二話目 恐怖の獣化
上向は腰に手を当て、身を屈めていた。パソコンの隙間から場木がゴソゴソと無量に耳打ちをしているのが見える。
話を聞いた無量は場木の視線の先を追うと、何かに気づいたように大声を上げた。目と口がまん丸く開かれている。
「せ、先生。その手!」
何なんだと思いながら上向は腰から手を放した。
どうでも良い動作には意識しない複雑な動きがある、上向は指先の感覚に違和感を感じた。
手を目線の高さまで持ってくる。
「おい、おいおいおい」
指が減っている。指が短くなっている。それ以前に姿形が変わりすぎて、どこから説明して良いのか分からない。
「肉球ですよ! 先生」
場木がキャアと嬉しそうな声を上げる。
「なんだと」
阿戸鳴と頭を付き合わせていたはずの安佛の顔がぐるんと後ろを向く。怖ろしい形相だ。
ばっと上向の左手を掴み、検分するように執拗に揉む。
何という熱心さだ。巨乳のお姉ちゃんにおっぱい触る許可もらってもこんな顔はしないだろう。真剣に肉球の感触を確かめている。
先生俺にも触らせてなどと上から手を伸ばしてくるので、阿戸鳴の方へ向けて右手を挙げる。
「ぷにぷにぷにぷに」
口に出して効果音なんかつけられると見た目の痛々しさが上がり、上向はとてつもなく恥ずかしくなった。
「や、やめろ」
右手を引っ込めると、眉を下げ、口角を下げ非常に面白い顔をした。
阿戸鳴ですら言葉を失う程の絶望らしい。
思えばスーツの袖も酷くきつい。
腕自体が変形しているようだ。すでに数年着たとはいえ、高い品物だ。破るようなマネはしたくない。
相変わらず無言で手のひらをぐにぐに触る安佛を止めると彼もまた非常に面白い顔をした。
「先生は犬ですか?」
控えめに場木が聞く。机の向こうでうずうずしている。彼女も触りたいクチか。魅惑アイテムだな肉球。
ただ、そのセリフは誤解を生む。ここは人の尊厳を踏みにじる場所ではない。
「その言い方止めなさい。十二宮には犬座なんてありません」
「そう、これは猫科の肉球さ」
安佛はふふっと口元を歪めた。肉球マスターらしい。
「阿戸鳴と同じなら星座のやつだろ。わかった、上向先生は獅子座だな!」
ふふふと勝ち誇った顔で神部が高らかに宣言する。
当てたぐらいでなんだというのだ。
「そうですよ」
神部に対しつまらなそうに、乱暴な回答をした。
期待した反応がなかったからか、そのほかの理由なのか神部は大きくため息をついた。
「先生も読んじゃったか」
「僕はその画面、読んでいませんよ」
注意書きは阿戸鳴が代表して読んだ。その下の文章と幾何学模様にアルファベットらしきものが入った図はちらりとは視界に入ったが読むまでには至らなかった。
「読んだら変身するんだろ?」
「いや、違うみたい」
否定したのは阿戸鳴だ。
「この注意文を読んでいる間に、画面から影響を受けるって最後に書いてあった」
「ふざけっ」
全く意味のない注意文だ。
思わず叫んだ上向に哀れみの目が向けられる。それに気がついて、どもりながら疑問を返す。
「それなら、安佛くんはどうなんですか」
安佛の方が画面に近い場所にいた。翻訳の時に阿戸鳴を助けたこともある。変身するならきっと安佛の方が先であるべきだ。
「俺さ、双子座」
回答は淡泊だが相変わらず安佛は上向の肉球を目で狙っていた。
「双子って人だもんな。姿は変わらねーし」
やっと慣れてきたのか四本足を器用にたたみ、阿戸鳴の頭は少し下がっていた。
「分裂しなくてよかったな」
神部はどこか安堵した様子で腕を組んだまま椅子に深く腰掛けた。
スカートのまま足を組むのは目に良くない。ああ、短パンはいているから心配ないってか。そうか、はにわスタイルか。
中途半端に猫科の動物になりかけた上向は一度教卓へ向かった。これ以上謎の画面から影響を受けたくはない。
それに今の状態ではスーツがぱつぱつだ。せめて上着だけでも脱ごうと思ったが、変形した手ではボタンを外すに至らなかった。
首の後ろが盛り上がったせいで息が苦しい。幸い首元のボタンは手に埋もれた爪の先端に引っかけて外すことが出来た。
「雁瀬先生は?」
いくらか気持ちが落ち着いてきた頃、教室を見回すとロックンなテンパセミロングが居ないことに気がついた。
生徒達は首を横に振るだけだ。
「戻ってきたのウエムキンだけじゃん」
喉まで出かかった罵倒、「先生をつけろ馬」を飲み込み、そうでしたかとため息をつく。
「一度、先生を呼んできます」
「連れてけー」
