終章 遺す夢
フルマイの出現に分祀精霊の面面が驚いたのは、その正体が隠された内面そのものであることを知っていた。その正体を誰に広めていいものか考えたララナは、オトとの協議の末メリアにのみ共有することにした。
それから、魔団もとい言葉真国夫による一連の騒動が言葉真家の特異能力〈言霊・魔言〉によるものだったとの説明を受けた。これについては、娘など巻き込まれたひとびとにも伝えることとした。
星の海から居間に戻り、横座にようやくその主が戻ったのは、オトがしばし客座の座布団を撫でたあとだった。あるいはそこにも分祀精霊がいるのだろうか。感じ取れないララナは、あえてそれを見守り、問うことはしなかった。
オトに次いで鍋座に戻ったララナは個人的な疑問に話を移した。して、紐解いてみると案外簡単なこともあるものだと実感させられた。魔団騒動に際して湧いた疑問を二つに纏めてオトに問い、答を聞いたのである。疑問の内容を簡略化するならこうなる。一つ目が、偽りの太陽もどきに用いられていた不知得性魔力がなんだったのか。二つ目が、ララナは無自覚に不知得性魔力を用いていたか、だ。
一つ目の疑問への答は、言葉真国夫が持っていた魔言の魔力であり、今は言霊の魔力に置換しているとのことである。二つ目の疑問への答は、創造の力と対照的な〈破壊の力〉である。
「──順を追って話そうか」
「お願いします」
「振り返ればおよそ五〇年前、偽りの太陽の発生に費やされた人間が一万人と割り出せたのは人間の持つ不知得性魔力を羅欄納が感覚的に把握しとったからこそやな」
「そのときに気づくべき疑問でしたね……」
「自分に無頓着なうえ俺のことに集中しすぎて振り返るのが遅かった感が否めんな」
ララナはとことん鈍重である。
「不知得性魔力を知覚、つまり捉えられるのは創造神アースや一部上位の精霊などなど。簡単に纏めるなら転生体たる俺や羅欄納、感覚に差はあるものの音羅達もそう。また、星の魔力を与えられたメリアもそうね。それ以外のほとんどは認識できんし直接操ることもできん」
「不知得性魔力も魔力の性質を有する。不知得性魔力も引力を持ち、無魔力個体にも不知得性魔力が集まるのですね」
それを感ぜられるのは身近なところでいえばオトが示した人物のみということになる。
「そこで二つ目の疑問の答を掘り下げようか。羅欄納の最たる力は、平穏を祈願される分祀精霊とのやり取りには活かせん、すなわち、創造でも維持でも再生でもなく破壊を司る不知得性魔力だ」
「それを無自覚に組み込んでいたのが融断光ということですね」
「結界も障壁も問答無用で融解できる融断光は便利すぎるし、昔から不思議には思っとったんやろ。ただ、創造神アースの転生体ということで納得できたから詳しく知る必要に迫られんかったわけだ」
その通りである。融断光が武力として絶対であればよく、遍く疑問は創造神アースの転生体という一点で腑に落ちる。世界創造の神の力が宿っているのなら逆に破滅的な力を持たないほうが不思議、と。
「しかし答の深掘りが必要になった」
「はい」
不知得性魔力を意図して操ることができない不甲斐なさが大きな理由だ。
「分祀精霊の皆さんに想いを傾けるためには不知得性魔力の把握が必要です。その技術は合祀のバランスを保つためにも必要と考えました。メリアさんが星の魔法の練習をしているように私は自らが持ち得る不知得性魔力の操作技術を自覚し、高めなければなりませんでした」
「俺は教えへんかったけどね」
「それでもって私にはどうしようもないこと、と、結論してしまったのが現状なのですが、フルマイさんがいなければクムさんを助けられなかったかと思うとぞっとしないのです。オトさんの妻として分祀精霊の皆さんのことも迷いなく任されるくらいでなくてはなりません」
「気持は理解できるが、その答はであった当時に解せられたんやないかな」
「と、いうと」
「知得性・不知得性問わず魔力環境把握が得意なのは、そこにある環境との調和や不和を見越して何かを創り出す能力を持つ者、つまるところ、創造の力を持ち得た俺やからやよ」
曰く破壊の力を有している魂鼎。それを如実に示すのが融断光だ。魂器破壊を介すれば肉体再生が可能でも、それは魂器の性質を利用しているに過ぎず、魂鼎の力の本質とは異なる。直接的な再生や維持の力はララナにはないのである。また、調和など考える必要もなく根本的に不和・破壊を齎す力を持つ転生体であるから、魔力環境把握の能力でオトに敵うはずがないということだ。そのことを出逢った当時に把握していたとオトが言ったが、その点はララナも同意だ。魔物の命さえも守り得る命の平等という制約を掛けて信念を掲げたオトには魔力環境保全の意識が強くあって、ララナには真似できないほど優れた保全技術も培っている。魂器過負荷症の末期症状が顕れたときでさえ自然環境へ意識を傾けられた彼、幼い頃から分祀精霊の皆におもいを届けられた彼が、分祀精霊に関わるあらゆる仕事に適任。魂器由来の先天的性質と後天的に培ってきた意識の違いが相乗してララナとの大きな能力差となって顕れている。
「それでも……クムさんを、皆さんを、守りたいです。破壊が得意だからこそ、それにも負けない守るための力がほしいのです」
土台がなかったわけではないのではないか。そんな疑いも気持を強める要因だ。
「セラちゃんから話を聞き、凰慈さんの存在を知り、思ったことがございます。曰く巫女であり一種の未来予知を可能としたお母様。一方、お母様と同じような立場と力を持っている凰慈さんがいました。レフュラル裏国は、ダゼダダとゆかりがあったのでしょうか。それも、とても深いところ、ルーツにおいて」
「記憶の砂漠を調べてみようか」
それならば確実に答が見つかるだろうが。
「先人の知恵や遺物から窺い知ることこそがひとの営み。目の前のことに注力するならば、オトさん達との因果に思いを巡らせることのほうが大事です」
ひとの術を超えなければ得られない確証なら横に置いておく。
「お母様のことのみを取っても私は分祀精霊の皆さんとの関係を構築する素質があるはずでした。救いを怠っている。そう思えて、なおのこと……やりきれない気持なのです」
「助けようとする気持は大事やよ。クム達も、羅欄納のその気持は嬉しいと思う」
「すぐさまオトさん達のようにうまくできるとは自惚れられませんので、必要とする想いについてヒントをもらえたらいいのですが……」
「重ねてゆうけど、ひとには向き不向きがあって、中でも、生まれながらの下地はどんなに頑張っても変わらん。ただし、系譜や直接の親とかの大筋によるものばかりじゃない。個個の性質、個性にも左右されるんよ」
「分祀精霊の皆さんにおもいを傾けることも、個個の下地が関係しているということですか」
「ん。分祀精霊がひと一人に適合する可能性は極めて低く、おもいのやり取りはもっと難しくなる。創造神アースの転生体で巫女家系の末裔やった俺は幼い頃から分祀精霊の知識や魔力に関する技術を高められたからたまたま複数の分祀精霊との交流が成り立っただけ。酷なようやけど無駄な努力というが現実にはあるんよ」
同じ創造神アースの転生体でもララナとオトでは能力が対照的。オトと生まれが異なるララナは分祀精霊に関する知識に裏打ちされた技術習得と練度が全く足りない。決定的な欠点は、創造の力を持たなかったこと、また、巫女を務めた家系の子であってもその育ちになかったこと、この二点であろう。分祀精霊との繫がりを深めた系譜であることや自覚の有無を問わず関係を積み上げられる身の上であることが、交流のための大きな下地となるのだ。
「お母様の立場がむしろ稀有やったんやないかな。神たる分祀精霊を崇める側じゃなくて、王族として仰がれる側の出身やったから羅欄納は破壊の力と適合する部分もあったんやろう。無論、裏国の王族が破滅的思想を持っとったということじゃなく、王族たる者には破滅の将来を想定する意識や思考力が必要という意味でだが、平穏を一心に祈願する巫女の家系とは純度が異なる。家系の話を掘り下げるならララナの才能に関してはレフュラル裏国で既に明示されとったこともある」
「そうなのですか」
「一つ問題を出そう」
「なんでしょう」
「穢れを始めとしてこの世界には公然と存在を認められとる不知得性魔力の作用がいくつかある。その一つにレフュラル裏国で接したが、それは何か」
当時を振り返ってララナは答える。
「遺跡探索中に接した作用といえば、──負魔法ですね」
そう答えながらララナはオトが示したいことを察した。「負魔法とは、対象となるモノから魔力などを奪い取る魔法効果の総称で、実際の行為に置き換えるなら略奪や窃盗に当たるため違法です。また、魔法学会では術式として認められておらずまさしく魔法的な超自然的現象、と、いう曖昧な概念です」
