で見たものは幼い心には重すぎる。


俺は子どもの背中を撫でた。すると子どもは指を伸ばし、俺の掌を握った。ぎゅっと強く。震えが少しだけ止まる。


その瞬間、胸の奥が熱く燃えた。俺の中の巡りが一気に強くなる。梓が息を呑むのが分かった。


「……戻った」


梓が小さく呟く。


「戻っただけじゃない。増えた」


梓は俺の胸へ頬を当て、囁いた。


「あなた、もう完全にこの家の核。子が闇に触れても、あなたの巡りが強いと引き戻せる」


俺は苦笑した。「俺が核って、冗談だろ」


「冗談じゃない」


梓は真面目に言った。


「家はあなたを選んだ。私も選んだ。子どもたちも選んだ。だから、あなたは増える。体力も、巡りも、出す力も」


淡々としているのに、その目は熱い。依存だ。けれどそれは弱さではなく確信の依存だった。梓の重さが、闇の重さではない。家を支える重さだ。


その夜、梓は珍しく「休みたい」と言った。


驚いて見下ろすと、梓は子どもを寝かせ、俺の袖を掴んだまま、小さく息を吐いた。


「闇が怖い。子が怖い。自分がまた闇に戻るのが怖い。でも……今日、戻ってきた。戻せた。あなたがいたから」


「いる」


俺は短く答えた。


梓はその一言で、肩の力が抜けた。俺の胸に額を押し当て、体温を確かめるように息を吸う。重い胸が当たり、呼吸が詰まる。それでも離さない。梓の中の「離れない」は、縋りじゃない。守るための誓いだ。


「今日も、補給」


梓の声は小さく、しかし逃げない。


「うん」


俺は梓を抱き上げた。布団へ運ぶ間、梓は目を閉じ、唇を噛んで耐えるように息を整えた。欲望の形じゃない。生きるための形だ。家のため、子のため、そして自分が闇に戻らないための形。


その先は書かない。けれど、夜が明ける頃には、梓の指先の冷えが消えていた。家の奥の気配も、静かに眠っていた。


翌日、会社の廊下で総務の子が俺に小声で言った。


「昨日、変なことがあって……帰り道で知らない人に声をかけられて。怖くて立ち止まったら、足元に小さいおもちゃが落ちてて。拾った瞬間、急に人が通って助けてくれて。あれ、運が悪かったら……」


震えながら笑う。「なんか、守られてる気がするんです。変ですよね」


俺は曖昧に笑って頷いた。守られている。そうだ。守られている。俺が守っているのではなく、梓と子どもたちが、そして家が、巡りで守っている。


その夜、家に帰ると、子どもたちが畳の上で転がり、梓が台所で味噌汁を作っていた。腹はまた少し丸い。妊娠は途切れない。梓は休まない。休まないことで闇を寄せ付けない。働くことで守る。産むことで戻る。


梓は振り返らずに言った。


「今日も、子が行った」


「どこへ」


「いい人のところ。あなたの周りの」


鍋を火から下ろし、梓は俺を見た。瞳は暗くない。澄んでいる。


「あなたの周りに、いい人がいる限り、この家は増える。福も、家族も、巡りも」


俺は靴下を脱ぎながら、つい言った。


「増えるって、どこまでだ」


梓は少し考えてから答えた。


「あなたが折れない限り」


さらりと言うのに、言葉が刺さる。折れない限り、増える。体力も巡りも家族も。つまり俺の人生は、もう「一人で消耗して終わる」ものではない。増えて、巡って、守る側に回る人生になる。


