十九話目 雨上がり
「雲が引くわ、一度帰りましょうフリアエ」
どこからか雨に紛れ、女の声が響く。
すると、それまでされるがままだった仮面の若者が急に腕力を振るい出した。
「何?」
腰に絡みついた神部の足は振り払われ、両腕とも簡単に抜けられてしまった。
その弾みに、支えを無くした神部は派手な水音を立てて濡れた地面へ腰から着地する。
神部に気を取られている間に、仮面の若者は雨に紛れ走り去った。煙る視界にその姿は映らない。
そして、光が差し込んだ。
雨はまだ降っているが、その勢いも弱まっている。
雨雲は移動した。
「大丈夫だよな」
安佛が片手を差し出すが、神部は気付いていないらしくびしょびしょに濡れた顔を下げながら立ち上がる。片手で顔の水を一度払うが、短い髪からしたたる水滴がぽとりぽとりとまた顔をぬらす。
雨で薄れた頬の血があごへと朱色の線を数本引いている。横一文字の傷口が痛々しい。
行き場をなくした手を引っ込めるときに、地面に這いつくばってぜーぜー言っている阿戸鳴に気付く。
「大丈夫っすか」
ぜーぜーと荒い息を吐くだけで、安佛に反応することもない。
さりげなくワックスを使っておしゃれを気取っていた阿戸鳴の髪型もこの姿では無残にへたりこんで目元を隠していた。
死にかけていますと訴えているような姿だったが、弱々しく右手をぴくりと動かした。
その横で、尻に黒い針が刺さっていた。
「尻のさ針をさ、抜くぞ」
かすかに頷いた事を確認すると、安佛は黒い物体に触れた。触れたところから指が溶けるような強い熱を感じた。
「熱っちいぞ! 何かさ、溶けるぞ」
神部は首をかしげる。
そして自分の太腿に刺さったままの針に手を伸ばすと、確かに神部も指先が溶ける感触を味わった。
これはよくないと思った安佛は、神部が止める間もなく一気に片を付けようと三本の指でつまんで勢いよく引っこ抜いた。
「痛ってえ……!!」
かすれるような声で阿戸鳴が悲鳴を上げた。
安佛は慌てて針から手を放した。
「俺だってさ、痛いぞ」
ひっくひっくとしゃくり上げながら、阿戸鳴は立ち上がった。
「……助かったよ」
口元をひん曲げて、労うように安佛の背中を叩いた。
「神部はさ、抜かないのか」
「抜くよ」
歯を食いしばって、目を背けながらゆっくりと手を伸ばし、勢いを付けて抜いた。流れるように抜いて、すぐに放り投げた。
「ぎぃ……」
食いしばった歯の奥から声が漏れた。足にきた痛みの残響をこらえている。
阿戸鳴が空を仰いで大きな声でため息をつく。
「すっげー体だるい」
もっともだと二人とも同意する。
雨に濡れた体は非常に不快を訴えていて、意識せずとも制服のボタンに手をかけていた。
「何神部まで普通に脱いでんだ」
阿戸鳴が見ると、タンクトップと短パン姿になっている。
「下着じゃないってことで、気にしないでくれ」
勇ましく脱いだシャツとスカートを腕に掛けた。どう見ても(少なくとも上半身は)下着姿の神部は、ソックスを脱ぎながら先に教室へ歩き出した。
教室に近づくと、中からがたがた物騒な音とヒステリックな叫び声が聞こえたので、安佛と阿戸鳴は濡れたシャツを廊下の低い石壁に掛けるともう少し時間を潰すことにした。
「そういや、ブラジャーの気配がなかったな」
阿戸鳴のささやきに、安佛は少し物理的な距離を置いた。
中庭から廊下に目をやったとき、安佛は慌てて走ってくる蓮村を見た。
「何かさ大変なことになっている気がさ、するぞ」
阿戸鳴を引き寄せ、蓮村の元に駆け寄った。
パンプスをかっこかっこ言わせて走ってきた蓮村はぜいぜいと息を切らせながら助けを求めた。
「さっき、亡者が、来て。ちょっと、手を貸して」
まともに走れない蓮村を心配しながら彼女の指す場所へ移動する。
気を失った先生達を運びたいらしい。
「雁瀬先生、どうしたのさ」
駆けつけてすぐ、仰向けに水浸しの石畳上で手足を投げ出している雁瀬先生を揺り動かすと、うるさそうに片目が開いた。
心配する蓮村をよそに、機嫌の悪そうなしわを鼻の上にたくさん寄せながらゆっくりと上体を起こす。
天然らしいちりちりの髪の毛がいつにもまして爆発していた。
実験に失敗した謎の博士のイメージ像を忠実に再現している先生に笑いがこらえられず、さらに雁瀬先生の顔は不機嫌に曲がる。
「痛いなあ」