超自然的現象として働くがゆえに負の作用はじつに強力でときに凶悪だ。
「私の融断光も略奪の魔法、負魔法の一種です」
「ララナの持つ破壊の力の根源は、ほとんどの負魔法を成す不知得性魔力〈生命の魔力〉だ」
「生命の魔力……」
名前のみを聞けば生命維持を司りそうなものだが、生命の本質は共存共栄ばかりではない。自然界のそれは主に淘汰で成り立っているのである。
「植物であれ生物であれ何かを取り込んで生きています。その淘汰的作用の根源を成しているがゆえに、生命の魔力はほかから奪い取る負魔法を成り立たせられるのですね」
「そういうこと。親世代、巫女の母方じゃなく恐らくは父方のほうがそれを使えたことが、ひょっとするとお前さんが融断光なり魂鼎の力なりを手にする要因になったのかも知れん」
「言霊を司る言葉真家や巫女の系譜である竹神家に生まれたオトさんが創造の力を受け継いだように」
「ん。創造的か破壊的か、下地には掛算的な部分もあるね」
自覚・無自覚を問わず下地は変わらない。経験が全くの無意味ではないとしても、系譜や親による才能の差は間違いなくあるのだ。
「融断光に並び、魂鼎の力も生命の魔力の作用ということでしょうか」
「ざっくりといえば。魂鼎の力はそれのみじゃなくほかの魔力も牽引する形で使うから一言には説明できんが、それ主体と思ってもらえば間違いないね」
「魂鼎の力ひとつ取っても、私は把握しきれていないということですね」
「そうね。まあ、創造神の力なんやから複雑なのは当り前で不知得性魔力の作用を一つ一つ分析するなんてのは人間の所業じゃないから気にする必要もない。仮にそれができたとしても、破壊的作用は変わらんし今のお前さんが欲することを叶えられるわけでもない」
オトが生命の魔力の説明をしてくれたのは、ララナの理解と納得を促すためであろう。
「諦めが肝心、と、いうことですね」
「その言葉が暗示するのは」
「次の思考を深める大切さです。私には何ができるか、と……」
「それが羅欄納だけの強み。ただし、固執する必要もないよ。俺ができることだって分祀精霊におんぶに抱っこで手近なひとを守ることくらい。ただ、そうゆう小さなことほど、手の内にあっても気づかんもんやな」
聖水を入れる小瓶を作りながら話していたオトが、ララナを瞥て笑った。「俺は、羅欄納のそうゆうどんくさいところが好きなのかもね」
「……」
貶した感のない言葉。それはつまり、ララナが既にオトに匹敵する強みを持っているということだろうか。
「これについては答を教えるよ。焦らすことでもなく伝えたいことやから」
「……、はい」
「破壊の力を持って生まれたとしても、歩み寄ろうとする気持を培ってくれた。心の底に手を伸ばして手放さずにいてくれると信ぜさせてくれた。それが、羅欄納の下地の強さやよ」
ララナはオトに釘づけになった。その心に住み続けるひとを瞥たかのように。それに、生まれ故郷の全てを失った身で突き進んだ戦争とその末路、あらゆることがララナの今を支えていると彼はやはり認めてくれたのだから。
「オト様──」
「ダメだこりゃ」
「っん、意識しているつもりなのですが、長年の癖がつい……」
「っふふ、いいんやない、言葉が変わっても気持は同じ。叔父さんや言霊に関する報告は済んだし、帰ったらすぐにしようと思っとったことを、もう二つ、しようかね」
「二つ。なんでしょう」
「白状とケア」
オトが、まずは白状をした。それは旧友との関係改善に至った日、仔ウサギに関する会話で堤端総に伏せたことだった。
「七歳当時、早く大人になりたかった。総にはそんなふうにゆった」
「異なるニュアンスがござりましたか」
「本当のところ……子どもがほしかった」
「子ども。その当時ということは──」
山田リュートとは出逢っていない頃なので、学と友人関係になって間もない頃としか考えようがない。
「学さんとのあいだにですか。それは……」
「自分の性の相違は理解しとったよ。大人になったところで、同性同士で子が作れんことも。けど、大人になれば、それを覆すような踏み込んだ研究ができると思った」
「仔ウサギへの実験は、その手の研究者の目を集め人材を確保するためでしたか」
「国のお墨付きで研究所が建てば上上、なんて楽観しとった。お母さんが教師に呼び出されて叱られてお終い、それが現実」
学園の体面を保つ意味もあるだろう、オトの実験結果は学園内で処理され拡散しなかった。無論、ララナが訪ねた教員なども語れるわけがない事柄だ。オトの見立て通り人材不足で頓挫した研究は、肝心の性転換魔法へ辿りつくことがなかった。
「俺の成長促進は糸主に施した魔法なんかも組み込んどるから余計に倫理的問題を孕んどる」
「デザイナーベビに近く外見や知性の操作となれば……」
魔法研究に熱心なレフュラルや力を追い求めて侵略を繰り返してきたテラノアとは異なり、自然との共存で成り立ってきたダゼダダでは受け入れられそうもない研究だ。
「と、まあ、話を戻せば、子ども云云の理由はさすがに総にはゆえんかった」
「私に告白されたのは」
「過去も知った羅欄納に白状したいかも、とね」
「メリアさんに伝えてもよろしいですか」
「勿論」
フルマイの正体を知っているなら問題ないということだ。
「オトさんは、成長がとても早かったのですね」
「置き去りにしたものが多すぎて俺自身も忘れとることがきっとある。それとは別に羅欄納の遅さを取り上げながらの体たらく、見逃しが俺にもあるよ」
それはなんだろう、と、ララナが首を傾げると、オトが口を開いた。
「やりたかったことのもう一つ、ケアに関わることね。疑われるようなことばかりして猜疑心を植えつけてまった弊害といえばそうなんやろう、それを認めた俺自身の驕りもある、羅欄納が爆発した原因のことだ」
音羅を取り戻せず特殊空間で感情を爆発させたときのことだ。
「あれは、オトさんも言うように、疑うことを常態化させていたことが原因の、自損事故のようなものですからお気になさらないでください」
「いや、過去を打ち明けた今、またきちんと謝っときたい」
オトが機微を語る。「噓をつくことで、逃げることで、傷つけたくない自分の大切な部分を守ろうとしてきた。そのために嫌な自分を作り上げることもしてきた」
他人の人格、それも凶悪な人格が突然に覚醒して自身と共存したことへの恐怖心は大きなものだったに違いないのだから、創造神アースとの意識共有による弊害がある。が、魂器拡張手段の選択肢を潰すための娘への教育を施す上での態度も、彼は言っている。
「俺は、そんな自分を、いつの間にかすっかり本当の自分のように思い込んどった。虚像の俺は、俺が嫌った人間を一部分ずつパッチワークしたような存在やった。叔父さんと正面から向き合って、それがはっきりと判った」
魂器過負荷症寛解手段を得た今、痛みを伴う扮装は要らない。オトはそうして本当の自分で存ろうとしているのだろう。真正直でまっすぐで家族想い、ララナ達がずっと感じてきた愛すべき彼の中核部分を、切り離したフルマイのような自分を、オトは全面に出そうとしている。
ララナはそれを歓迎したい。家族もそれを望むだろう。だが、
「オトさんが変わっても、私達が猜疑心を打ち消すには時間が掛かります」
オトはオトだ。間違いや過ちは人生について回る。罪の過去を受け入れてくれた彼がそんなことを理解していないはずがないから、ララナは、ここは、厳しくする。
「オトさんが幾度も仕掛けた試験のように、今度は私達が試験する側です。取り戻すべき自身を取り戻し続けられるかを」
「俺は幸せやね。機会を与えてもらえた」
「その幸運でもって結果は出たようなものです」
「そうかね」
「機会を与えるということは、可能性を信じているということです」
そう信ぜさせてくれたのは虚像を纏ったオトでさえ打ち消しようのない優しさや愛をずっと伝え続けていてくれた。
「ですから、辛抱強く待っていてください」
「厳しいね。そんで、優しいね」
微苦笑の彼に、ララナは微笑み返した。
「常態化は私達に取っての逃げとも考えられます。正当化するわけではございませんが、いいではございませんか、時には逃げの一手でも。何も間違わずに歩むことは不可能です。拗れた部分があれば見直しましょう。幸せのあり方もそれへの歩み方も多様です。何を傷つけたとしても、再び踏み出すことが大切です」
「……ケアするつもりが逆になってまっとるな」
「よろしいのでは」
「その心は」
「一〇歳までに育んだご自身を取り戻すようなものです。そのときも欠けていた部分はたくさんあったことでしょう。少年・少女の心は、文字通り幼いのですから甘えてください」
「出たね、年上マウント」
「年上は事実です」