居間に座り、子どもたちの頭を撫でた。小さな体がころころ転がり、笑い声が部屋に跳ねる。事故物件だったはずの家が、子どもの声で満ちている。


梓が味噌汁を運びながら、俺の肩に手を置いた。手の温度が確かだ。


「ねえ」


「何だ」


「今日も抱いて」


梓の声は重い。けれどその重さの中に温度がある。闇堕ちしていた頃の冷えはない。代わりに、家を守る者の熱がある。


「妊娠してても?」


「妊娠してても」


「休まなくていいのか」


梓は少し笑った。


「休まない。休まないで、戻る。あなたがいるから」


俺は梓を抱き寄せた。重い胸が押し当たり、呼吸が少し苦しくなる。それでも嫌じゃない。この重さが「ここにいる」という証拠だ。梓の髪を撫でると、墨色の髪に淡い金糸の光が混じっている。


子どもたちが座敷わらしとして外へ福を配り、その残りが家へ戻り、梓と俺に分かれて巡る。俺の体は夜も折れず、梓は闇へ戻らず、家は事故物件の殻を脱ぎ捨てる。


幸福は軽いものだと思っていた。手に入れた瞬間にこぼれるものだと。


でもこの家の幸福は、重い。


女の重さ。母の重さ。家の重さ。命の重さ。巡りの重さ。


そしてその重さが、俺を生かしていた。


夜、子どもたちが寝息を立て始めると、梓は俺の首筋に唇を寄せて囁いた。


「あなたを増やしたい」


言葉は重い。けれどその重さが闇ではなく福の重さだと分かる。


玄関の鍵を回す音が、もう怖くない。


鍵が開く音の向こうに、「おかえり」が待っている。


それだけで、人は折れずに生きられるのだと――俺はこの家に教えられた。

本当は、もっとまっすぐな「大人の恋愛」を書きたかった。

仕事で削れて、生活に追われて、それでも誰かに選ばれて、誰かを選び返す。そういう、現実の延長線にある恋愛の話を。


でも、書き始めた瞬間に、玄関の鍵を回しただけで「見ている」気配が刺さってきた。

畳の湿り気、壁紙の黒ずみ、換気扇の埃。恋愛より先に、家の方が口を開いた。どうしても「普通の恋」だけで終わらせてくれなかった。


たぶん、自分の癖が出たんだと思います。

優しくて、真面目で、ちゃんと生きようとしてる人ほど、現実に削られて、報われにくい。そういう「いい人」が折れないための仕組みを、どうしても物語の中に作りたくなる。

だから恋愛も、きれいな駆け引きじゃなくて、補給になってしまう。

甘い言葉より、体温の往復の方が嘘をつかない、みたいな形に寄ってしまう。


ひねてる。分かってる。

「大人の恋愛」って言いながら、結局、事故物件と座敷わらしと巡りと闇堕ちと、福の循環なんていう面倒な装置を組んでしまった。

素直に、男と女が惹かれ合って、寄り添って、暮らしていく話にすればいいのに、どうしても一度、闇を通してしまう。闇を通して、ようやく光が信じられるみたいに。


ただ、言い訳を一つだけするなら。

この話の恋愛は、最初から「依存」で始まっています。重くて、怖くて、理不尽で、逃げた方が正しいやつ。

それでも一緒にいることを選んで、縋りが誓いに変わって、体温が「生きる理由」になっていく。その変化だけは、たぶん自分なりに、大人の恋愛として書いたつもりです。

綺麗ではないけれど、生活の匂いのする恋。折れかけた側を支える恋。


梓が「休まない」と言い続けたのも、たぶんそこに繋がっていて。

恋愛って、本当は休める場所のはずなのに、休むと壊れる関係もある。

でも、休めない関係でも、壊さない方法はあるんじゃないか。

そういう意地みたいなものが、この話の根にあります。


最後に。

家賃一万円の事故物件が、奇跡になっていく。宝くじでも成り上がりでもない。

ただ、折れかけた「いい人」の運を少しずつ戻して、明日を迎えられるように整える。

そんな地味な奇跡が、もし現実にもあればいいと、書きながら思っていました。


まっすぐな恋愛が書けなかったぶん、ひねたままの優しさだけは残したつもりです。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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