第1話 零れた命
父さんは、今日も帰ってこなかった。夕暮れの草原に寝転がりながら、ヒューは遠くまで伸びる街道を眺めていた。地平線の向こうへ沈みかけた太陽が、道を赤く染めている。あの道の先から、いつか父が帰ってくる。そう思って、何度ここで待っただろう。村の大人たちは、父のことを立派な冒険者だと言う。遠い町で魔物を倒し、盗賊を追い払い、困っている人間がいれば放っておけない。
強くて、優しくて、誰かに必要とされる人。けれど、ヒューにとっての父は、約束の日を過ぎても帰ってこない人だった。
「……帰ろう」
空が暗くなる前に、ヒューは身体についた草を払い、立ち上がった。家に戻ると、母はちょうど庭の畑仕事を終えたところだった。
「おかえり、ヒュー」
「ただいま」
ヒューは少し黙ってから言った。
「父さん、今日も帰ってこなかった」
母は手についた土を払いながら、ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。
「そうね」
「もう十年もだよ」
「きっと、帰れない理由があるのよ」
「また?」
「お父さんは、困っている人を見捨てられない人だから」
ヒューは口を尖らせた。
「……弱い人より、母さんと俺のほうが大事じゃないの?」
母はきょとんとしたあと、困ったように笑った。そして突然、ヒューの脇腹へ両手を伸ばした。
「それっ」
「うわっ! やめろよ!」
「そんな怖い顔をしていたら、可愛い顔が台無しよ」
「やめろって!」
逃げようとするヒューを、母は後ろから抱きしめた。土と草の匂いがした。それでも、その腕は温かかった。
「お父さんはね」
耳元で、母が言う。
「ヒューのことも、私のことも、本当に大切に思っているわ」
「……本当に?」
「本当よ」
母の手が、ヒューの髪を優しく撫でた。
「だから、そんな顔しないの」
「だって……」
「笑っていて」
その言葉を聞いた、直後だった。――カン。――カン、カン、カン、カン!村の中心から、激しい鐘の音が響いた。母の手が止まった。ヒューも振り返る。見張り台の鐘。村であの鐘が鳴る理由は、一つしかない。
「魔物だ!」
外から男の叫び声がした。
「森から魔物の群れが来てるぞ!」
「柵を閉めろ!」
「女子供は家の中へ!」
母の顔色が変わった。
「ヒュー!」
強く手を引かれ、家の中へ入る。
「母さん、どうするの?」
「こっちへ来て」
答えになっていなかった。外から獣の咆哮が聞こえた。直後、何か巨大なものが木柵へ激突する。――バキッ!木が砕ける音。悲鳴。怒鳴り声。剣を抜く音。
「母さん……!」
「大丈夫」
母はそう言った。けれど、ヒューの手を握る指は震えていた。二人は庭の隅にある古い物置へ駆け込んだ。母が床板を持ち上げる。その下には、暗く狭い穴があった。昔、盗賊が村へ来たときのために作られた避難場所だった。けれど、どう見ても、子供一人が入るので精一杯だった。
「ヒュー。ここへ入って」
「母さんは?」
「いいから」
「母さんも一緒に入ってよ」
「二人では入れないの」
母はヒューの肩をつかんだ。
「嫌だ」
「ヒュー」
「嫌だ!」
ヒューは母の服にしがみついた。
「母さんも入ってよ!」
外から、また咆哮が響いた。近い。母は一瞬だけ目を閉じた。それからしゃがみ込み、ヒューの頬へ手を当てた。
「大丈夫」
「嘘だ」
「すぐ迎えに来るから」
「本当に?」
「ええ」
母は笑った。震えているくせに、無理やり、笑っていた。
「だから、何があっても声を出してはだめよ」
「母さん……」
「約束」
ヒューは答えられなかった。母はヒューを穴へ押し込む。
「母さん!」
床板が閉じる。光が消えた。真っ暗になった。ヒューは両手で口を塞いだ。板の隙間から、ほんのわずかに外が見える。母の足が遠ざかっていく。ゆっくりではない。わざと大きな音を立てて走っている。
「こっちよ!」
母の声。直後、獣の足音が、それを追った。一匹。二匹。もっと。低い唸り声が近づく。ヒューは両手に力を込めた。声を出すな。母さんと約束した。声を出すな。
