表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/15

第1話 零れた命

 父さんは、今日も帰ってこなかった。夕暮れの草原に寝転がりながら、ヒューは遠くまで伸びる街道を眺めていた。地平線の向こうへ沈みかけた太陽が、道を赤く染めている。あの道の先から、いつか父が帰ってくる。そう思って、何度ここで待っただろう。村の大人たちは、父のことを立派な冒険者だと言う。遠い町で魔物を倒し、盗賊を追い払い、困っている人間がいれば放っておけない。

 強くて、優しくて、誰かに必要とされる人。けれど、ヒューにとっての父は、約束の日を過ぎても帰ってこない人だった。

「……帰ろう」

 空が暗くなる前に、ヒューは身体についた草を払い、立ち上がった。家に戻ると、母はちょうど庭の畑仕事を終えたところだった。

「おかえり、ヒュー」

「ただいま」

 ヒューは少し黙ってから言った。

「父さん、今日も帰ってこなかった」

 母は手についた土を払いながら、ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。

「そうね」

「もう十年もだよ」

「きっと、帰れない理由があるのよ」

「また?」

「お父さんは、困っている人を見捨てられない人だから」

 ヒューは口を尖らせた。

「……弱い人より、母さんと俺のほうが大事じゃないの?」

 母はきょとんとしたあと、困ったように笑った。そして突然、ヒューの脇腹へ両手を伸ばした。

「それっ」

「うわっ! やめろよ!」

「そんな怖い顔をしていたら、可愛い顔が台無しよ」

「やめろって!」

 逃げようとするヒューを、母は後ろから抱きしめた。土と草の匂いがした。それでも、その腕は温かかった。

「お父さんはね」

 耳元で、母が言う。

「ヒューのことも、私のことも、本当に大切に思っているわ」

「……本当に?」

「本当よ」

 母の手が、ヒューの髪を優しく撫でた。

「だから、そんな顔しないの」

「だって……」

「笑っていて」

 その言葉を聞いた、直後だった。――カン。――カン、カン、カン、カン!村の中心から、激しい鐘の音が響いた。母の手が止まった。ヒューも振り返る。見張り台の鐘。村であの鐘が鳴る理由は、一つしかない。

「魔物だ!」

 外から男の叫び声がした。

「森から魔物の群れが来てるぞ!」

「柵を閉めろ!」

「女子供は家の中へ!」

 母の顔色が変わった。

「ヒュー!」

 強く手を引かれ、家の中へ入る。

「母さん、どうするの?」

「こっちへ来て」

 答えになっていなかった。外から獣の咆哮が聞こえた。直後、何か巨大なものが木柵へ激突する。――バキッ!木が砕ける音。悲鳴。怒鳴り声。剣を抜く音。

「母さん……!」

「大丈夫」

 母はそう言った。けれど、ヒューの手を握る指は震えていた。二人は庭の隅にある古い物置へ駆け込んだ。母が床板を持ち上げる。その下には、暗く狭い穴があった。昔、盗賊が村へ来たときのために作られた避難場所だった。けれど、どう見ても、子供一人が入るので精一杯だった。

「ヒュー。ここへ入って」

「母さんは?」

「いいから」

「母さんも一緒に入ってよ」

「二人では入れないの」

 母はヒューの肩をつかんだ。

「嫌だ」

「ヒュー」

「嫌だ!」

 ヒューは母の服にしがみついた。

「母さんも入ってよ!」

 外から、また咆哮が響いた。近い。母は一瞬だけ目を閉じた。それからしゃがみ込み、ヒューの頬へ手を当てた。

「大丈夫」

「嘘だ」

「すぐ迎えに来るから」

「本当に?」

「ええ」

 母は笑った。震えているくせに、無理やり、笑っていた。

「だから、何があっても声を出してはだめよ」

「母さん……」

「約束」

 ヒューは答えられなかった。母はヒューを穴へ押し込む。

「母さん!」

 床板が閉じる。光が消えた。真っ暗になった。ヒューは両手で口を塞いだ。板の隙間から、ほんのわずかに外が見える。母の足が遠ざかっていく。ゆっくりではない。わざと大きな音を立てて走っている。

「こっちよ!」

 母の声。直後、獣の足音が、それを追った。一匹。二匹。もっと。低い唸り声が近づく。ヒューは両手に力を込めた。声を出すな。母さんと約束した。声を出すな。

 声を――

「きゃっ……!」

 母の短い悲鳴。何かが倒れる音。

「母さん……」

 口の中だけで呟いた。助けに行かなければ。そう思った。けれど身体は動かなかった。怖かった。死ぬのが怖かった。床板を押し上げることもできず、暗闇の中で震えることしかできなかった。