「真顔。……っふふ、まあ、そうゆうことにしとくか。それに、ケアは時間が掛かる。長い長い試験がケア、合格したときがケアの完了と思えば成長できる。試験の意義は篩であり気づき」
「つまり、新たな道へ踏み出す気持、気概を育むことです」
「と、まあ、いろいろ修飾したが、要はこうやな。さっきもゆったように、言葉を換えても気持は変わらん」
「はいっ、その通りです、オト樣」
「どさくさで永様にすな」
「それでも気持は変わりません」
平等の感性・意識が強い彼に最もそれを求められていたのは自分なのだ、と、つい先日、遅蒔きに気づいたララナである。彼への尊敬に変りはなく、繊細で複雑な心に寄り添うことができたのだから敬称はなんでもいい。
……ひとを信ぜられなくなった孤独の理由。
いつか竹神銓音から聞いた秘密は、恐らくはジェンダに関する諸問題を早くから抱えていたこととそれを起因としたあらゆること。今は、彼と彼の周りが変わりつつある。昔のように孤独になれない。周りが孤独にさせない。
……オトさんがなんであろうと、私は、私の速度で支えるのみです。
「さて、俺からのケアとは別にして、クムを助けてくれたフルマイへのお礼を日日しとったことも踏まえて、羅欄納の気持が敬愛であるなら、それを形にして示す方法があるね」
「(機会が早速。)はい。おやつの時間を愉しみにお待ちください」
いつも、どこでも、どんな気持でも、彼に伝えるためにお菓子を作る。それもまたララナができることであり、したいことだ。
アクティブでポジティブなフルマイが去りネガティブまっしぐらの父が戻ったことで以前の日常が戻ってくる。皆の胸にその確信が湧いたとき、音羅は父から一通の封筒を受け取った。
差出人の記されていない封筒は音羅宛であること以外が詳細不明だ。家族会議やメリアの迎え入れが果たされ、特にダゼダダで暮らす向きの娘もいないということでサンプルテを引き払った父が最後にポストを覗いたら入っていたものだというから音羅は少しどきっとした。学園時代の友人や仕事関係者にも神界移住のことはまともに話していなかったので、惑星アースこと人間界での音羅の行方はほとんど蒸発に見えたことだろう。そんな音羅を心配したみんなが封筒に捜索の旨を記しているのではないかと思ったのである。
が、想像とは全く異なる内容に音羅は驚かされた。
〔腰が抜けた場所。
憶えてたらあそこへ来てほしい。〕
差出人には察しがついた──。
「パパ、これがいつからポストに入っていたか判ったりする」
「そうやね、魔力環境的にはつい最近な感じ」
「具体的には」
「一日も経ってないね」
「ありがとう、ちょっと、ごめん、急いで行かなきゃ……!」
音羅はそう父に断って母を頼り惑星アースへ特異転移した。
ダゼダダ警備国家中央県田創町、いまや空き家の元自宅たるサンプルテから北へ走って第三田創魔法学園高等部を横目にさらに北へ走って辿りついた。そこが、指定の場所。あのときは夕焼けだった。今は真夏の太陽が照りつけている。どこにでもあるような歩道橋だが、腰を抜かした場所といえばここしかない。手紙をくれたそのひとが、腰を抜かした場所だ。
「……知泉さん」
「音羅さん……。……」
碌に言葉を交わすこともなく沈黙し合ってしばらく固まった。長年ともに暮らせなかった両親を想ってダゼダダを離れ、そこにいるはずのないひと、それが知泉だった。そして自分達が生まれる前から相容れなかった国の境目を越えたために二度と会えないはずだった。
知泉はばつが悪そうな顔だった。
音羅も口が開かなかった。知泉の内面に触れて確かに友達になれたはずのこの場所から数十年後、友達らしい言葉を贈れなかった悔やみが受け流せなかった打撃のように胸にある。
やがて欄干に手をついて西を見つめた知泉に、音羅は並んだ。
呼び出した知泉からきっと話がある。内容はダゼダダにいる理由だろうか。それとも別のことだろうか。踏み込むべきか。待つべきか。
「……らしくないや」
「──」
「(……うん、)知泉さん、こんにちは。久しぶりだね」
音羅は知泉を振り返って、湧き上がる気持を正直に伝えた。彼女がここにいる理由は判らない。港から姿を消したあのあと、ひょっとするとダゼダダを離れることなくどこかにいたのかも知れない。そうではなかったのだとしても、──どうでもいいことだ。
「また会えて嬉しいよ」
知泉を見つけて音羅は素直にそう思った。手紙が知泉のものと解ったとき、会える予感に胸が躍った。友達ではないと言われても嫌いと言われても何を咎められても構わない。
「話があって呼び出してくれたんだと思う。でも、話がなくてもいいよ。言葉を交わさなくても同じ場所にいる時間が、貴重だ」
「……変らずいい子だ、音羅さんは。責めてくれてもいいのに」
「いい子ではないかな。ただ、責めることなんて何もないんだ。また会えた。これがどんなに貴重なことか、知泉さんと会えなくなってから知りすぎた気がするんだ」
「……何か、あった」
「うん、じつは、魔物の襲撃があって、──」
「──。花さんが……。そう、そんなことが……」
ことごとく死別した。志や生き様、みんなの魂がこの世界にたくさん遺っているのだとしても、遺してくれたひとと顔を合わせることが叶わない現実が、音羅はやはり寂しいのだ。託された魂を語り継ぐことに躊躇いがなくとも、こうして生きている知泉と対面できたことの悦びは代えがたいものだと感じたのだ。
「あと、単純に自分が生きているのも今はちょっと奇跡的な感じがしているんだ」
「え」
「かくかくしかじかで」
「会わないあいだに音羅さんまでそんな目に……」
テロの真相はじきに国から公表される可能性が高いと聞いたが、音羅に取っての大叔父に当たるテロリストに連れ去られていたとはさすがに言えない。ので、ちょっとした結界に閉じ込められたり怪我をしたり、と、ざっくり伝えて知泉との会話のきっかけにした。
「だからね知泉さん、わたし、本当に嬉しいんだよ。毎日会えていた頃は、こんなに貴重なことだとは思っていなかった……。文也さんのことで、いつ会えなくなってもおかしくないって学んだはずなのに、それでも身に迫ってはいなかったんだと思う」
「……うん、本当にそうだー、貴重だ、こういう時間って」
と、知泉がうなづいて、ようやく音羅と向き合った。「……ごめん、こんなふうに呼び出して。いっそ、会えないほうがいいと思ってたから、日取りとか決めずに、届くかも判らない手紙で適当に呼んだ」
知泉の言葉は、その昔ここで聞いたときのように複雑な心境を写し取っている。一聞にはその心を酌み取ることが難しくて、考えるのが苦手な音羅は嚙み砕いて理解するほかない。
「また会えて、知泉さんは嬉しくなかった」
「……嬉しい。ただ、会いたくなかったのも本音。でも、それは言ってみれば、躊躇い」
「躊躇い」
「脚が重い感じ」
「そっか……」
結果的に、互いに突き放した恰好の別れ方をした。それが互いに本意ではない部分があったから、苦しくて、悔やんでも悔やみきれなかった。また会える。そう判った途端に、別れの重さが脚に纏わりつくことは音羅にもあったかも知れない。
呼出しによる再会は低い確率の出来事だ。音羅が相手だから脚が重くなったと知泉は言ったが、ほかのひとならどうだろう。
「虎押さんには会ったの」
長年付き合っていた恋人だ。半ば婚姻関係のように観られていた中で失踪し、強引に関係を終わらせた。知泉はそう思っているに違いない。が、
「虎押さん、知泉さんのこと今も捜しているよ」
「……」
「会いに行かない。必要なら、わたしもついて行くよ」
「ううん、要らない。一方的に別れたあたしが復縁を迫るのは、無理、都合がいい」
「知泉さん……」
微苦笑の知泉が足下を行き交う車両を見るように目を流していた。その表情は、
「あのときと同じ顔をしているよ」
「っ……」
「引き留めてほしかった、って、言ってくれたあの日と同じだ。本当は会いたいのに、会いに行くのは身勝手だ、って、本音を押し殺している顔だ」
「……うん、そうかも……あはは……」
手を差し出す知泉。音羅は、震えるその手を取って、両手で包んだ。
「あんなこと言って別れたくせに、ひどいこと言ったくせに、音羅さんに甘えてる。ごめん、あたし、この年になっても全然変わらない、馬鹿だなー……」
「ううん、馬鹿なんかじゃない。誰だって恐くなるよ。それは、そうだ、相手の気持を裏切ったって感じているから。知泉さんを引き留められなかったときのわたしも、同じように震えていた。力が入らなかった。踏み出せないような気さえした。でも、会える予感がしただけで、もう、どうでもいいと思ったよ」
「音羅さん……」
「もうどうでもいいんだよ、こうして会えたから。そのくらい、大切なんだよ」
