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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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録音ボタン

第9話「録音ボタン」


 梨花が実家へ戻った翌朝。


 大輝は、アパートの中を見回していた。


 梨花の姿がない。


 最低限の荷物も消えている。


 最初に大輝の胸に浮かんだのは、心配ではなかった。


 苛立ちだった。


     *


「何勝手に出て行ってんねん」


 大輝はスマホを手に取り、梨花に電話をかけた。


 数回のコール。


 梨花は出た。


 ただし、その前に録音ボタンを押していた。


「もしもし」


「お前、どこおるん」


「実家」


「は? 何勝手に帰ってんねん」


「昨日、怖かったから」


「何が怖いねん。被害者ぶるなよ」


 梨花は黙って聞いていた。


 大輝の声は、録音されている。


     *


「帰ってこい」


「今は無理」


「夫婦やろ」


「夫婦なら、私の仕事を侮辱して、手を上げようとしていいの?」


「お前が怒らせたんやろ」


 梨花の指が震えた。


 けれど、電話を切らなかった。


「今の言葉、ちゃんと聞いた」


「何やその言い方」


「もう、大輝の言葉は全部残すことにした」


 一瞬、沈黙。


 大輝の声が低くなる。


「録音してんのか」


「必要やと思ったから」


「ほんま気持ち悪い女やな」


 梨花は目を閉じた。


 それも、残った。


     *


 電話を切ると、麻里子がすぐ横にいた。


「録れた?」


「うん」


「保存して。私にも送って」


 梨花はうなずいた。


 残すこと。


 それは、梨花にとって反撃の始まりだった。


     *


 一方その頃。


 立花一絵は、実家の食卓に座っていた。


 父・立花一也。


 母・菊江。


 二人は、娘の少し緊張した顔を見ていた。


「お父さん、お母さん」


「どうしたん」


 一絵は、照れたように笑った。


「私、結婚しようと思う」


 一也と菊江の顔がぱっと明るくなる。


「ほんまか」


「よかったね、一絵」


 菊江は目を潤ませた。


「どんな人なん?」


「高校の同級生。最近再会して……すごく優しくて、仕事もちゃんとしてて」


 一絵は幸せそうに話した。


 大輝が既婚者だとは、夢にも思っていない。


 妻がいることも。


 嘘をつかれていることも。


 自分が誰かの家庭を壊す形に巻き込まれていることも。


 何も知らない。


     *


「今度、連れてくるから」


 一絵が言うと、一也は嬉しそうにうなずいた。


「楽しみにしとる」


 菊江も笑った。


「一絵が選んだ人なら、きっとええ人やね」


 一絵は頬を赤らめた。


「うん。大輝は、ちゃんとしてくれるって言ってくれた」


 その言葉の裏にある嘘を、まだ誰も知らなかった。


     *


 京都の旅館。


 梨花、光博、七海、麻里子、そして探偵事務所の担当者が集まっていた。


 テーブルには、これまでの証拠が並んでいる。


 探偵の報告書。


 ホテルへの出入り写真。


 大輝と一絵の動画。


 梨花の録音。


 スマホの記録。


 そして、大輝が一絵に「結婚しよう」と告げた場面の写真。


 七海は静かに言った。


「もう、逃げ道はかなり狭いな」


 探偵はうなずいた。


「客観的な証拠としては、かなり強いです」


 光博が低い声で聞いた。


「問題は、いつ本人と向き合うかやな」


 麻里子がカレンダーを見た。


 そして、ある日付で指を止めた。


「十一月十三日」


 梨花が顔を上げる。


「その日……」


「結婚記念日やろ」


 梨花は小さくうなずいた。


 十一月十三日。


 金曜日。


 梨花と大輝が夫婦になった日。


 そして今度は、嘘を終わらせる日になる。


     *


 梨花は大輝に連絡を入れた。


 声は静かだった。


「十一月十三日、話がある」


「は?」


「大輝の職場に用事があるから、早めに出てほしい」


「職場に? 何の用事や」


「確認したいことがある」


「意味分からん」


「大事な話」


 大輝は鼻で笑った。


「その日、金曜やぞ。忙しいんや」


「でも結婚記念日やよ」


「だから?」


 梨花の胸が痛んだ。


 けれど、冷静に続けた。


「一時間だけでいいから、時間作って」


「無理かもしれん」


「また深夜になる?」


「そうやな。金曜は忙しい」


 梨花はスマホの録音画面を見た。


 録れている。


 金曜日は深夜になる。


 忙しい。


 大輝はそう言った。


 その日、探偵はすでに一絵との接触予定を押さえていた。


 言い逃れできないように。


 梨花は静かに返した。


「分かった。記録しておくね」


「何やねん、その言い方」


「そのままの意味」


     *


 電話を切ったあと、梨花は深く息を吐いた。


 麻里子が聞く。


「録れた?」


「うん」


「よし」


 光博は静かに言った。


「十一月十三日やな」


 七海も頷く。


「この日に全部、向き合おう」


 梨花はカレンダーを見つめた。


 結婚記念日。


 本来なら、二人で食事をして、これからもよろしくと言う日だった。


 けれど今年は違う。


 夫婦として積み上げる日ではない。


 壊されたものを、梨花自身の手で終わらせる日だった。


     *


 その夜。


 梨花は実家の客間で一人、スマホの録音一覧を見ていた。


 大輝の声。


 怒鳴り声。


 侮辱。


 嘘。


 全部残っている。


 怖い。


 今も怖い。


 けれど、もう何も持たずに泣いているだけの梨花ではなかった。


 梨花は小さくつぶやいた。


「十一月十三日」


 その日を境に、自分はもう一度、自分の人生を取り戻す。


     *


次回予告


第10話「姉を守る妹」


 決戦の日は十一月十三日。


 結婚記念日。


 梨花は証拠を整え、麻里子は姉のそばに立つ覚悟を固める。


 一方、大輝はまだ、自分が追い詰められていることに気づかない。


 一絵もまた、嘘の上にある幸せを信じていた。


 次回、


第10話「姉を守る妹」


 優しさだけでは守れない夜がある。

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