「イヤです」
立ち上がろうとして折りたたんだ足をもつれさせる阿戸鳴を放置して、歪んだ体をひょこひょこ揺らしながら教室の外へ向かった。
しかし、この体の歪みは酷い。
歩いている内に自然と中腰になってしまう。太ももへの負担が厳しい。猫背になっている気もする。
いっそ四つん這いになろうかと思ったが、完全に四足歩行の形になってしまったわけでもない。中途半端に人型のままだ。
鏡で確認していないが、顔はどうなっているのだろう。黒髪が視界の邪魔をしたままだからあまり変わっていないはずだ。
石の廊下をひょこひょこと歩く。
爪が靴に引っかかって気持ち悪い。靴を脱いでしまおうかと思ったが、爪で石をひっかくのはもっと不快だろう。
獅子座への変身はとまっているのだろうか。酷い目にあったなと今日の昼下がりからの事を思い返す。
雁瀬と一緒に来たときに比べて倍ほどの時間をかけ図書室にたどり着いた。
扉は開けっ放しだ。上向が教室からの叫び声を聞いて駆け戻った時からそのまま開いていたのか。
「雁瀬先生」
薄暗い廊下からさらに真っ暗な室内へ声をかける。
「雁瀬先生、いらっしゃいますか」
もう少し声を張り上げる。
返事はない。
「先生ー」
動きたくはないが、仕方がない。一歩足を踏み入れた。
ぽっと隣で明かりがともる。
輝くランタンがぶら下がっていた。目をこらすと十数個が柱に釣られている。そのうちの一つが光っていた。
どうやって点けたのかとかどうしたら消えるのかとか、使い方はよく分からないが、とりあえず足下も壁も心配なので持って行くことにする。
あまり明るくはないが、ぶつかることはないだろう。
真っ暗闇とは違う中途半端に確保された視界に、暗がりから何かが飛び出してきたらどうするべきかと恐怖も感じながら先を進む。
今の体では走ることが出来ないのでさらに恐怖感が増す。
「先生、どこですか?」
壁際に高く積まれた本棚とその足場に沿い、奥へと足を進める。入り口で呼んでいた時よりも声が控えめなのはやっぱり怖がっているからだろうか。
随分奥まで進んだ。けれど一向に部屋の果ては見えない。
「教室何個分だよ」
広すぎる。縦にも、横にも。
「雁瀬先生! いますか!!」
歩き疲れた。次の本棚を過ぎたら休憩しよう。近づいたら腰掛けにちょうど良いはしごが見えたし。体の調子も良くなったし少し腰を下ろそう。
はしごに手をかけ、何気ない動作で辺りを見回したときに視界にぼんやり異物がうつる。
声にならない叫びを上げかけたが、その異物が明かりを取りだしたので、その正体が分かる。
「雁瀬、先生……」
「ん」
しゃがみながら大きな本を読んでいたらしい雁瀬先生が、自前ランタンの明かりを上向に向けていた。
「明かりを降ろしてください、目が焼けます」
「んー悪いね」
ちっとも悪いと思っていないのがよく分かる。
明かりを上向の方から外し、手元の本を照らし始めた。
「先生、一度教室に戻りませんか」
返事もせずページをめくる。薄暗がりでも不服そうな顔が分かった。
「阿戸鳴が馬になったんですよ」
「は?」
無視しようにもあまりに突拍子過ぎて出来なかったのか、視線まで上向の方へ来る。
「ナニソレ」
「見れば分かりますよ」
説明をするのが面倒だった。
するとまた本に視線を戻したので、選択を間違えたなと反省する。次の手を打たねば。
「ところで、僕の体、人間ですよね」
「は?」
同じようなやりとりが始まる。
「ナニソレ」
「一度教室に戻ったんですけど、その時に獣の体になったらしくて。今はもう戻ったと思うんですけど」
今度は本を閉じた。こちらに歩いてくる。
「上向先生。わっしをごまかそうったってそうはいかないよ」
「いえいえ、本当ですって」
とはいえ、雁瀬先生の反応からすでに体は人間に戻っているみたいだ。戻ってしまったことには証明はもうでき……ああ、もしかしたら出来るか。
上向はおもむろに靴を脱ぎはじめた。
靴下がみごとに破れている。
意図していないとはいえ鋭い爪でひっかいたのだ。当然だろう。
「……君の足、臭うね」
言うことはそれだけなのか。怒りと恥ずかしさとで、乱暴に足を靴の中に突っ込んだ。
「そだね。一度戻ろうか」
納得したのか、雁瀬先生は退室の準備をする。数冊の本を抱えながら、ランタンを二つとも持つように上向に指示した。
「何の本ですか?」
「面白い本だよ。わっしはこういうの好きだね」
答えになっていない返事だが、上向には興味のないことだった。




