不可逆崩壊
「やめてください」
消え入るようなかすれ声が聞こえた。
見ると、先輩が目の前に置かれたサイドメニューの箱に目を落したままうつむいている。
「全てが……全てが上手くいってたんです」
先輩は俯いたままぽつり、ぽつりと語りだした。
「遊び仲間とは縁を切って、酒もほとんど飲まなくなりました。
おのずと時間が出来て、バイトを入れていても大学に来れるようになりました。空き時間にやれることはやって、落とした単位はこれまで取った事のない成績で通っていました。
私は、これだけ長い間この大学に身を置いていてやっと初めて学ぶ意義を知ったんです。同時に、もっと早くこうしておけば良かったとも後悔しています。
父は、私が大学受験で第一志望に落ちて私立の大学へ行くと決めた時から良い顔をしなかったんです。私も私で、人生で初めてした大きな失敗の劣等感と鬱憤から遊ぶようになりました。
当然単位をたくさん落として留年を繰り返しました。
高い学費を親に払わせて、自分は遊んでいたんです。とうとう父には愛想をつかされ、もう生活費はやらないと言ってきました。
私は強がって、自分で稼ぐからそんなものはいらないと言い返しました。
それからは遊ぶ金を手に入れるためではなく、文字通り生きるためにバイトを始めました。
生まれてこのかた金に不自由なく生きてきたので、本当に苦しかったんです。当然そんな状態で大学に出れるはずもなく、また留年を繰り返しました。
父は失望したのでしょう。生活費だけでなく、学費も自分で稼げと言ってきました。これ以上ふざけたことに金を使わせるなと叱られました。私は何も言い返すことが出来ませんでした。
これまで以上に苦しい生活が始まりました。もちろん遊んでいる暇は有りませんでした。
苦しく、大学を辞めようかとも思いましたが、見かねた母がこっそりと父に内緒で支援をしてくれました。
涙が出ました。
私はその時まで、父を殺して私も死んでやろうと思っていたほど追い詰められていました。しかし私は心を入れ替えることを決意しました。
それが去年の事です。その時にはもう留年が決まっていたのですが、その時にやれることは全てやりました。
全てが上手く行き始めました。確かに生活費と学費を稼ぐのは苦しいです。とても稼ぎきれないので奨学金も使って、これから先返さなくてはなりません。
ですが、それでもこれは自分に必要なことなんです。
母は喜んでくれました。これで父を見返すことが出来ると思いました。父と話す機会は殆どありませんが、今ならいつ顔をあわせても恥ずかしくないと思いました。
先月、母がメッセージを送ってきました。
父は職業柄、多くの人に慕われており毎年身内で集まるパーティをクリスマスの時期に開いていました。母は、今年こそは私に参加してほしいと言っていました。私は大学入学以降、父と顔をあわせるのが嫌で参加を渋っていたんです。
最初は嫌でしたが、母の強い勧めに押されて参加することを決意しました。同時に、父に今の自分を見て欲しいという気持ちが強くなりました。私は父の息子として、認めてもらいたかったんです。過去の過ちを反省し、生まれ変わった自分の姿を見て欲しかったんです。
もちろん、そう簡単に父が自分を認めてもらえるとは思っていませんでした。何年も親のすねをかじり続けたわけですからね。今更心を入れ替えたとしても笑われるだろうと思っていました。
そして、現実はその通りでした。
めでたいパーティの席だというのに、何かにつけて父は私の不出来さを笑いものにしました。予想できていた事とはいえ、こたえました。しかし、歯を食いしばって場の空気を壊さないようにと努めました。
一度や二度ではありませんでしたが、それはまだ、笑いの種として自分が使われているだけだと自分に言い聞かせて我慢しました。
宴会の場が終わり、父が部屋へ戻って行きました。私はその後を追いました。宴会の席での父の言動は、結局は自分の招いたことです。しかし父に今の自分見せればきっと、彼は喜んでくれるはずだと信じていました。