それが音羅の気持だ。きっと虎押もそう思ってくれると信じている。けれどもそうは思えない知泉の気持も解ったから音羅は言葉を尽くす。
「別れなくちゃいけなかった理由があった。その理由に一番苦しんだのは、一人でそれを抱えるしかなかった知泉さんだ。その苦しさを虎押さんなら解ってくれる。自分で伝えるのが難しいならわたしも伝えるよ。それでもし虎押さんが及び腰になるなら二人で一緒にご飯を食べに行こう。わたしでよければ愚痴でも悪口でもなんでも、いくらでも聞くから、だから、会いに行こう!」
「──音羅さん」
ぎゅっと握り返す手を感じて、音羅は知泉に微笑みかけた。
「大丈夫。恐くても、一人じゃない。一緒にいるから。ね」
たんぽぽ園を観るのを躊躇っていた背をそっと押してくれた相末学のように、音羅は知泉の歩みの助けになりたい。
その気持が伝わったことを、両手に感じた。自分の手を包んだ音羅の手を、さらに包み込むようにして知泉が両手を合わせて、決然とうなづいたのだ。
列車に揺られて隣町に到着、緩やかなカーブを描く山道を歩いて雛菊家を訪ねた音羅は、出迎えた虎押を近場の神社へと招いた。その昔に兄鷹押らとともに祭で訪れたと虎押が言っていた場所であり、知泉を待たせた場所である。
知泉の姿を見るのは失踪から約一年半ぶりのこと。音羅がそうであったように虎押が駆け寄って、音羅以上に情熱的に知泉を迎えたのはいうまでもない。
「音羅さんいるから、離れて、離れてー」
「知るか、馬鹿!」
恥ずかしがりながらも嬉しそうな知泉と放す気配がなくなった虎押を、音羅は心底抱き締めたくなって、そこは怺えた。
……よかったね、二人とも。
二人きりにしてあげようとこっそり後退したが、木の葉を踏んで知泉の視線が刺さった。
「こらー悪口でも愚痴でもなんでも聞くって言ったのに逃げたらダメ〜」
「えっ、そういう意味の離脱じゃないんだけれどっ──」
それがまた知泉らしい建前であることを酌んで、虎押を振りほどいて駆け寄ってきた知泉に押されるように神社を出た。そのまま山道を下流へ向かって歩くと、すぐに脚が止まった知泉が音羅に抱きついて顔を伏せた。
「ごめん、なんか泣きそうで……ごめん」
「ううん、いいよ──、そのままでいて」
神社から駆け出てきた虎押をジェスチャで制した音羅は、知泉が感情を治めて息を整えるまで背中をとんとんしてあげた。そのときには虎押も察して、背中を向けてくれた。
目が少し赤い知泉が改めて虎押と二人きりで話して、音羅を駅まで送ることになると、一度あったことを虎押が気にしないわけもなかった。
「ちゃんと帰ってくるよな、もう、急にいなくなったりしないよな」
「ついてくるなら今度は本当に帰らないー」
「……心配しているんだからな。そのことだけは、頼むから、疑わないでくれ」
「……うん」
結婚していてもおかしくない年齢で、犬も食わない痴話喧嘩をするとまで周りに言われていた二人だ。それでも、二人にしか解らない微妙な距離感がある。その距離感を確かめて歩み寄るようにうなづく姿に、音羅は少しだけ緊張して、やはり、嬉しかった。
……きっと、二人なら大丈夫だ。
離れても離れない。気持を向け合っていて、また手を取り合える未来を心から望んでいる。そう伝わってきたから、嬉しくて、安堵した。
虎押を遠目に並んで歩く下り坂で、知泉がやにわに感謝した。
「ありがとう、音羅さん」
「虎押さんとの再会のことなら、あとで直接、虎押さんに言ってあげてね」
「うん、それもそうなんだけど、それだけじゃない。重い脚を動かせたのは音羅さんのお蔭だったから。ありがとう」
「──どういたしまして。知泉さんを熱心に捜していることを知っていたから、やっぱり虎押さんのお蔭でもあるよ。それに、知泉さんのお蔭でもあるんだ」
「あたしの……」
「第三田創で一緒に学んだ仲間で、今もまだ友達だと思っている。それで、ずっと友達でいてくれたら嬉しいなって、思うから。あのときは引き留められなかったけれど、やっぱり、その関係を手放さないように頑張りたい、と、思えた。知泉さんがいなかったらきっとこうは思えていない。いろんなこと、正直に打ち明けてくれたお蔭だよ。ありがとう」
引き留めてほしかった知泉と同じように複雑な気持を自分も抱えていたのだと振り返って、関係を手放すように神界へ移住した自分も省みて音羅はそう思うのだ。
「音羅さん……」
「知泉さん──」
「やっぱりいい子だ。優等生だ〜、あたしには無理〜」
「えぇっ」
「冗談〜」
知泉がにこにこして、音羅が気になっていたことを話した。「音羅さんは知らなかったみたいだけど、つい最近三大国が平和を約束して、別の国に移住できるようになったんだ」
「っ、それって、越境だけじゃなくて──!」
「うん、こっちに来られるようになっただけじゃなくて、ちゃんと住めるー」
そう言った知泉が苦笑したのは、「そもそもあたしは不正に出国したから公的にはダゼダダにいたことになってて、変に特別待遇でこっちに渡ってきた感じ」
「特別待遇」
「テラノアの国王さんがじきじきにお見送りしてくれて、」
「えっ」
「ダゼダダのエライ人の指示で動いてるっていうゴツいスーツ達に護送されてきた」
「な、何それ、なんか恐い!」
「でしょ。『ここからは自由ですよ』って言われたけど、あたしもしばらく汗出てた」
と、脇をぱたぱたする知泉。ひょっとするとテラノアのスパイと疑われて監視されていたりする(?)音羅はそう考えもしたが知泉との再会後からずっと怪しい気配を感じていない。
……ダゼダダもテラノアも、知泉さんの扱いを雑にできない理由があったのかな。
ダゼダダは体裁の悪い不正出国の事実を黙認する替りに知泉の身柄を丁重に扱い、テラノアはスパイが国外で子を成していたことを隠すために国王が直接対応した、とか。
「(あいや、)ここは、前向きに捉えたほう得かも。三大国が平和になったなら知泉さんのお父さんも勿論──」
「そうなんだー、だから港でのあたしの決意とか悩みとか、なんだったんだー、って感じないでもなかったんだけど……」
知泉がふうっと嘆息して、ぱっと笑った。「音羅さんが言ってくれた通りだ〜、もうどうでもいい。これからはお母さん達が自由に会える。あたしもこっちに住めて……ちょっと、告白はしなきゃだけどそれもきっと、虎押君なら──」
受け入れてくれる。そう信ぜられるくらいに虎押の心配が伝わった。駅が目前に迫り脚を止めた知泉が、ほとんど山道を振り返った状態で音羅に告げた。
「また会おう、音羅さん。そのときは、みんなの期待通りの報告するから〜」
「──うん、また会おう!」
ちらと満面の笑みを見せて駆け出す知泉に手を振って、音羅は寸時、瞼を落とした。
「よかった……みんな、きっと幸せになれるね。争いのない平和な国国で、自由に暮らしていけるんだ」
そのときボワッと火の粉が散って音羅の肩に手乗りなプウが現れた。
「虎押さんのところで出てくるかと思っていたよ」
「邪魔者扱いするからあいつはあまり好きじゃないが、会いたいひとと再会できるって知っていて出ていくのは悪いだろう」
「空気を読んでくれたんだ」
「そのくらいおれにもできる」
「お米好きだから気は合うと思うんだけれどね」
「得手・不得手や苦手意識と好きなものの共通点は別問題だ」
「プウちゃんが賢いことを言っている……」
「姉を譲る気になったようだな」
「それとこれは別問題だ、たぶん!」
「音羅がアホなことを言っている」
「別問題だよ、別問題っ」
姉を譲る気はない。「ともかく、──帰ろう」
「……」
知泉の姿が見えなくなると、愉しげに話し相手となってくれたプウが尻尾で音羅の首の後ろをとんとんした。
「決意したみたいだな」
まじめな声だった。
「解るんだね」
「解るに決まっている。キョウダイで、双子みたいなものだ。おれの感覚を言えば、おまえの考えは筒抜けだ」
その言葉の裏づけをプウが口にする。「音羅が生まれた頃からどこかで敵対的だった三大国で同時にテロがあって情勢は拗れに拗れるはずだった。それが魔団を葬って間もなく平和になった。できすぎている」
「プウちゃんは、どう思う」
「感情論かきちんとした考察か、どっちが聞きたいんだ」
「こういうときも空気を読もう。簡単に、感情で答えてくれたらいいんだよ」
「それもときには難しいんだが、そうだな……事実を搔い摘まむなら、各国とパイプを持っていて今回の事件の中心にいたのはパパだ。そのパパが曰く駆引のためテラノアへ渡っていたこともまた事実だ。魔導電力発電所テロ実行の件もある。それに何より、不知得性魔力、それによる原始魔法や特異能力、現代魔法学じゃ全く及びもつかない力やその根源に幼い頃から気づいて磨いていたパパが、世界情勢においても公に未確認の事柄を認識して対処して回っていたとしてもなんの不思議もないのが現状で──」