     ◇

 どれほど時間が経ったのか、分からない。外では戦いが続いていた。男たちの怒鳴り声。女たちの悲鳴。泣き叫ぶ子供。獣の咆哮。木が折れる音。何かが倒れる音。そのすべてを切り裂くように、一人の男の声が響いた。

「まだ動ける者は、後ろへ下がれ!」

 知らない声だった。若い男。ヒューは隙間から外を覗いた。傷だらけの冒険者が、村の中央へ走り込んできていた。鎧は裂け、左腕から血が流れている。それでも男は止まらなかった。一匹の魔物が、倒れた村人へ爪を振り下ろす。男がその間へ飛び込んだ。剣と爪が激突する。

「走れ!」

 村人が這うように逃げる。男は魔物を押し返し、剣を振り抜いた。首から血を噴き出し、魔物が倒れる。だが、次の一匹が横から飛びかかった。避けきれない。爪が男の肩を裂いた。

「ぐっ……!」

 男は地面へ転がった。それでも、すぐに立ち上がった。逃げ遅れた老人の前へ立つ。

「下がってろ」

「お、おぬし……」

「早く!」

 魔物が牙を剥いた。男が剣を構える。腕は震えていた。呼吸も荒い。もう限界なのは、子供のヒューにも分かった。それでも、男は一歩も退かなかった。

「来い」

 魔物が地面を蹴った。男も踏み込む。剣が閃いた。刃が魔物の胸を深く貫く。獣の巨体が、男を巻き込みながら地面へ倒れた。静寂が訪れた。しばらくして。

「……終わった」

 誰かが呟いた。その言葉を合図にしたように、村のあちこちから声が上がった。

「助かった……!」

「生きてる!」

「俺たち、生きてるぞ!」

 やがて、歓声へ変わっていった。

     ◇

 ヒューは震える手で、床板を押し上げた。

「母さん……?」

 返事はない。庭には血が落ちていた。一滴。二滴。赤い跡が、物置の裏手へ続いている。ヒューはその跡を追った。

「母さん……」

 壊れた柵のそば。そこに、母は倒れていた。

「母さん!」

 ヒューは駆け寄った。身体を抱き起こす。服は赤く染まっていた。

「母さん、母さん!」

「……ヒュー」

 目が開いた。

「母さん!」

 生きている。まだ生きている。

「今、誰か呼んでくる! 冒険者が来たんだ! すごく強い人が――」

 立ち上がろうとしたヒューの手を、母の指が掴んだ。弱い力だった。

「ヒュー」

「なに」

「怒らないの」

「怒ってないよ」

「そんな顔……しないの」

「してないよ!」

 涙が溢れた。

「だから、喋るなよ! 今、助けを――」

 母は苦しそうに息をした。それでも、笑った。

「ヒューには……」

 細い手が上がる。

「笑っていて……ほしいの」

 その手が、ヒューの頬へ伸びる。あと少し。ほんの少しだった。けれど、届かなかった。手から力が抜ける。

「母さん?」

 落ちる手を、ヒューは両手で掴んだ。

「母さん」

 自分の頬へ押し当てる。

「ほら」

 いつもみたいに。

「触れてるよ」

 返事はなかった。手の温かさが、少しずつ失われていく。

「母さん……?」

 胸も。もう動かなかった。そのすぐ後ろで。

「ありがとう!」

 誰かが叫んだ。

「命の恩人だ!」

「おぬしが来なければ、村は全滅していた!」

「英雄だ!」

「本当にありがとう!」

「ありがとう!」

「ありがとう!」

 たくさんの感謝の声が、村中に響いていた。助かった人々が泣いていた。抱き合っていた。笑っていた。そのすぐそばで、ヒューは冷たくなっていく母の手を握っていた。男が救った命は多かった。けれど、その手から、零れ落ちた命もあった。