父は十時頃に部屋に戻りました。私は一度自室に戻り、気持ちを落ち着かせてから父の部屋へ行きました。震える手を落ち着けて父の部屋へ入りました。彼はソファに座って本に目を落としていました。
私は、これまでの事を話しました。改心して今は全力で学び、全力で働いている事。そのおかげで学びの楽しさに気が付き、感謝していること。子供のように、話したかったことを父に話しました。
その時の私は、純粋に、ただ無邪気に信じていたんです。話せば分かってもらえるはずだと。
私は、父が今に顔を上げて、よくやったと、よく頑張ったなと、分かってくれて嬉しいよと、そう声を掛けてくれると信じていました。しかしその時は一向に来ませんでした。それどころか、彼は熱中していた私の話を遮り、こう言いました。
『早く本題に入れ。金の無心なら聞き入れないこともない。が、それをそんな綺麗事で虚飾するな』私は耳を疑いました。父の言っていることが理解できませんでした。子供の素直な気持ちは、父には全く届いていませんでした。父は、元々理解するつもりが無かったのです。
『回りくどい事をするな』『結局はこれか』『こうなるのなら早く学費を止めておけば良かったな』
私は口をきくことが出来ませんでした。吐き気がして、思わず部屋を出ました。心臓が波打ち、平常心ではいられませんでした。
浮かんだのが……過去に父を憎んで何度も想像した殺人計画でした。自室に戻り、荷物を漁りました。ここで黒く塗られた球と磁石が入っていなければ、その日は平穏なままでした。しかし私は見つけてしまいました。もしかしたら過去の自分にはこうなることが分かっていたのかもしれません。そうでなければこんなものを荷物に入れておくなんてことはしませんから。手袋をつけ、磁石を持ち、ダイニングへと行き、包丁を手に入れました。
後は関根君の言った通りです。なにを言っても取り合ってくれない人間を絞め殺すのは簡単なんですね。向こうはむきになってこちらを無視するわけですから、近づいても逃げることなく本に目を落としていました。父の体を刺しました。その時に本は血だまりに浸かってしまいましたが、その時はあまり気に留めませんでした。
そして暖炉にガウス加速器を設置しました。言う通り、可逆減磁を用いた仕掛けで暖炉の火が消えた時に高速で球が発射される仕掛けになっています。そして意味深な事を書いたメモを、燃え尽きないように気を付けながら燃やしました。手袋と凶器は二階の空き部屋から捨てました。
ただ、一つだけ予想外の事が起きました。母に姿を見られてしまったのです。しかしこれは、結果的に私のアリバイを強固にするのに役立ちました。もちろん母は父の死を喜びませんでしたが、それ以上に私が不幸になる事を恐れたようです。それは愛と言えるのでしょうか。私には分かりません。
全てを終えた私は疲れに襲われました。しかしここでベッドに潜っていてはせっかくの仕掛けが台無しです。ロビーへ出ると、予想通り飲みに誘われたので応じました。久しぶりに酒を飲みました。酒に飲まれないように注意しながら、その時を待ちました。暖炉の火が消える時間というのは予想がつかず、いつ来るかと緊張しながら待っていました。
十三時、ガラスの割れた音がしたときに周りは驚いている様子でしたが、私だけは安心していました。上手くいったのだと。しかし私は二階を捜索するよう割り当てられました。それでは困ります。暖炉のメモを見つけるのは私の役割なのですから。そこで、実業家に妻の様子を見に行くことを提案して、その代わりに一階の捜索にまわることに成功しました。
母と合流し、父の部屋へと足を踏み入れると、そこは私の想像通りの光景でした。窓はしっかりと割られていました。上手くいった。私は笑顔になるのを抑え、衝撃を受けたような演技をしました。
人々はまず死体や窓を捜索していたようですが、私は暖炉に行き、そこで仕掛けを回収しました。レンガをもとの位置に戻すところは上手くいったのですが、仕掛けがまだ少し熱を帯びていて、手に取った時に熱くて思わず声を上げてしまいました。私に注目が集まってしまったのは誤算でしたが、しかし冷静に、燃やされたメモを渡すと皆の注目はそちらに移りました。
