3-1 緊急任務 ~演技派殿下の護衛をせよ~
白い大理石の回廊を、ヒーアリックは凄まじい歩速で突き進んでいた。
金色の刺繍が施された深い藍色のマントが風を切り、バサバサと激しく音を立てている。
彼の手には、国の予算書の分厚い束が握られていた。
「ヒーアリック様!騎士団の第三演習場にて、操獣師様の連れてきた幻獣がまた防護柵を噛み砕いたと報告がーー!」
「補修費はアイツの私費から差し引くよう会計に回せ!俺は今からエドガーと予算会議だ!」
並走する部下の騎士に鋭く指示を飛ばしながら、ヒーアリックは手元の資料をめくる。
眉間の皺は完全に定着していた。
(……なぜエドガーは、こうも山のような書類を俺に押し付けてくるんだ……!)
「はぁ……」
重いため息をつきながら、ヒーアリックは相談室の重厚な扉を開ける。
中にいたのは、ソファに深く腰を掛けながら、冷徹に書類を精査しているエドガーその人だった。
銀色の眼鏡の端を押し上げるエドガーの髪は、知的さを際立たせるダークな黒の色合いの中に、ところどころ銀灰色の白髪が混じっている。
年齢よりも少し落ち着いた苦労人としての雰囲気を醸し出しており、その冷徹なまでの冷静さと分析的な眼差しを一層引き立てていた。
「遅いですよ、ヒーアリック殿」
「すまん、少しバタバタしていてな」
ヒーアリックはエドガーと向かいのクッション性の高い、深い蒼色のソファに腰を下ろした。
「相変わらずお忙しいことで。あなたが走り回っている間に、王都の財政はどんどんすり減っていきますよ」
眼鏡の奥で、エドガーはやれやれ、とばかりにため息をついた。
「……悪かったな。早速本題に入ってくれ」
「ええ。では、『精霊祭』の予算についてですが」
「今年の精霊祭は、『聖なる森』の精霊達を呼び寄せるのだろう?」
ルミエール王国は、昔から度重なる厄災に見舞われてきた土地だった。
時折訪れる、地を揺るがす大地震や、国中を覆う底知れぬ瘴気ーーそれらを退けなければ、国を守る聖なる加護さえも失われかねない。
そのため、この国では数年に一度、森に住む精霊たちを呼び寄せ、平穏を維持するための儀式を行っている。
とりわけ、古代から存在し続ける強力な精霊たちが集う『聖なる森』においては、百年に一度という特別な頻度で、厄災を鎮めるための大いなる儀が執り行われていたのである。
「ええ。古代の彼らをお招きするとなれば、好物の最高級誘引香や純度の高い魔力結晶が不可欠です。おまけに、先日ギルバート殿が使い倒したせいで、肝心の予算費が底をついています。どうあがいても今回の経費が足りません」
「仮に錬金術の面をエドガーがすべて何とかするとしても、材料費や物理的な限界があるということか」
「ええ、その通りです。私がいくら腕を奮ったところで、素材そのものがなければ作れません。まあ、私1人で錬金術関連の物を全て作る気など、端からありませんがね」
エドガーは片手をヒラヒラと軽く振ると、面白がるような、余裕を含んだ笑みを浮かべた。
ヒーアリックはそんなエドガーの様子を見て、呆れながら小さく息を吐いて注意を挟む。
「……エドガー。お前は自分が周囲にこき使われる未来を少しは想像した方がいい」
「おや、私が必要以上の労働をするとでも?出来るものならどうぞ私をこき使ってみてください。ーーまあ、その前に私が全員使い倒しますが」
エドガーは書類から目を離し、不敵に微笑んだ。
ヒーアリックが頭痛を覚えて眉間を押さえた、その瞬間。
ーーバァァァン!!
まるで嵐のように相談室の扉が力任せに開かれた。
「ヒーアリック!エドガー!大変なことが起きた……!」
肩を激しく上下させ、息を切らせて飛び込んできたのはルミエール王国の第1王子、ラウール・フォン・ルミエール殿下だった。
その端正な顔立ちは青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいる。
だが、彼のオリーブグリーンの瞳は、どこか奇妙な熱を帯びて爛々と輝いていた。
太陽の光を思わせるハニーブラウンのルーズヘアをかき上げ、ラウールは胸を張り、陶酔した笑みを浮かべる。
「フッ。ついに来やがったな。我が身を狙う、運命の歯車が……!」
「殿下、一体どうなされたのですか?」
エドガーが眉をひそめ、怪訝そうに眼鏡を押し上げる。
すると、遅れてラウールの秘書であるマルクス・クラウゼが青い顔をして走って来た。
「エドガー様、ヒーアリック様……!」
どんなに慌ただしい状況であっても乱れることのなかった、きっちりと整えられた灰色の髪はボサボサになり、仕立ての良いスーツの裾さえも折れ曲がっている。
いつもなら冷徹なまでの落ち着きを払っている厳格なマルクスまでが、血の気を失って激しく震え、涙ながらに絶叫した。
「先ほど、殿下の部屋の豪華で頑丈なシャンデリアが、何の前触れもなくボルトごと引きちぎれて真下に落ちてきたのです!私が書類を拾おうと殿下を呼び止めなければ、今頃は我が王国の未来が潰えておりました……!」
「……危うく俺の気高い美貌が、あの下衆なガラス片に汚されるところだったというわけか」
ラウールは劇場の舞台にでも立っているかのように、優雅に腕を組んで不敵な笑みを崩さない。その顔は至って真剣だった。
「あの落ち方は異常でございました!まるで何かに狙い澄まされたかのように……。殿下に本当に『死ぬ確率が100%の呪い』がかかっているとしか思えません!」
マルクスが震える手で差し出したのは、血のような赤黒いインクで書かれた不気味な書状だった。
一一『日没までに、お前の死ぬ確率は100%』
「……ただの悪質な脅迫状の類ではないのですか?」
「……わかりません。今朝、殿下しかいないはずの部屋の机の上に、まるで最初からそこにあったかのように置かれていたのです……!」
マルクスが青ざめた顔で震えながら付け加える。
エドガーが冷静に書面を凝視するが、ヒーアリックの背筋には冷たいものが走っていた。
(確率をねじ曲げる未曾有の脅威に間違いない……!)