声を――
「きゃっ……!」
母の短い悲鳴。何かが倒れる音。
「母さん……」
口の中だけで呟いた。助けに行かなければ。そう思った。けれど身体は動かなかった。怖かった。死ぬのが怖かった。床板を押し上げることもできず、暗闇の中で震えることしかできなかった。
◇
どれほど時間が経ったのか、分からない。外では戦いが続いていた。男たちの怒鳴り声。女たちの悲鳴。泣き叫ぶ子供。獣の咆哮。木が折れる音。何かが倒れる音。そのすべてを切り裂くように、一人の男の声が響いた。
「まだ動ける者は、後ろへ下がれ!」
知らない声だった。若い男。ヒューは隙間から外を覗いた。傷だらけの冒険者が、村の中央へ走り込んできていた。鎧は裂け、左腕から血が流れている。それでも男は止まらなかった。一匹の魔物が、倒れた村人へ爪を振り下ろす。男がその間へ飛び込んだ。剣と爪が激突する。
「走れ!」
村人が這うように逃げる。男は魔物を押し返し、剣を振り抜いた。首から血を噴き出し、魔物が倒れる。だが、次の一匹が横から飛びかかった。避けきれない。爪が男の肩を裂いた。
「ぐっ……!」
男は地面へ転がった。それでも、すぐに立ち上がった。逃げ遅れた老人の前へ立つ。
「下がってろ」
「お、おぬし……」
「早く!」
魔物が牙を剥いた。男が剣を構える。腕は震えていた。呼吸も荒い。もう限界なのは、子供のヒューにも分かった。それでも、男は一歩も退かなかった。
「来い」
魔物が地面を蹴った。男も踏み込む。剣が閃いた。刃が魔物の胸を深く貫く。獣の巨体が、男を巻き込みながら地面へ倒れた。静寂が訪れた。しばらくして。
「……終わった」
誰かが呟いた。その言葉を合図にしたように、村のあちこちから声が上がった。
「助かった……!」
「生きてる!」
「俺たち、生きてるぞ!」
やがて、歓声へ変わっていった。
◇
ヒューは震える手で、床板を押し上げた。
「母さん……?」
返事はない。庭には血が落ちていた。一滴。二滴。赤い跡が、物置の裏手へ続いている。ヒューはその跡を追った。
「母さん……」
壊れた柵のそば。そこに、母は倒れていた。
「母さん!」
ヒューは駆け寄った。身体を抱き起こす。服は赤く染まっていた。
「母さん、母さん!」
「……ヒュー」
目が開いた。
「母さん!」
生きている。まだ生きている。
「今、誰か呼んでくる! 冒険者が来たんだ! すごく強い人が――」
立ち上がろうとしたヒューの手を、母の指が掴んだ。弱い力だった。
「ヒュー」
「なに」
「怒らないの」
「怒ってないよ」
「そんな顔……しないの」
「してないよ!」
涙が溢れた。
「だから、喋るなよ! 今、助けを――」
母は苦しそうに息をした。それでも、笑った。
「ヒューには……」
細い手が上がる。
「笑っていて……ほしいの」
その手が、ヒューの頬へ伸びる。あと少し。ほんの少しだった。けれど、届かなかった。手から力が抜ける。
「母さん?」
落ちる手を、ヒューは両手で掴んだ。
「母さん」
自分の頬へ押し当てる。
「ほら」
いつもみたいに。
「触れてるよ」
返事はなかった。手の温かさが、少しずつ失われていく。
「母さん……?」
胸も。もう動かなかった。そのすぐ後ろで。
「ありがとう!」
誰かが叫んだ。
「命の恩人だ!」
「おぬしが来なければ、村は全滅していた!」
「英雄だ!」
「本当にありがとう!」
「ありがとう!」
「ありがとう!」
たくさんの感謝の声が、村中に響いていた。助かった人々が泣いていた。抱き合っていた。笑っていた。そのすぐそばで、ヒューは冷たくなっていく母の手を握っていた。男が救った命は多かった。けれど、その手から、零れ落ちた命もあった。
「母さん……」
ヒューは母の身体へしがみついた。声は出なかった。
◇
やがて、一人の足音が近づいてきた。村人たちに囲まれていた、あの冒険者だった。
「英雄だ!」
背後から、誰かが叫んだ。男は足を止めた。
「違う」
静かな声だった。男の視線は、ヒューの腕の中にいる母へ向けられていた。
「俺は、助けを求める者を助けるために剣を持っている」