あとはもう安心です。私のアリバイは強固で、警察にはほとんどマークされませんでした。私はこうして、罪に問われる事無く殺人を成し遂げました。
そして今日、最初は何気なくゲームに参加しました。断る理由も特になかったからです。設定を聞いている限りでは何も気づきませんでした。館の構造や人物設定、タイムライン、出来事に至るまでが現実に起きた事件とはあまりにもかけ離れていたためです。ただ一つ、犯人の行動を除いてはですが。
教授には父の死の事を全く知らせていませんでしたし、何ならはじめは少し楽しんでいました。こういった推理小説を読むのは趣味なもので。しかし異変に気が付いたころにはもう遅く、逃げることが出来なくなっていました」
最初はたどたどしかった先輩の口調も、話し続けるにつれてだんだんと落ち着いてきているようだった。
やがては彼の覚悟が決まったのか、強い意志ではっきりと話しているように聞こえる。
「ところで教授、覚えていますか?」
教授は首を傾ける。
「ハウダニット(How done it)のみならず、ホワイダニット(Why done it)まで示すことが出来たら言う事を何でも聞いてやる、と確かにおっしゃいましたよね?」
教授は眉をひそめながらも頷いた。
「私は近い将来、必ず自首をします。しかしその前に時間が欲しいのです。今ここに……」
言って先輩はスマホを取り出す。
「今までの私の独白を記録しました。私が期限までに出頭しなければこれを警察に提出してもらっても構いません。それを使う日は来ないでしょうが」
何も言わず、教授はただ黙って話を聞いている。
「その上で、教授にして欲しい事があるんです。このままでは、私の母は殺人の共犯となる可能性があります。どうか、そこだけは口をつぐんでいてほしいのです。つじつまは自分であわせます。こんなことをしている時点で親不孝なのは理解しています。しかしこれ以上、母には不幸になって欲しくありません」
教授の返事を待たずに先輩は立ち上がる。
「何らかの形で私が出頭したことが分かったら、そのデータは削除するようお願いします。母についての供述が流出すると困りますので」
言って歩き出す先輩の背中に、教授は呆れたようにため息をつく。
「……君の話を聞いていると、父親がとても嫌な奴のように聞こえるのだがね」
先輩は立ち止まった。
「金はあるくせに息子に出す教育費も渋るのか、と思ったのかもしれないがそれは誤解だ。君の父は顔こそ広いが、職業柄とても資産を貯める事は難しい。毎年行われているパーティの会場の館だって、君の父が運営している非営利地方創生プロジェクトの一環として、空き家の管理維持を兼ねて行っているだけだ。非営利組織の運営を行っている君の父は、自身の富よりも社会貢献を考えている人なのだよ」
君は生まれてこのかた特に不自由なく暮らしてきたから気づかなかったかもしれないがね、と教授は付け足す。
先輩は何も言わない。
「君がうちの大学に入学するとなった時、君の父親は私の所へ挨拶に来た。息子をどうかよろしくお願いします。とね。君が落ち込んでいることや、決して安く無い学費の事を考えると、元を取るつもりで頑張って欲しいことなどを仰っていた。それに、第一志望に落ちたとは言え大学に受かったというのは偉い事だと、本人の努力あってのことだと、それは誇らしそうに語っていたのを覚えているよ」
先輩の足が動いた。扉の向こうへと姿を消す。
「息子をどうかよろしくお願いします、と言われたんだ」
誰に言うでもなく、教授は呟く。
「私は物事を中途半端にしておくことが死ぬより嫌いな質なのでね。どうしても放っておくことが出来なかった」
研究室の扉が閉まった。
肌寒いのは気のせいではない。エアコンを切ったままにしていたようだ。
リモコンを手に取ろうとすると、それを教授が手で制してきた。
「今日一日はストーブで暖を取ろうか」
言って立ち上がる。
独特な音と共にストーブの中に炎が灯る。
ストーブの上の磁石は、互いにくっついていたままだった。
時間と共に熱されてゆく。
原子は振動を繰り返し――やがてその力を失った。
もう、戻って来ることは無い