「……ヒーアリック殿」
エドガーの眼鏡の奥の鋭い瞳が、普段の余裕を消し去り冷ややかな戦闘色を帯びる。
彼もまた、これが『未曾有の脅威』の一種だと確信しているのだろう。
「私は至急であの魔導具の開発を進めます。この脅威がここまで迫っているのであれば、さらに観測魔導具を強化させるべきでしょう」
「……頼む。エドガー」
緊迫した空気が漂う相談室の中で、二人が今後の対策に思考を巡らせていると、マルクスが頼りなさげにヒーアリックを見つめた。
「あのぉ、1つご依頼したいのですが。……騎士団長様が、本日の殿下の護衛をしていただけないでしょうか?この脅迫状の件は今朝、陛下に直々にご覧いただいたのですが……。『不吉な紙切れ一枚で軍を動かす余裕はない』とつれないお返事でして。おまけに、殿下には午後から職人街へ御幸される予定があるのです」
マルクスが遠い目をしながら、実に陛下らしい冷淡な言葉を回想する。
「……いかにも、陛下らしいお言葉ですね」
エドガーがどこか皮肉めいた冷笑を浮かべる。
「だが、なぜ職人街に殿下が行くんだ?」
ヒーアリックが尋ねると、マルクスは申し訳なさそうに詳細を捲し立てた。
「精霊祭で使う特注の魔力結晶ですが……職人たちが『この金額では材料が足りず、納期に間に合わない』とへそを曲げてしまいまして。そこで殿下が午後から直々に職人街へ赴き、『必要な素材の融通は私が約束するから祭りに間に合わせてくれ』と、直接交渉と激励をなさる予定なのです」
「ハッハッハ!我が熱意の炎に触れれば、頑固な職人の心など一ひねりだ!」
太陽の光を思わせるハニーブラウンのルーズヘアをクシャリとかき上げ、ラウールは背後の窓から射し込む光を背負うようにして不敵に笑う。
「殿下、今はその劇的な演出をお控えください!」
マルクスが青い顔のままそう言うと、エドガーは少し呆れたようにため息をついた。
「……相変わらず、お元気ですねぇ」
「いつだってご健勝なところが殿下の素晴らしい所だろう。……しかし、職人街か。あそこは入り組んでいて死角も多い。護衛の配置が難しい場所だな」
ルミエール王国の王都の東南にある職人街は、鍛冶工房や魔導具工房などが立ち並ぶ、王国屈指の工房街だ。
職人たちが使う用水路や水車小屋が点在し、幾重にも入り組んだ複雑な路地裏が広がっているため、王都中心に比べれば道は整備されておらず、当然ながら護衛の配置も非常に難しい。
ヒーアリックが腕を組んで唸ると、エドガーがソファから冷ややかに声を飛ばす。
「大人数での警護はかえって機動力を削ぐでしょうね。ヒーアリック殿、あなたが直近を固めれば良いのでは?」
「ああ、そうだな。マルクスの言う通り、俺が殿下のすぐ側で護衛し、数人の兵を周辺に配置しよう」
「おおっ……!頼む、ヒーアリック……!この暗闇に差す一筋の光、君だけが頼りだ……!」
ラウールは感極まったように両手を合わせ、劇場の主人公さながらに熱い瞳を向けてくる。
危機的状況であってもこの調子なあたり、さすがはルミエール王国の第一王子、ラウールである。
ヒーアリックはわずかに遠い目をしながらも、すぐに背筋を正し、右手をそっと左胸にあてて深く頭を下げた。
「殿下。私がお供いたしますので、どうぞご安心を」
(……やれやれ、相変わらず劇場型の王子だな。だが、確率捻じ曲げる脅威が本物である以上、一瞬たりとも油断はできない……)
何としても今日一日、この手のかかる主役を死なせるわけにはいかない。
ヒーアリックは心の中で静かに強固に覚悟を決めるのだった。