しかめっ面のまま右手を横腹に伸ばす。
「熱っつ! 何だ?」
そして叫びながらその手を引っ込めた。
「先生、その針さどうしたのさ」
雁瀬先生の脇腹には先ほど阿戸鳴達に刺さっていた黒い針と同じものが刺さっていた。
気の抜けた声を上げながら、ゆっくり倒れる前のことを話し出す。
「雨の中君たちの所へ走っていたら、何か刺さったね。間違いない、これだ」
そのショックで足を滑らせて、尻餅付いて、そのまま仰向けで倒れていたらしい。
動くとくすぐったいからと、雁瀬先生は安佛に抜くように指図した。自分の脇腹に刺さったものには、抜くための十分な力が入らない。
安佛は阿戸鳴にしたように一瞬で抜き払った。
「どうも、助かったね」
右腕を振り回し全快のジェスチャーをする。
ついでに首を一周回して、アレも何とかしなくちゃと後ろを指さした。
そこにはスーツに身を包んだ男が倒れている。
阿戸鳴は少し悩んで、ひらめいたように声を上げた。
「ウエムキンか」
顔を見るのは随分久しぶりで、気付くのに時間がかかった。上向が元々影の薄い顔なのも悪い。
安佛も忘れていたらしく、なるほどとつぶやきを漏らした。
近くに寄ると、これもまた惨状だった。
袖の飾りかと思うほど上向の右腕左腕ともにたくさんの針が刺さっている。
特に右腕は全体的に打ち込まれている。大して左腕は肘から先だけだ。
今度は揺りおこしてみても反応がない。
「雁瀬先生が倒れた後、上向くんは見えない相手と戦っていたの。相手は空中に浮いていて、雨の中から針を撃ってきていたのよ」
そう言いながら蓮村先生はあの辺を飛んでいたと言いたげに空を指さした。
「そういえばさ、雨が止む前にさ、声を聞いたぞ」
安佛が教室にサソリの王女の兄を名乗る若者が現れ、中庭に出て捕獲した一連の流れを話した。
「そうそう、俺も聞いた。女の声。王子の亡者を神部が捕まえた後だ」
「雨が止む前に声が響いてきてさ、俺たちが捕まえた亡者に向かってさ、帰りましょうフリアエって呼んでたぞ」
「フリアエ? 亡者の名前ですかね」
蓮村が尋ねるが、雁瀬先生の反応は煮え切らない。何事もきっぱりと断定する雁瀬先生には珍しい反応だ。
「どうしたんですか?」
「どうも頭の回転が鈍ってね。何か引っかかるんだが思い出せない」
頭を指で押さえ、重たげに首をかしげる。
「どちらかというと思い出せないわけではなく、頭の中で情報が繋がらない感覚かね」
後で調べるから念のため君もその名前を覚えておいてくれと雁瀬先生が頼んだ。
「先生、上向先生の針だけどさ。全部さ抜き終わったぞ」
安佛は指先を真っ赤に腫らしていた。
蓮村が飛んでくる。
「上向くん。上向くん」
肩を軽く揺らしながら、名前を呼ぶが反応はない。
「この針は一体何だろな」
雁瀬先生が床に散らばった針をしげしげと眺める。
「俺の場合、雨の中で何か調子悪くて変身が解けそうなのをめちゃくちゃ必死に我慢して走っていた時にぷつっと打たれたんだけどな、その瞬間に我慢できなくなって解けちまったから、強制的に変身を解くもんだったんじゃねえかと思うんだよ」
阿戸鳴の解説からその線で考えていく。
「でもさ、蓮村先生がさ、撃たれてないのに元に戻ってるぞ」
「それは自分で陽幸を使いすぎたんじゃねえの」
蓮村は覚えがないと首を振った。
「陽幸と言えばさ、俺さ、陽幸が出せなかったぞ」
安佛は針に関係なく、亡者から攻撃らしい攻撃もなかった。そもそも、双子座として陽幸を纏っている状態なら仮面の若者に触れたときに亡者であろう若者が苦しむはずではないのか。
阿戸鳴がぴこーんと人差し指を突き出した。
「それじゃもしかして、陽幸の調子が悪いのは雨のせいか?」
安佛としてはその可能性が高いと見えた。
「俺も外に飛び出して濡れた途端、馬の体を保つのが難しくなった気がするしな。同意するぜ」
雨には全員が当たっている。そして今、おそらく全員の変身は解けた状態であった。
あの雨がただの水ではないということは明白だった。
「そんじゃ、もう一回。この針の効果は何だろな」
イヤミを言うわけではなく、ただ普通の疑問を雁瀬先生が投げかけた。
「それも変身解除だと思う」
阿戸鳴は口を前に突き出しながら回答した。
「持って帰れないかね」
安佛は無言で腫れた右手を突き出して拒否した。




