第3話
「おい」
静かに、重たく低い声が耳に届く。
「…はい」
バシン、という音と共に左頬が熱を帯びる。
いつものことだった。
痛いという感覚もなくなるくらい。
頬がただ熱い。
「返事が遅い」
それだけで夫は私に手をあげる。
その様子を見て嬉しそうに笑う義母。
私と夫、そして義母と3人で同じ家に住んでいる。
夫の母と同居で、夫にDVをされる。
よくある話。
私はまだ24歳なのに。
もう人生をほとんど諦めていた。
結婚が墓場?本当にそう。
あの頃がピークだった。
何も幸せじゃない。
大好きだった仕事も2年前に辞めさせられた。
パートすらもさせてもらえない。
友達にも自由に会えない。
「紬さん。あなた、今日のお夕飯はまだなの?」
「…すみません、今から作ります」
「本当に要領の悪い子ねえ」
頬に手を当て、大きくため息を吐く義母。
私は綺麗な人間じゃないから、早く死んでくれますようにって、毎日少しずつ味を濃くして料理を提供する。
塩をひとつまみ程度じゃ、何も変わらないかもしれないけれど。
こんな生活、早く辞めたかった。
でも私の両親はすでに他界している。
頼れる人なんて、どこにもいなかった。
…私の人生、なんてよくある話なんだろう。
結婚する前はよかった。
夫の康平さんも優しくて。
康平さんとの出会いも、よくある話だった。
友達に無理矢理連れて行かれた合コンでたまたま意気投合。
5歳年上の彼の大人の余裕が私にはとても眩しかった。
今はそんな面影もない。
ただただ威圧的で、ただ恐ろしい存在だった。
夫は私が頼れる人がいないことを知っているから平気であんな態度を取れるんだ。
こんな私の日々を癒してくれるのは、ただひとりの推しだった。
高校生の時に知って、友達とよくイベントに行っていた。
認知は…されていないと思う。
あれから7年ほど経った今、ずいぶん遠い存在になってしまった。
元々近かったわけではないけれど、どんどん手の届かない人になってしまった。
優しい歌声、ケラケラと楽しそうに笑う推しに、私は恋に近い感情を抱いていたのかもしれない。
LU℃ENTのリンダくん。
本名は公開していない。
ネットで出回っている名前はいくつかあるけれど、どれも信ぴょう性はなかった。
5人のメンバーがいる中で、一番最初に卒業をした。
有名だったわけでも、人気があったわけでもないから卒業をすることに不安を感じていた。
表舞台から消えてしまったらどうしよう。
私はリンダくんのいない人生なんて考えられなかった。
そんな心配とは裏腹に、彼はバラエティや歌番組の出演を機にどんどん人気になっていった。
でも最近は推しの動向を追えていない。
夫がいい顔をしないから。
少しだけ集めていたグッズも捨てられた。
とてもショックだった。
でも結婚をしたから仕方ない。
推し活をする余裕が私にはないから、あっても邪魔だっただけだと言い聞かせた。
スマホでSNSをたまに覗いたりするくらいの、推し活とは呼べない緩い推し活を続けていた。
夫が残業で遅い日にされる、ゲリラライブ配信だけが唯一の希望だった。




