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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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姉を守る妹


第10話「姉を守る妹」


 十一月十三日。


 金曜日。


 梨花と大輝の結婚記念日。


 だがこの日、大輝は妻と過ごすつもりなどなかった。


 大輝は仕事だと嘘をつき、立花一絵のマンションへ向かった。


 一絵はまだ、大輝を独身だと信じている。


 そして大輝も、自分の嘘がすでに包囲されていることを知らなかった。


     *


 夕方。


 一絵のマンション近く。


 少し離れた待機場所には、梨花の両親・光博と七海、妹の麻里子、そして大輝の両親である俊也と祥子がいた。


 俊也と祥子には、事前に探偵事務所から最低限の事実が伝えられていた。


 息子が妻に嘘をつき、別の女性と会っている可能性が極めて高いこと。


 ただし、現場で感情的に動かないこと。


 まずは梨花と調査員が接触すること。


 俊也は険しい顔をしていた。


 祥子は膝の上で両手を握りしめていた。


「大輝が……」


 祥子は、まだ信じきれない顔をしていた。


 麻里子は静かに言った。


「今日は、見てもらいます」


     *


 マンションの出口近く。


 梨花は調査員と並んで立っていた。


 調査員は元ラガーマンだった。


 学生時代からラグビー同好会でスクラムを組み、タックルを受け、体を張ってきた人間だった。


 肩幅が広く、背も高い。


 静かに立っているだけで、逃げ場を塞ぐ壁のように見える。


 だが声は落ち着いていた。


「葛城さん、無理に強く出なくて大丈夫です」


「はい」


「最初は問いかけるだけでいいです」


 梨花は深く息を吸った。


     *


 やがて、マンションのエントランスが開いた。


 大輝が一人で出てきた。


 スマホを見ながら、少し機嫌のよさそうな顔をしている。


 梨花を見た瞬間、その顔が固まった。


「……梨花?」


 梨花は静かに立っていた。


「大輝」


「なんでここにおるん」


 大輝は周囲を見た。


 梨花の隣に立つ調査員にも気づく。


「誰や、この人」


 梨花は一歩だけ前に出た。


「その前に聞きたい」


「何を」


 梨花は大輝の目を見た。


「なんで私がここにいるのか、分かる?」


     *


 大輝は一瞬、言葉に詰まった。


 だが、すぐに表情を作った。


「分かるわけないやろ」


「本当に?」


「たまたま通っただけちゃうん?」


「このマンションの前を?」


「知らん。お前がどこにおるかなんて俺が知るか」


 梨花は、少しだけ目を伏せた。


 まだ嘘をつく。


 ここまで来ても。


「今日は仕事って言ってたよね」


「仕事やったよ」


「会社には行った?」


「行ったに決まってるやろ」


 調査員が静かに手帳を開いた。


 大輝の視線がそちらへ動く。


「何やねん」


 梨花は言った。


「会社には行ってないよね」


 大輝の顔がわずかに強張る。


「何を根拠に」


「記録がある」


「は?」


「今日、大輝は会社に行ってない。京都駅で一絵さんと合流して、その後ここに来た」


 大輝の喉が動いた。


 だが、まだ認めない。


「誰やねん、一絵って」


 梨花は、ゆっくり言った。


「立花一絵さん」


     *


 大輝の表情が一瞬だけ崩れた。


 しかしすぐに怒った顔へ変わる。


「勝手に人のこと調べたんか」


 梨花は答えた。


「調べられるようなことをしたのは大輝やよ」


「意味分からん」


「分からない?」


「高校の同級生に会っただけや」


「じゃあ、なんで残業って嘘ついたの」


「残業のあと会ったんや」


 梨花は静かに首を振った。


「その嘘も、もう記録と合わない」


 調査員が一枚の紙を取り出した。


 写真ではない。


 まずは行動記録だけだった。


 時刻。


 移動経路。


 合流場所。


 滞在場所。


 大輝はそれを見て、顔色を変えた。


「何やこれ」


 調査員が言った。


「本日の確認記録です」


「お前、誰や」


「調査を担当している者です」


 大輝は息をのんだ。


     *


 梨花は続けた。


「大輝。今ならまだ、自分の口で説明できる」


「説明も何もない」


「一絵さんとはどういう関係?」


「ただの同級生」


「ただの同級生のマンションに、結婚記念日に行くの?」


「相談に乗ってただけや」


「何の相談?」


「仕事のことや」


「一絵さんは大輝の会社の人じゃないよね」


「昔の知り合いやから」


 梨花は、大輝の言葉を一つずつ聞いた。