「感情論はどこだろう」
「充分に感情論だろう。事実を基にしてもほとんど推測なんだからな」
「そういうのを小難しいって言うんだよ」
「おまえが馬鹿すぎるだけだろう」
「お姉ちゃんは妹に馬鹿なんて言わないよ」
「妹に馬鹿と言われていた自覚があったんだな、オドロイタ」
「なんかひどいっ」
「ついでに夜月ちゃんは刻ちゃんを馬鹿馬鹿言っているから音羅の言葉は正確じゃない」
「なんか本当に賢い……」
「ずっとこうだった。おれの言葉が聞こえるようになって妹の自覚が湧いたようで感心だ」
「いいいいやまだまだ!」
「何が。どこが姉だ。言ってみろ」
「わ、わたしが姉だから姉なんだよ!みんなの姉だからプウちゃんが妹!うん、簡単!」
「感情論のお手本だな。参考にしてみるか」
「例えばどう参考にするんだろう」
「おれが姉だ。だからおまえは妹だ。これで決り。問答無用」
「オウム返しをしただけみたいに聞こえたけれど、どの辺りを参考にしたのか聞かせて」
「馬鹿っぽいところ」
「なんかもう、めたんこひどい……」
販売機で切符を買って改札を抜け、田創町へ向かう列車を待つあいだ人気のないホームでプウと話していたら、音羅は少しだけ気が紛れた。
「その調子だ」
「……気軽に話せばいいかな」
「ああ。音羅が理路整然と話すことをパパは求めたりしない。おまえがおまえらしく、感情的に話すことを望んでいる。おれはそう思う」
「──うん、解りやすい」
母にも妹にも、誰にも言えなかったことがある。プウがきっと察しているそれを、父に話したい。自分で抱えきれそうにないのに、ひとに丸投げできないことを。
線路の奥から列車が顔を覗かせたとき、プウが言った。
「いつだか、パパが言っていたな。積み重ねた行動は信じられると」
「……」
「おまえがある種、自分のそれを疑っていたのは知泉のことではっきりした。だからってそれまでの行動の全てが否定されるわけじゃない。それを忘れるな。ぶれぶれだったときも確かにあったが、それでもこうやって立ち上がって歩いてきたんだ。その自分を信じて、頼れ。おれは勿論だが、パパも悦ぶはずだ」
同じような非力を感じて一緒に修業したプウにそう言ってもらえて、音羅は心強かった。頼ることは恥ではなく、間違いでもなく、ときにはひとを助けることにもなるのだと。
「ありがとう、プウちゃん。じゃあ、こっそり傍で聞いていてくれる」
「お安いご用だ」
火の粉を散らせてボワッと消えても、すぐ近くにプウの気配を感ずる。
……気合を入れて。でも、肩の力を抜いて。
深呼吸に合わせるようにホームに滑り込んだ列車。空気の抜けるような勢いのいい音を立てて開いた扉を認めて、音羅は踏み出した。
……行こう!
子時代には、たくさんの夢があった。
一〇の指から作ること。
一〇〇の関わりを持つこと。
一〇〇〇の和を築くこと。
一万の魔法を創ること。
一〇万の挑戦をすること。
一〇〇万の世界を渡ること。
一〇〇〇万の花の観ること。
一億の夢を救うこと。
最上の魔術師に、なること──。
子時代にはあったたくさんの中からたった一つしか掌に残らなかった夢は、別の夢を湧かせていた。そのために子時代の夢を再び見ることになった。
一億の夢を救えず、一〇〇〇万の花を観られず、一〇〇万の世界を渡れず、一〇万の挑戦ができず、一万の魔法を創れず、一〇〇〇の和を築けず、一〇〇の関わりを持たず、一〇の指で作ることしかできなくても、支えてくれる家族を見つめ包む一枚を遺せたらどんなに幸せだろう。
神童、天才、悪童、化物、ひとからどう呼ばれても、バナナの葉っぱを葺いた屋根を自称しても、結局、血には抗えない。それを祀り、それの恩恵を受けた一つの波長として、オトは、ようやく素直さを得た。後ろ前向き。ひとによっては逆に解りやすい性格だった自分を全面的に否定したわけではなく、羞恥に赤らんだ頰を隠すように俯きつつも過去を引き摺って未来へ根を張れることに悦びを覚える。真正面や天上が見えずとも、太陽や月の光や真正面から吹く風を足許に観て、今日も世界は明るくて暗くて暑くて寒いのだと受け入れられる。
しかしながら──、回避しようのない未来を素直に受け入れることはやはり難しく、やっておかなければならないことがある。数としては多くない。掌に残らなかった子時代の夢に比べれば難題でもない。
「──ちょっと待って」
居間を通りかかった娘を呼び止めた。話を聞くため座ろうとしたのは納雪だ。立ったままでいい、と、手短に話すことを示したオトは他愛のない雑談のように切り出した。
本当は深刻な話だった。きっとそればかりではなくなる出来事。主観と感性で低彩度に塗りたくると夢を潰してしまう。深刻な話だ。が、その先に幸せがあると信ぜさせたいから、
「棄てんような紙にメモしてくれるかね」
「メモ、ですか」
「ん」
作ったのでもない、自然と零れた至上の笑みで伝えた。
「九九年一月一日、って、書いて」
「きゅうきゅうねん」
「おかしなことに火曜日でもあるやろう、下二桁に九が並ぶ年の一月一日のことね。〇〇年一〇月二六日の可能性もあるが」
「う〜ん」
「一月一日の、わかりやすいほうだけでいいよ」
「はい」
理解できまい。理解しなくてもいい。霜の観察のために今日も持ち歩いているスケッチブックの端に、言われた通りに文字を書き記した納雪に、オトは続けた。
「その年月日が終わるまでのことを、後の一〇〇年に届ける気持で書き記しておいてね」
「どういうことですか」
「意味は、解らんかったらそれがいい。杞憂ならそれがいいからね」
「きゆう、きゅうきゅう年……」
「いつか解るかも知れんし解らんかも知れん。解らん未来を俺は望みたいが、もし解る未来が来たときには、書き記したことが幸せを運んでくれるはずやから」
今のは書き記す必要がない言葉だったが凄まじい速さで書き遺せた納雪に運命に立ち向かう逞しさがあることを信ずるに吝かでなく、不要だったはずのメモが言霊となって家族を支えることをオトは願う。
「これは、将来のわたしに向けた手紙みたいなものですか」
「学園でもよくやるヤツやな。呼び止めて悪かったね、今日も気をつけていってらっしゃい」
「あ、はい、いってきます」
観察へ向かう軽快な足取りを聞き送って、
「先程のは」
と、キッチンから訪れたメリアに、オトは答えた。
「ちょっとした燈を託したんよ」
少し前のこと。物語を聞かせていたとき、
──マスブラックさんやヒュージさんは記憶が──。
納雪がそう言ったことを、オトは忘れられない。物語の真意やキャラクタの状態を正しく読み解いた意見ではなかったからだった。
設計者たる者でも全てを見通せない世界だ。杞憂ならそれがいい。むしろその確率のほうがきっと高いのだ。けれども、確証の有無に拘らず予想や予測が当たってしまうのが仮に自身の設計であるなら──、直感を信じて手を打っておいて悪いことにはなるまい。今までもそうしてきて、どうにかこうにかやってきた。これまでもそうして、どうにかこうにかやってゆく。
(創造神アース)
(頼みの件に進捗があったか)
(そろそろ動こうと思う)
(用事とやらは済んだのだな)
(まだ終わってはないけど、情報待ちのこともあるからそれを除けば併行できる)
(手を抜くでないぞ)
(誰に言っとる)
(変らず時を待とう)
(素直やよし)
創造神アースの人間転生時の生活や家族のことを調べる。その約束を果たすことを、オトは忘れていない。
摂理そのものともいえる創造物の破壊。為すべきことが情報待ちでストップしているから、創造神アースの意図を根本から正すための行動のほうが優先度が高い。
創造物の破壊について共有したララナや設計に苦しめられたメリアにも創造神アースとの良好な関係を伝えていないのは、いつ暗転してもおかしくない。メリアの狂気に絶対的な結論と終止符を打つまでララナの養父母との連絡を内緒にしたこととさして変りない。みんなが不安をいだかず平穏に暮らせるなら隠し事や噓をつく苦しみに堪えられる。視点を変えるなら、フルマイはオトである、と、ララナやメリアが娘に伝えず済ませてくれたことと同じだ。オトの平穏を乱して望みを絶つような選択を避けてくれたのである。
守ろうとしてきたものが揺らぎ得るならララナやメリアは動くだろう。オトも、自分にできることで動く。このところ恒例となっている小瓶作りだ。
お茶を届けた足で家事をこなしてゆく良妻賢母に感謝して、届けられたお茶と炭の穏やかな香りに融け込むように小瓶作りをした。
昼過ぎ、惑星アースへ飛んでいた音羅が帰ってきた。言葉真本家から帰宅後しばらく音羅は睡眠リズムに乱れがあったがフルマイが逗留した間に少しずつもとの生活に戻っている。帰ってきたときにはその空気があったが、うがい・手洗いを済ませて居間に再び現れた音羅は優勝が懸かった試合前のような神妙な面持であった。
