モノクロームの肖像
カーテンの隙間から射し込む光が一瞬七色を描いた。
彼女の髪に反射したから七色に分散されたのだと気付き、一瞬目を奪われる。
……綺麗だ。
「ひな?」
りんの声に我に返る。手が止まっていたようだ。
半日授業の、土曜日の午後。運動部の掛け声や吹奏楽部の練習が遠くから聞こえてくる。部活組はもうとっくに部活に行って、わざわざ教室に残るようなクラスメイトもそういない。私たちしかいない昼下がりの教室は気だるくソフトフォーカスのかかった空気に満ちている。
「どうかした?」
「いや、何も」
そう、とふわふわとした声音で呟いたりんは再び手元に目を落とした。長いまつげが目元に淡い影を作っている。化粧には詳しくないけれど、きっと天然のものなのだろう。日の光を透かしている髪と同じ色をしているから。
私もスケッチブックに視線を戻す。先の丸くなった鉛筆の薄い描線で幾重にも重ねた輪郭はまだ定められない。
少し首を伸ばすようにして、机を挟んで座ったりんの手元を覗きこむ。するとりんは膝の上で開いていたそれを机に移した。
「綺麗でしょ」
ページを見つめたままりんが微笑む。
確かに綺麗だった。漆黒を背景に輪郭を青く輝かせたいくつかの大きな星の写真が見開きいっぱいに拡大されている。右端の余白に小さな字で解説があった。
「すばるだよ」
「星はすばる、のすばる?」
「うん。枕草子の」
清少納言の愛でた星。正しくは星団。まだ若い星の集まりらしい。
「図鑑?」
「図鑑というより、写真集かな」
りんの細い白い指がページをぱらぱらとめくる。普通の本より少し厚いページは均一なタイミングを保てずに気まぐれにりんの指から離れる。その度に、色合いが少しずつ違う宇宙が見え隠れする。
「うちの学校、天文部と天文台あるじゃない」
「ん」
「だからこの学校に決めたんだ」
写真集は少しくたびれている。彼女が何度も眺めたのだろう。お気に入りのページに跡がつき、カバーの折り返しの破れ目が広がるまで。その過程を、私は知らない。共有する前の時間がそこに存在しているのは当然のことだけれど、少しりんが遠くなる気がして私はスケッチブックに戻った。
今を描きとめる。
重なった線の中から輪郭を選び出すのに今度は迷わずに済んだ。うるさい余剰の線を消しゴムで消し一瞬目を上げると、私を見ていたりんと目が合った。その一瞥で把握してまた鉛筆を走らせる。形よりも雰囲気が欲しい。正確なデッサンは石膏像でも相手にすればいい。
決めてしまえば後は早かった。
「できた」
「……わあ」
勢いで投げ出すようにスケッチブックを置くと、ページを見たりんが目を丸くした。
「私だ」
「そう見える?」
「え、違うの?」
「いや、合ってる」
これ誰、と言われるだろうと思っていた。必要最低限しか描き込まないから平安絵巻みたいに誰かわからないと言われるのが常だから。それはそれでいいか、なんて思っていたけれど。
「すごいなあ、こんな単純な絵なのに」
「褒めてんの?けなしてんの?」
「褒めてるよ」
スケッチブックを畳む。色は、きっとつけないでいるのがいいのだろう。私はまだあの光は塗れない。淡いモノクロームの肖像の方が雰囲気を壊さないでいられる。
記憶には残っているからそれでいい。
「帰る」
鞄を取り上げようとするとカーディガンが引っ張られた。見るとりんが裾をつまんでいる。
「……もう帰っちゃうの?」
……その上目遣い反則。
「もうちょっとだけ、だって誰もいないし」
「……わかったよ」
椅子に座り直すとりんは嬉しそうに表情をほころばせた。何気なく机に乗せた私の片手にりんの手が触れる。先に指を絡めたのはどっちだったか。
頬杖をついたりんの微笑が甘くとろけたように柔らかくなったのは、きっとこの午後の空気のせいだ。