「母さん……」

 ヒューは母の身体へしがみついた。声は出なかった。

     ◇

 やがて、一人の足音が近づいてきた。村人たちに囲まれていた、あの冒険者だった。

「英雄だ!」

 背後から、誰かが叫んだ。男は足を止めた。

「違う」

 静かな声だった。男の視線は、ヒューの腕の中にいる母へ向けられていた。

「俺は、助けを求める者を助けるために剣を持っている」

 血に濡れた拳が握られる。

「なのに」

 男は目を伏せた。

「救えなかった」

 そして、ヒューの前まで歩いてくると、両膝を地面についた。泥の中へ、額を押しつける。

「お前の母親を救えなくて……悪かった」

 ヒューは答えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。ただ、母の手を握ったまま。ずっと俯いていた。

     ◇

 数日後。村では、犠牲になった者たちの葬儀が行われた。墓地には、土を掘り返す音と、啜り泣く声だけが響いていた。ヒューは母の新しい墓の前に座っていた。昨夜。母がいない家へ、一人で帰った。母の椅子。母が使っていた鍋。畳まれたままの服。空っぽの寝台。

 そこで初めて。ヒューは声を上げて泣いた。

 苦しかった。この悲しみを我慢できなかった。

 もう母はいない。誰も帰ってこない。

 声を上げて泣いた。

 

 村を救った冒険者は、まだ残っていた。深い傷を負っているのに、壊れた家を直し、井戸から水を運び、怪我人へ食料を届けていた。助けられた者に感謝されれば、短く頷くだけ。けれど、家族を失った者の前では、必ず足を止めて頭を下げた。夕暮れ。冒険者が一人で母の墓へやって来た。一輪の白い花を置く。何も言わず。ただ墓を見つめていた。ヒューはその横顔を睨んだ。

 胸の奥に押し込めていたものが、溢れた。

「どうして……」

 男は振り向かなかった。

「どうして、もっと早く来なかったんだよ!」

 沈黙。

「お前が英雄なら!」

 ヒューの目から涙が落ちる。

「母さんも助けられただろ!」

 長い沈黙のあと。男は言った。

「……間に合わなかった」

 それだけだった。言い訳はしなかった。

「母さんを返してよ!」

 ヒューは叫んだ。

「返してよ……!」

 男は答えなかった。やがて静かに膝をつき。ヒューの隣へ座った。慰めることもしなかった。大丈夫だとも言わなかった。ただ、墓を見ていた。ヒューは男の横顔を見た。そのとき初めて、気づいた。この人も、救えなかった者のことを、忘れられないのだ。

     ◇

 さらに数日後。村の復旧が一区切りついた頃。冒険者は荷物を背負い、村を出ていった。誰にも大げさな別れは告げなかった。ヒューは、その後ろ姿を追った。母を救えなかった男。けれど、傷だらけの身体で、最後まで村のために働いた男。なぜ追っているのか。ヒュー自身にも分からなかった。村の境界を越える手前。

 男が足を止めた。

「ついてこないでくれ」

 振り返らずに言う。ヒューは止まらなかった。

「おい」

 男はため息をついた。道端に落ちていた一本の枝を拾う。剣を抜き。余分な枝を削り落とす。やがて一本の粗末な木剣が出来上がった。男はそれを後ろへ放った。ヒューは慌てて受け取る。

「何回振れば」

 木剣を握る。

「お前みたいに強くなれる?」

 男は少しだけ考えた。そして。

「強くなりたいだけ振れ」

「分かんないよ!」

「なら、分かるまで振るんだ」

 男は歩き出す。

「おい!」

 ヒューは木剣を両手で握った。

「俺!」

 声が震える。それでも叫んだ。

「俺、お前みたいになりたい!」

 男の足が止まった。

「今度は俺が!」

 母の顔が浮かぶ。届かなかった手。冷たくなっていった指先。だから。

「守れるようになりたいんだ!」

 長い沈黙。やがて。

「そうか」

 男は、悲しそうに微笑んだ。

 

 再び歩き出す。そして数歩進んだところで、背負っていた剣を抜いた。右手で、高く掲げる。夕日を浴びた剣が、赤く輝いた。ヒューは木剣を握りしめたまま。その背中を、いつまでも見送っていた。

     ◇

 ――十年後。風が、草原を渡っていた。村の外れ。母の眠る墓の前に、一人の青年が立っている。短い白銀色の髪。日に焼けた肌。そして、その背には、一本の剣があった。ヒューは墓石の前へ一輪の花を置いた。

「行ってくるよ、母さん」

 あの日。母が最後に願った言葉を思い出す。――笑っていて。ヒューは静かに笑った。もう。無理に作った笑顔ではない。立ち上がる。母の墓へ背を向ける。そして、十年前に英雄が歩いたのと同じ道へ。ヒューは、最初の一歩を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