 誠意ある答えはない。


 あるのは、場当たり的な嘘だけだった。


     *


「じゃあ聞くね」


 梨花はスマホを取り出した。


「これは何?」


 画面には、以前保存した通知のスクリーンショットが表示されていた。


《今日は楽しかった。また会いたい》


 名前は、立花一絵。


 大輝の目が泳いだ。


「それは……」


「高校の同級生?」


「そうや」


「残業の後に少し会っただけ?」


「そうやって言ってるやろ」


 梨花は次の画面を見せた。


《大輝、ほんまに彼女いないんだよね?》

《いないよ》


 大輝の表情が固まった。


 梨花は声を震わせながらも言った。


「これ、どういう意味?」


 大輝は黙る。


「妻がいるのに、いないって言ったの?」


「それは……」


「それは?」


 大輝は顔をしかめた。


「流れでそうなっただけや」


 梨花は息をのんだ。


「流れで、妻をいないことにしたんや」


     *


 少し離れた待機場所。


 麻里子は、共有されている音声を聞いていた。


 光博の拳が震える。


 七海は目を閉じる。


 俊也と祥子は、言葉を失っていた。


 祥子は小さくつぶやいた。


「大輝……何言うてるの……」


 俊也は険しい顔で黙っていた。


 息子が、まだ嘘を突き通そうとしている。


 その事実が、親として重くのしかかっていた。


     *


 現場。


 梨花はさらに言った。


「大輝、一絵さんに結婚しようって言ったよね」


 大輝の顔が変わった。


「何でそれを」


 言ってしまってから、大輝はしまったという顔をした。


 梨花は小さくうなずいた。


「言ったんやね」


「違う」


「何が違うの」


「その場の勢いや」


「妻がいるのに?」


「だから、それは……」


「一絵さんは、大輝が独身だと信じてる」


 大輝は黙った。


「騙したんやよ。一絵さんも。私も」


「騙したって大げさな」


 梨花の目が鋭くなった。


「大げさ?」


 大輝は苛立ったように言った。


「お前がそうやって面倒くさいから、こうなったんやろ」


 その言葉に、梨花の表情が一瞬だけ揺れた。


 でも、崩れなかった。


     *


「私のせいにするんやね」


「実際そうやろ」


「私が悪いから、独身と嘘をついた?」


「……」


「私が悪いから、残業と嘘をついた?」


「……」


「私が悪いから、別の女性に結婚しようと言った?」


「うるさいな」


 大輝の声が荒くなる。


「いちいち責め立てんなや」


 梨花は静かに言った。


「責められることをしたんやよ」


     *


 調査員が一歩だけ前に出た。


 大輝は反射的に身を引いた。


 屈強な体格の調査員は、何も乱暴なことはしない。


 ただ、そこにいるだけで、大輝が逃げ出す隙を削っていた。


「葛城大輝さん」


 調査員は落ち着いた声で言った。


「本日の内容はすべて記録しています。ここで暴言や威圧的な行動を取ると、それも記録に残ります」


 大輝は唇を噛んだ。


     *


 梨花は最後に尋ねた。


「大輝」


「何や」


「今ここで、本当のことを話す気はある?」


 大輝は視線をそらした。


 そして言った。


「何もしてへん」


 梨花は目を閉じた。


 最後の機会だった。


 誠意を見せる最後の機会。


 しかし大輝は、それすら捨てた。


「そう」


 梨花は静かに言った。


「分かった」


     *


 梨花はスマホを操作した。


 待機していた麻里子へ短く送る。


《呼んで》


 数分後。


 待機場所から、光博、七海、麻里子、俊也、祥子が歩いてきた。


 大輝はその姿を見て、顔を引きつらせた。


「親父……お袋……」


 俊也は、大輝をまっすぐ見た。


 祥子の顔は青ざめていた。


 麻里子は梨花の隣に立つ。


 光博は低い声で言った。


「大輝くん。もう、嘘はええ」


 大輝は完全に言葉を失った。


     *


 そして、次に呼ばれるのは一絵だった。


 まだ何も知らない一絵。


 大輝が独身だと信じている一絵。


 妊娠の可能性を抱えながら、結婚を信じている一絵。


 梨花は震える手を握りしめた。


 直接対決は、まだ始まったばかりだった。


     *


次回予告


第11話「崩れた約束」


 大輝の両親、梨花の家族がそろう中、大輝はなおも言い逃れようとする。


 だが、証拠は一つずつ示されていく。


 そしてついに、一絵が呼び出される。


 独身だと信じていた男に妻がいた。


 結婚の約束は、嘘の上にあった。


 次回、


第11話「崩れた約束」


 嘘が壊れる音は、自分の耳にも届く。

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