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影を踏む  作者: 夏目有也


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4/5

影と現身

 入れ替わりは現身(うつしみ)と呼ばれるらしい。現身を執り行うにあたって、決まり事がある。

 それは新月の夜に行われなければならない。午前3時33分に開始しなければならない。開始前の33分間、何も話してはならない。窓がなく光の差し込まない密閉空間で行わなければならない。無地の黒一色の服装で、肌を一切見せてはならない。顔を墨や灰、煤などで黒く塗らなければならない。


 現身の儀式中における禁忌もある。光を点けてはならない。人の声を聞いてはならない。他人に見られてはならない。目を開けてはならない。時間は最大13分間で、それを超えてはならない。

 これらの禁忌がひとつでも破られると、肉体は抜け殻となり、影は消滅する。それを影喰いというらしい。その抜け殻に、何者かが受肉してしまうことがあるそうだ。


 新月の夜、私は真っ黒の服を着た。真っ黒の靴下をつけた。頬に墨で落書きをしてみた。少しは面白いかと思ったが、つまらなかった。そのつまらなさを掻き消すように、真っ黒に顔を塗った。


 私は地下室へ向かう。その途中で「どこへ行くの?」と母に呼び止められる。彼女はなぜか起きていた。私は俯き、口籠る。現身を行うには、もう何も話してはならない。沈黙が降りてくる。

 母の足下を見る。蛍光灯に照らされていても、彼女には影がない。私が知っている影がない人間、もうひとりは母だった。


 私は母の影がないことに気づいている。母は私が気づいていることに気づいている。ただ、そのことについてふたりで話したことはない。

 母は暫く私を見ていたが、何も言わずにその場を去り、お手洗いへ向かった。


 私は地下室へ行き着き、その暗闇へそっと踏み込む。一歩ずつ、影に重なるように。影と一体となるように。

 心配事が頭をよぎる。もし母がここに来たらどうしようか。地下室の明かりを点けてしまうかもしれない。私は声をかけられてしまうかもしれない。私は見られてしまうかもしれない。13分間を超えてしまうかもしれない。現身は今日実行されるべきではなかったのではないか。


 そんな心配をよそに、その時は来た。身体の輪郭が滲む。形を留めることができない。限界に達して、崩壊して、暗闇に溶け出していく。自らの身体がなくなっていくのは、不思議な感覚だった。13分を超えたかどうかもわからない。光を放つ携帯電話は持ち込んでいない。光がないので、もし時計があっても意味はない。


 物音がする。何かがひたひたと私の背後に忍び寄る感覚だ。影の手だと思った。無数の手が私を囲んでいる。私を引きづり込もうとしているのかもしれない。目を開けて確認したくなるが、それを堪える。

 呻き声が聞こえる。声帯を抜かれた男たちが、全身の皮膚を火で炙られるような呻めき。


「君は失敗したよ」と誰かが囁いた。人生で耳にした中で、最も低い声だった。病的なまでに低く、内臓まで震わせる声だ。そう、きっと、暗闇が喋るとこんな声になるんじゃないだろうか。

「まだ失敗してない。騙そうとしてるんでしょ?無駄だよ」と私は言った。

「いや、失敗だ。君で継承は途絶える」


 私は跡形もなく消えて、暗闇の中に落ちた。成功したのか、失敗したのか、よくわからない。何もかも、どこかへ消えた。身体というものは、こんなにも重かったんだ。喪失というより、解放というほうがしっくりくる。


 ああ、これでいいんだ。いや、これがいいんだ。


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