血に濡れた拳が握られる。
「なのに」
男は目を伏せた。
「救えなかった」
そして、ヒューの前まで歩いてくると、両膝を地面についた。泥の中へ、額を押しつける。
「お前の母親を救えなくて……悪かった」
ヒューは答えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。ただ、母の手を握ったまま。ずっと俯いていた。
◇
数日後。村では、犠牲になった者たちの葬儀が行われた。墓地には、土を掘り返す音と、啜り泣く声だけが響いていた。ヒューは母の新しい墓の前に座っていた。昨夜。母がいない家へ、一人で帰った。母の椅子。母が使っていた鍋。畳まれたままの服。空っぽの寝台。
そこで初めて。ヒューは声を上げて泣いた。
苦しかった。この悲しみを我慢できなかった。
もう母はいない。誰も帰ってこない。
声を上げて泣いた。
村を救った冒険者は、まだ残っていた。深い傷を負っているのに、壊れた家を直し、井戸から水を運び、怪我人へ食料を届けていた。助けられた者に感謝されれば、短く頷くだけ。けれど、家族を失った者の前では、必ず足を止めて頭を下げた。夕暮れ。冒険者が一人で母の墓へやって来た。一輪の白い花を置く。何も言わず。ただ墓を見つめていた。ヒューはその横顔を睨んだ。
胸の奥に押し込めていたものが、溢れた。
「どうして……」
男は振り向かなかった。
「どうして、もっと早く来なかったんだよ!」
沈黙。
「お前が英雄なら!」
ヒューの目から涙が落ちる。
「母さんも助けられただろ!」
長い沈黙のあと。男は言った。
「……間に合わなかった」
それだけだった。言い訳はしなかった。
「母さんを返してよ!」
ヒューは叫んだ。
「返してよ……!」
男は答えなかった。やがて静かに膝をつき。ヒューの隣へ座った。慰めることもしなかった。大丈夫だとも言わなかった。ただ、墓を見ていた。ヒューは男の横顔を見た。そのとき初めて、気づいた。この人も、救えなかった者のことを、忘れられないのだ。
◇
さらに数日後。村の復旧が一区切りついた頃。冒険者は荷物を背負い、村を出ていった。誰にも大げさな別れは告げなかった。ヒューは、その後ろ姿を追った。母を救えなかった男。けれど、傷だらけの身体で、最後まで村のために働いた男。なぜ追っているのか。ヒュー自身にも分からなかった。村の境界を越える手前。
男が足を止めた。
「ついてこないでくれ」
振り返らずに言う。ヒューは止まらなかった。
「おい」
男はため息をついた。道端に落ちていた一本の枝を拾う。剣を抜き。余分な枝を削り落とす。やがて一本の粗末な木剣が出来上がった。男はそれを後ろへ放った。ヒューは慌てて受け取る。
「何回振れば」
木剣を握る。
「お前みたいに強くなれる?」
男は少しだけ考えた。そして。
「強くなりたいだけ振れ」
「分かんないよ!」
「なら、分かるまで振るんだ」
男は歩き出す。
「おい!」
ヒューは木剣を両手で握った。
「俺!」
声が震える。それでも叫んだ。
「俺、お前みたいになりたい!」
男の足が止まった。
「今度は俺が!」
母の顔が浮かぶ。届かなかった手。冷たくなっていった指先。だから。
「守れるようになりたいんだ!」
長い沈黙。やがて。
「そうか」
男は、悲しそうに微笑んだ。
再び歩き出す。そして数歩進んだところで、背負っていた剣を抜いた。右手で、高く掲げる。夕日を浴びた剣が、赤く輝いた。ヒューは木剣を握りしめたまま。その背中を、いつまでも見送っていた。
◇
――十年後。風が、草原を渡っていた。村の外れ。母の眠る墓の前に、一人の青年が立っている。短い白銀色の髪。日に焼けた肌。そして、その背には、一本の剣があった。ヒューは墓石の前へ一輪の花を置いた。
「行ってくるよ、母さん」
あの日。母が最後に願った言葉を思い出す。――笑っていて。ヒューは静かに笑った。もう。無理に作った笑顔ではない。立ち上がる。母の墓へ背を向ける。そして、十年前に英雄が歩いたのと同じ道へ。ヒューは、最初の一歩を踏み出した。