「……パパは、もう大丈夫」
「心乱した魔法に観えたん」
「ううん、観えない」
失った痛みと表現しよう。音羅は認識していなかった共感をオトは音羅に覚えている。
「心を落ちつかせるために使う時間の長さはみんな違うから、焦らんようにね」
「……パパは、本当にもう落ちついているの」
「それにはもう答えた」
それを聞いた音羅がヴァイアプトを一瞥してオトを見つめた。普段音羅は誰がいても気にせず、聞かれて困るような話はタイミングを見定めようとする。が、今はひとの都合より話すことを優先したいようなので、オトはヴァイアプトに断っておく。
「悪いけど、少し退室してもらうわね」
わざわざそうしなくても話を聞かれないようにする手段はあるが、誰もいないほうが音羅の性格的に話しやすい。居間を照らしてくれる一八株のヴァイアプトをオトは特異転移させた。
囲炉裏の炭のみがぼんやりと照らす居間。しばし瞼を閉じて耳を澄ませた音羅が、みんなの気配が近くにないと認めて口を切った。
「たぶん、パパが話しにくいことを聞きたい。亡くなる前に……じつは察していたんだ」
「なるほど」
「うん……」
音羅が主語を伏せて話しているのは、もしも誰かに聞かれていてもごまかせるようにだ。配慮が、オトに対しても、亡くなった相末学に対しても、最大限の敬愛を示している。
「パパだってとっくに気づいていたよね。だって、パパは誰よりも顔を合わせて話していたんだから。子どもっぽいって自覚があるけれど、男のひとに女の子として扱われないほど幼いとは思わない。振り返れば学園に通っていたときからなんとなくそれを学んでいた。同級生の男の子や先輩や後輩から、勿論全員じゃないけれど感じていた。同性の友達からも女の子同士として扱われていた。──決定的に察したのは添寝した日だった。そのあと家に寄ったパパは言ったよね、仲良くなれてよかったね、って。船でも訊いたけれどもう一度教えて。……どんな気持で、言ったの」
自分の中で湧き立つ愛情や嫉妬や悦びや苦しみを半ば無視してひとの心を酌む姿勢。そんな音羅の人間的な葛藤を歓迎したくも、オトは、殊に自分に関わることで葛藤させるつもりが就学時代以降はなかった。学びに終りがないとしても、自分が主として教えるのは就学期間に限りたかった。
「ねえ、パパ。素直に、答えてくれないかな」
真摯な目差は、ララナにも似て優しく、前向きだ。「怒っているんじゃないんだ。悲しいんだよ、話してもらえないことが。苦しいんだよ、仲間外れにされているような気がして」
「音羅の立場なら、俺もたぶんそう感じた」
家族なのに、慕いもした相手なのに、覚えた疎外感に、内から湧き出す葛藤より大きなものを覚える。
「答えてくれる」
「本心やよ」
それは噓ではない。「心から結ばれたんなら、嬉しく思ったよ」
「……なんだか裏を感じるのはなんでだろう」
「それは正しいよ」
オトは噓を言っていないが、噓を言ったようなものではある。相末学本人から聞いた言葉を付け加えて答えるなら、こうなる。
「彼が音羅を心の底から異性として観ることはない、絶対に、」
「っ……」
「そう判っとったからね」
「理由を、教えてもらえる」
「それも、添寝の日に察しとるやろ」
「わたしは、きっと、……子どもなんだね」
音羅の感想に、オトは不動を貫いた──。
オトからは伝えにくいことだった。できれば相末学から伝えてほしかった。でも、それができないことをオトは判っていた。それでもオトからは伝えられなかった。音羅を悩ませ傷つけてしまうとしても、年長者が雁首を揃えて伝えられないことだった。それは、摂理以上に難しい、理屈ではどうにもならない、感情的なものだった。
「ごめんね、音羅」
「謝らないで。少し、すっきりした。踏みきれなかったことは、わたしが一番解っている。感じている部分も感じていない部分も、パパと同じようにしか接してくれていなかったと思う。添寝も、すごく、幸せなだけだった」
昔のようなネガティブな対応ができたなら、逃げ道は多い。ときとして逃げることを勧め、自らもそうしてきたつもりのオトにも、今だけは、それができない。逃げたくない。
「俺は、心の底から体の隅隅まで、お前さんの親で存りたい」
「パパ……」
「お前さん達を、絶対に手放したくない。絶対に守りたい。未来永劫、気持は変わらん。その気持をともにしてくれるひとじゃないと音羅を預ける気にもならん。やから、彼とうまくゆいてくれたらよかった、って、音羅が傷つくとしても今でも本気で思うよ。ただ、心さえ同じなら別のひとでもいいとも思っとる。ただただ、音羅と音羅が包み込みたいひとが、みんな幸せになれたら──、どの口がゆうって自分でもツッコみたくなるんやけど、罵られても貪欲に、なりふり構わず、そう思うよ」
聞き手を蔑ろにした長い言葉だ。伝わりにくくて、客観性に欠け、私情ばかりで、纏まりのない身勝手極まった押しつけがましい言葉だ。音羅をどうこうできると思い上がった言葉に捉えられても構わない。
「音羅」
「……うん」
苦しめる。傷つける。悲しませる。葛藤させる。それで憎まれてもいい。憎しみをいだかせる苦しみは甘んじて吞む。どうしても、これだけは伝えたかった。
「パパは、音羅を大好きやよ」
わずか震えた瞳孔が瞼に細められて、揺れて、ぽろっと感受を零して閉じられた。
伝わった。
確かに、伝わった。
その実感で零れそうになったものを、オトは灰ならしで密かに掬って炭の熱に消した。
「フルマイさんがね、わたしたち娘がパパ似なのか話していたんだって」
と、瞼を閉じたまま音羅が話を再開した。「え、違うよ、みたいな子もいたらしいんだけれど、わたしはね、なんかすごくパパに似ているって自覚した部分が、そこなんだ」
「そことは」
「好きになったひとの、こと」
その応答にはある種の裏があるが、音羅が語りたくないならオトは掘り起こさない。密かに明示するなら、それは極めて内心に迫る事柄であり、音羅の人生観にも関わる。だからこそ、オトは暗示も最低限にとどめておく。
「一つ、大きな勘違いをしていたんだ。好きは好きでも、みんなに誤解されているパパをママ以外で信じていてくれたひとだから好きになれたんだってこと。そうじゃなくても好きになれたひとが、もしかしたらたくさんいたかも知れないことも……」
「いつ頃それらを見定められた」
「魔団騒動で連れ去られた日、ってことになるかな。結界の中でも、何度も振り返っていた。思い出を何度も振り返って──。だから、大叔父さんがやったことは許せないんだけれど、きっかけをもらえて少しだけ感謝もしているんだ」
「ふむ」
「言っていること、伝わっているかな……」
「ん、伝わっとるよ」
ひとによっては全く理解できない話だ。が、解るひとには解る話だ。きちんと見つめていたなら、零歳の音羅からだって伝わってきたことだ。
「振り返って、つらかったやろう。切なかったやろう。もう、大丈夫よ。少なくとも、俺にはお前さんの気持がよく解る。伝わることの悦びも、伝わらんことの苦しみも。そんで、独りじゃない心強さも」
「──うん」
そううなづいた音羅が、息を整えて新たな話を切り出す。
「パパ、苦しかったよね、さっきの話、口に出すの」
「怠惰に寝そべったままじゃ伝えられんかったな」
「……ちょっと、頼ってもいいかな」
それは重い内心を打ち明ける面持だった。オトは迷わずうなづいて、音羅の話を聞く。
「傷つけるかも知れないって、ううん、それだけじゃないな……、わたしが、自分らしくないことを口にしたくなくて、甘えたくなくて、みんなに伝えなかったんだ」
「蜜柑を並べて三日三晩でも聞くよ」
「……、ありがとう。そんなに長くはならないよ。でも、ごめんね、卑怯かも知れないけれど最初に謝っておくね、……ごめんなさい」
「謝る必要はないよ」
話してほしい。傷つけてほしい。苦しませてほしい。それが音羅の心の底から発せられた言葉なら、何を聞いても、どんなに傷つけられても、苦しめられても、必ずいつか悦べる。
音羅が、深く息を吸って、両膝に手をついて、ふっと口を開いた。
「お葬式の日、……最後まで見送れなかった、って、わたし、話したよね」
「理由には察しがつく。俺はそう答えた憶えがある」
「うん……。わたしは、理由を察せられるはずがない、って、思っていた。だって──」
いくつもの自他の感情が綯い交ぜになっていたのだ。
音羅の感情の一つは、着慣れない喪服が燃え尽きそうなほど、はたまた、凍りつきそうなほどの、凄まじい怒りだった。
──相末所長、あの悪童と繫がりがあったんだと。
──まさか!
──何か呪いでも掛けられたんじゃないかねぇ。
──あんなにいいひとを殺すなんて……。
……みんな、勝手なことばかり言っている。
──あ──。
──見ろ。あいつって確か……。
──指差すな、呪われたらどうする!
──すまん。
──目を逸らしておけ。どんな魔法でやられるか知れない……。
──なんで来るんだ。
──無神経だな……。
疑心と憶測と恐怖が立ち込めた空間に弔意の入り込む余地はない。
ここは亡きひとに心を向けるための場。それを押してやっていいことは、ないはずだった。そうでない場になっているとしたら、それは、
……わたしが、いるからなのかも知れない。
音羅がいなければ、父の悪評を想起することもなく、父と相末学との繫がりを知らない第三者がその繫がりに感情を添加することもなく、相末学に心を向けられただろう。
そう考えながらも音羅はどうしようもなく拳を握っていた。
……どうして、みんな、パパを誤解したままなんだ。どうして、受け入れてくれないんだ。
命を脅かす魂器過負荷症を抱えながらもこの国のために人知れず動いてきた父を、みんなが知らない。先の魔物騒ぎにも対応していたことは明白だったが国がそれを伝えない。父は、自身の貢献をあえて口にしない。犯した罪に対する永遠の罰を譲れない。
が、永遠の罰などあるのか。父は、永遠に、何をしても償えないのか。本当に。
……いい加減、許してくれてもいいのに。
父が何人殺したというのか。
その何倍ものひと、否、いっそ国民全員を父は救ったというのに、それ以上の償いがどこにあるというのか。
怠惰ながら、賢い父だ。永遠の罰などあり得ないことをきっと解っている。それでも自身の貢献を認めず、逆をいえば、償えないと捉えているようなのはなぜか。問うまでもなく、音羅はそれを実感している。
……何をしても罪の意識が消えないからだ。
音羅にも憶えがある。
目の前で失った命。守れなかった命。何かできることはなかったか。もっと尽くせる手がなかったか。
この手が、この心が、怠った。何かをこの手から零した。何かをこの心が感じなかった。だから、救えなかったのだ。そうして一つ一つに罪の意識が芽生えた。
罪の意識を摘み取れるのは亡くなったひとの容赦の言葉のみで、それを聞くことは決してできない。育つ一方の意識を枯らす方法はどこにもないのだ。
父の罪の意識をみんなが筵のように扱っている。もしかすると、失ったひとの大きさを嚙みしめる弔意の一端であるのかも知れない。だが、故人の人柄を思えば避けただろう扱いだ。
父から転移した偏見に抗うことも数十年に亘れば日常のようになったが、ついぞ理解してもらうことは叶わなかったと知ると、虚しくもある。
……これでも……これでも、頑張ったんだけれどな──。
実績は立場と給金に顕れている。といえども、この場で認められないなら無に等しい。この場で認められなければ何も意味がない。
幾度か流行した病のように、感染するようにして重い視線が広がってゆく。
──なんでまだいるんだ。
──騒ぎでも起こそうとしてるんじゃ……。
──早く帰ってくれないと、落ちつけやしねえ。
──所長だって来てほしくないに決まってるよな。
──どこかに、あの悪童も隠れてるんじゃないだろうな。
──噓だろ!まさか、皆殺しなんてことにならないよな……。
苦しさは重さを増すばかりだ。
──追い払うぞ!
──清めの塩を持ってこい!
──それより警察を呼んだほうがいいだろ!
──所でも応援を呼ぼう。
……いい加減にして──!
叫び出しそうな口を必死に閉じた。
耳を塞いでも、父譲りの聴覚は陰の言葉も拾ってしまう。
……──パパが、近くにいなくてよかった。
自分に対する暴言なら、なんとか躱せる。でも、父への罵詈雑言を聞き流し続けられるほど音羅は寛容ではいられない。言葉の数数を実力行使で制圧してしまいかねなかった。
音羅は、踵を返して、相末学の葬儀場から去った。
見送りたい。最後まで、見届けたい。
その気持が、脚を止めた。振り返りそうになる体を、全神経で押さえつけて、息を殺して、帰途を踏み締めた。
途中から走って、炎を使って飛んだ。どこをどう走って飛んだか振り返れないのは、ほとんど瞼を閉じていた。家に飛び込むと、父や家族のにおいが残る部屋の孤独なテーブルに両手をついて、怺えていた感情を全て零した。
何時間も経ってはいなかった。けれども、零れ続ける感情が両手をずぶ濡れにするほどには時が流れて──。
──きっとそのときと同じように、囲炉裏が凍り、居間が燃えている。
氷漬けの囲炉裏を挟んで音羅の目の前にいるオトも、燃えている。
「……ごめん、……ごめん──、やっぱり、抑えきれない」
「気にすんな」
その凍てつくおもいも狂いそうなほどの怒りもどこへ向けてもいいはずがない、と、結論して苦しかっただろう。どこへ向けてもいいはずがない、なんて、音羅の感情でしかない。抱えきれない感情は分け合えばいいと教えきれていなかったのは、両親であるオトとララナの責任だ。して、母ララナはその一部を既に受け止めて、音羅を支えている。
よくできた妻を、母としてもオトは尊敬する。娘を支えながら、オトをも支えているのだ。
次は、オトの番だ。
居間の炎はそれより外に広がらないようにしている。氷漬けの囲炉裏から広がる氷も居間の床にとどめている。身を焼く炎も、脚から上へ広がる氷も、オトは、余さず感じたい。ほかのひとには、感ぜさせたくない。
「音羅も察しとるように、俺の償いは、エゴでしかない。お前さんが受け止める必要はどこにもないし、抱える必要もない」
オトはゆっくりと立つ。居間にとどめられないほどの感情を怺えている娘に、俯いたままの娘に、歩み寄る。
「我慢できないことが外側から来たら、これからもこうしてパパを責めなさい」
「……でたらめだな、パパも……」
「娘の感情、発せられた魔法を受け止めきれんなら、親で存りたいなんて言わんよ」
「パパ……今からする遅い反抗期、許して」
「不老生者やからね、早いくらいかもね。いくらでもやりなさい」
オトは、音羅をそっと抱き締めた。その瞬間、音羅から際限のない感情が溢れ出した。
「大嫌いだ……大嫌いだ!大嫌いだ!大嫌いだッ!噓をつくパパも!それを庇うママも!何も言わないでみんなを支えているパパも!何も教えてくれないママも!そんなパパ達とそんなパパ達に想われて幸せなわたし達を知らないくせにいい加減なことばかり言うみんなも大嫌いだッ!大嫌いだーーーーー……!」
言葉と声と轟音がオトの耳を劈いた。
「でも……でも、もっと嫌いなのは、自分だ……」
普段からネガティブな発言を控えて、父であるオトにもそうであってほしいと口にしたことがある音羅が自己否定したのは、明確な理由がある。
「こんなことを言うくせに、自分が守れなかった罪の意識で、許せないって気持で、ひとの命を奪ったんだ……!」
音羅の実力では不可抗力と言わざるを得ない出来事だった。命を奪った。その相手は、魔物だ。討伐・対抗・放逐などの選択基準をオトは教えなかった。その上で、音羅は言葉を使う魔物と対峙して葛藤し、結果として討伐することを選んだ。しかし葛藤の末の決断には野原花達の死という受け入れがたい現実が影響していた。人間同士でも殺害逮捕が通り魔物は問答無用で討伐対象とする社会とはいえ、音羅は自身の価値観に反した。心が凍りつくような現実を振り返り、手放してはならなかった価値観を決断の奥底に沈めてしまっていたことに後悔し、それでもやはりその手段しか自分にはなかったことが判るから苦しい。
音羅の心境を顕すように、息ができないほどの氷と肺にまで達して内側から破裂させるような炎が大波となって居間を埋め尽くした。青と赤が斑に入り乱れて目が壊れそうだ。いつかララナから聞いた輪廻転生機関の様子に近く、三半規管がおかしくなって横転しそうだ。が、オトはその全てから目を逸らさない。熱を肌にとどめ、狂おしい景色を目に焼きつけ、それらを発している音羅を決して放さない。
そうやっても、音羅の感情を治めることは、オトにはできない。オト自身から湧き出す家族への気持を音羅達には抑え込めないように。だからオトは、音羅がしてくれたように、あるいは、その昔の自分のように、感情のままに自分の気持を伝えるだけだ。
「俺を、親にしてくれて、ありがとう」
ドッ──。
滝壺へ零れ落ちた途端に川の水が涸れたかのように斑が床に押し寄せて固着し、水面を弾けた水飛沫にも似て霧散した。
「音羅は自らに恥ずべきことをした。それは確かだ。けれどもそれほどまでに花さん達を大切に思い、失った苦しみと許せなさと価値観に葛藤できたことが音羅らしさを示しとる。そんな子に育ってくれたこと、そんな音羅に頼ってもらえる親になれたことが、嬉しいよ」
ヴァイアプトがおらず暗い空間。氷漬けになっていた囲炉裏の炭にぽっと火が戻ってぼんやりと居間を照らすと、焼け落ちていても不思議ではなかった壁や床や天井、座布団に至るまで一つとして失われておらず、それらを見回して、音羅が一つ、落涙した。
「わたし……──」
「ん」
「大嫌いなのは、噓じゃない……」
「ん」
「……けれど、大好きで、……」
「ん」
「手放したくなくて、……」
「ん」
「大好きで、大好きで、……どうしようもないや」
「……ん。とっくに知っとる」
「……ん」
音羅が、オトを抱き締め返した。「わたしも、言う。言いたいから、言う」
「ん」
「わたしを、パパの子どもにしてくれて、ありがとう」
親の言葉に倣った言葉ではない。オトは、音羅のその言葉が、両腕から伝わる熱と同じように沁みた。
「苦しいし、つらいし、めたんこえらいけれど、パパの子じゃなかったら花さん達のことも、ほかの誰のことだって、こんなに想えてなかったはずだから……ありがとう」
言葉通りに、葛藤に埋もれてしまいそうな心がある。それでも、泣きながら笑ってくれた。
「ん、すごく嬉しい。すごく、幸せやよ」
「ん……わたしも!」
そううなづいた音羅に、オトは、感情をもう二つ伝えたい。
「『何があってもぼくは音羅さんの味方です』」
「っ──!」
それは、葬る前に聞いた彼の感情にほかならない。
「『看取ってくれて、ありがとう、音羅さん』」
「──」
わずかの沈黙。感動に浸ることもできただろう。音羅は、本当に優しい。このようにオトに尋ねたのである。
「パパも言葉をもらえたんだよね。それは、きっと、嬉しいものだったよね」
弔意も何もなかった。傷つけて苦しめて葬るのだ。
苦痛のみが与えられる最期に相末学が遺す言葉は自身を殺す者・単なる殺人者に向ける言葉であるべきだった。
[さようなら]の言霊を聞いた彼は、
──ありがとう。
と、感謝して、さらには、
──ぼくのことは忘れてください。
そう微笑んだのだった。
傀儡化が解けた相末学は最期に自らの言葉を放った。言葉真の言霊や魔言にも増してオトには重い言葉だった。傷つけて苦しめたというのに、自分がいなくなったあとのオトの苦悩を和らげようとする優しい言葉をくれた。
微笑みのままに息を引き取った彼を見つめ、脳裏に最期の言葉が木霊すると、大人の姿を保てなくなったオトは幼い頃の姿に戻って、思わず彼の亡骸を抱き締めていた。まるで全身の血流にガラス片を乗せたかのように堪えがたい痛みが走って、声も感情も止め処なく溢れて、指一つ動かせないほどに疲弊した。
──魔法のメイクで一部ごまかした分身を大神凰慈のもとへ行かせるなど、いうまでもなくオトは彼との別れで疲れ果てた。疲れ果てたが、
……ああ、やっぱりわたしは幸せやったよ。
無限大のような悦びも膨らんでいたから、フルマイとして、つらかったのだ。もう別れなければならなかったことに、疲れてしまったのだ。それほどまでに彼との別れは受け入れがたかったのだ。
その感情をきっと理解できる音羅に、オトは別の言葉で応えたい。
「俺からも、今一度、感謝するよ、音羅。逃げ回っとる俺には、看取ることは難しかった。代りに看取ってくれて、本当にありがとう」
「ううん、お礼は要らないよ。わたしがそうしたかったからそうしたんだ。それでパパが悦んでくれて、彼も悦んでくれた……。苦しいけれど、嬉しいよ……!」
にっこりと。生まれた頃のような素直な笑みだった。
「音羅。その心を、誇りに思うよ。わたしも、彼も」
「そう思ってもらえるわたしで、ずっと存りたいな。それが、わたしらしい感じがする!」
炎のように弾ける笑みには底抜けの明るさと優しさが宿っている。幼い頃のようでいて、幾重にも成長した表情に、迷いはない。
「燈の色、見定まったね」
「うん!」
氷漬けになっても息を吹き返した炭の色。みんなに優しくしたい。みんなを愛したい。その気持を絶えず焼べて伝える温かい色だ。
胸に顔をうづめた音羅が、ふと顔を上げて口にした。
「パパも肝心なところでは逃げ回っていないね」
「そうかね」
「だって、最後はちゃんと見送ったんだから」
「……ん、そうやね」
娘が親としての自分を成長させてくれる。とうの昔に知っていたことを、改めて知った心地だ。加えて、普通のひとびととはどうしても異なる娘を人間社会の中で調和できるように育てたことで、オトの異質さをも解きほぐす人間性を娘が育んだことも。
元気いっぱいな音羅が仕事に出るのをオトは見送った。燃えたり凍ったりはしていなくても座布団や五徳や灰模様は多少ばらけていた。それらを整えていたオトのもとに、途中からこっそりと様子を窺っていたララナとメリアがやってきた。
「音羅ちゃんの感情は、私が受け止めたものより遥かに大きく複雑だったのですね」
「音羅さんの、音さんと羅欄納さんと故人や周囲のひとびとへの感情と、それら全てのひとからの感情を慮った心。それが、双剣萼を打ち破った力の根源だったのでしょうね」
ララナが受け止めた一部ではなく、メリアのエゴたる双剣萼を暗に打ち破った混沌的かつ人間的葛藤は、音羅の優しさの象徴だ。
「あの子はもうとっくに俺達を超えとるね。本当にすごい子で、感謝が絶えんよ」
あの明るさがあれば、この家が暗くなることはないと信ぜられるほどに。
「っふふ」
と、不意に笑ったララナに、オトは目を向ける。
「どうした、いきなり笑って」
「いいえ、オトさんが座布団を正し、灰模様を描き直して五徳をそうして戻す背中は、跳びつきたくなるような広さです」
「なんとなく解ります」
と、メリアが同感を示したので、オトは首を傾げた。
「腰に来るから絶対やめてよ」
「その腰の痛みの原因は両脇に陣取って横になる私達ではございませんでしょうか」
「そうですね。責任を果たしてマッサージしてから跳びつきましょう」
責任に託つけて接近する二人からオトは逃げる必要がある。
「手をわしわしして迫るな。ぞわぞわするわ」
「左様に言わず、素直に笑ってください」
「羅欄納さんのマッサージが気持いいのはわたしが保証します」
「絶倒で済まず絶命しかねんから断固遠慮する」
「私達との交流は『肝心なところ』ではないのでしょうか」
「蔑ろにされているということですから由由しきことです。双剣萼の出番ですね」
「どこが。些細な回避を取り上げて星を破滅させんな。俺は万年無職の引籠り、有象無象の弱者やぞ。窮鼠猫を嚙むという言葉を知らんのか」
「『!』」
五徳をもとの位置に戻して両手が空いたオトに隙はない。両手をわしわしさせていた二人の妻に対して、同じように両手を伸ばす。
「お前さん達には、新たな教育が必要らしい」
「な、何を仰っているのです」
「わ、わたしは依代なので紙耐久で──」
「問答無用で笑かし地獄へ送ったる。おいで、ヴァイアプトと糸主!」
「『ひゃあっ!』」
召喚した分祀精霊の連携で目眩しした二人を容易く拘束したオトは、指導者スイッチをオンにし、妻によるおふざけを完全制圧した。
みんなが、幸せなのが一番だ。
それは、視野の内ならば現実になりつつある理想だ。
外はどうか。具体的に示すなら創造神アースの意図とその意図に振り回されている存在だ。その中に、創造神アースをも含むなら、この世界は未だ影のほうが多く、不幸のほうが多いということになる。
「いつも家を照らしてくれてありがとう、ヴァイアプト」
仄かに明るむ鉢植えを、オトは仰いだ。「今度は、俺の道標になってね」
音羅のようにふんわりと輝く燈には、確かな意志が宿っている。その意志をいつか支えた自分のように、今度は自分自身の意志を支えよう。
鍋座の座布団を撫でて、オトは、そっと立ち上がった。
──零れ閉づる夢 終──




