九
どこからか、笛の音が聞こえる。
音階の練習でもしているのだろうか。ときに高く、ときに低く、のびやかに響くその音色は、曲の体はなしていないが耳に心地よい。
春明は寝台に横たわったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。室内をただよう埃が、窓の隙間から射し込む陽の光を受けてちらちらと輝いている。
久しぶりにぐっすり眠った気がする。春明はうんと大きく伸びをした。と、指先がなにか固いものにふれた。
あ、と思う間もなく、かしゃんと儚い音をたてて、枕元の小卓においてあった杯が床に落ちた。
「あーあ……」
やってしまったと、くだけた杯のかけらをつまみあげる。陽に透かすと緑色の光を放つこの杯は、近隣の山から採れる玉を加工してつくったものだそうだ。杯の底にわずかに残っていた葡萄の酒が、床に点々と深紅色の滴を散らしている。
玉杯で酒をあおっていたのは春明ではない。主人の子怜だ。
このままではとても眠れないと訴えた春明に、ならば眠るまで自分が付き添おうと、子怜は申し出てくれのだった。誰かが側にいた方が安心できるだろうと。そこまではよかったのだが、ただ座っているのも退屈だからと、どこかから酒を調達してきたのだ、あのひとは。
病人の枕もとで酒盛りですか、と呆れる春明をよそに、子怜は涼しい顔で杯をかたむけていた。まあ、その適当すぎる看病人を見ているうちに、なんとなくうとうとしてしまい、結局しっかり眠ってしまったわけなのだが。
杯のかけらを小卓の上におき、春明は寝台から降りて窓に歩みよった。雲の上でも歩いているかのように足もとがふわふわするのは、この三日ろくに食べていなかったせいだろう。
建てつけの悪い窓を苦労して開けると、ざっと風が吹きこんできた。あいかわらず砂混じりなのには閉口するが、数日ぶりの外気は頰に快い。
沙州関にたどりついた最初の晩、錯乱した兵に襲われ、城輔の崔奎厦に助けられたところで気を失った春明は、そのまま高熱を発して寝こんでしまった。
熱にうなされる春明を介抱してくれたのは、沙州関の居候を自認する楊阮之だった。医術の心得もあるという阮之は、なにくれと春明の世話をやいてくれただけでなく、薬湯まで調合して飲ませてくれた。
薬の効能か、それとも深く眠れたことがよかったのか、どうやら熱は引いたようである。手足にだるさは残っているが、頭はすっきりと冴えている。
笛の音が、高い空に響く。
春明はしばらくその音色に耳をかたむけていたが、やがて窓辺を離れて部屋を出た。
廊下はひんやりとしていてうす暗く、そしてひどく静かだった。昼日中だというのに、まるで人の気配がない。まるで城全体が午睡をむさぼっているかのように。
切れ切れに聞こえてくる笛の音に導かれ、春明は城壁の上に出た。強い日差しを手でさえぎりながらあたりを見わたし、城壁にもたれる二つの人影に目を止める。
笛を奏でている華奢な青年と、その隣に立つなで肩の男。子怜と阮之だった。
いずれも姿のいい若者が楽に興じているさまは、なんとも優雅なものだった。彼らのまわりだけ景色を切りとって、花びらの散る曲水のほとりにでも移してみたくなる。
「春明」
やわらかな声に、春明は白昼夢のような思いからさめた。子怜が笑顔で手をふっている。春明はかるく頭をさげて二人のもとへ歩みよった。
「具合はどう? もう起きて大丈夫なのかい」
「ええ、まあ」
曖昧にうなずいたところで、横から「失礼」と阮之の手がのびてきて額に触れた。
「まだ少し熱があるようですね。部屋に戻って休まれた方がいいのでは」
「もう充分休みました」
春明は苦笑する。
「それに、もう眠りたくありません」
阮之の顔が曇った。
「春明どのは、特にそうなのですね」
厄介だねえ、と子怜がのんびりと合いの手を入れた。
ひとによって、差があるのだそうだ。夢にとりつかれる「深さ」とでも言えばいいのか。
楼西の最後の王が死の間際に放った呪いの言葉どおり、以後この城の住人はやすらかな夜を失った。
この城に住まう者は、夜毎夢を見る。それも、とびきりの悪夢を。
夢の筋書きは決まって同じ。異国の大軍に攻められる夢だ。けたたましい鐘の音で飛び起き、城壁の上に出る。そこに広がっているのは血なまぐさい戦場。呆然と立ちすくんでいるところに、おそろしく身軽な敵兵が襲いかかってくる。驚き慌てながらも必死で応戦し、そして、殺される。
地に伏し、息絶えたところで、ようやく目がさめる。死ぬまで、殺されるまで、この悪夢から逃れることはできない。
「それで?」
かるい口調で子怜が問うた。
「何回死んだ」
「冗談でもやめてください」
春明はげんなりと抗議した。思い出したくもない自分の死に様が、まざまざと脳裏によみがえる。
剣で胸を突かれた。足を斬り落とされた。眼球を射抜かれた。敵兵に組みつかれて城壁から真っ逆さまに落ちたときは、目覚めてからしばらく震えが止まらなかった。
夢だというのに、その感覚はあまりにも生々しかった。吐き気を誘う濃密な血の匂いも。耳をふさぎたくなるような断末魔の叫びも。肉を切り裂かれる激しい痛みも。
そしてなにより、死を迎える瞬間の絶望感。あの思いを味わうたび、心が少しずつ壊死していくようだ。
いつの頃からでしたかね、と、春明の看病のかたわら阮之が語ってくれた。毎晩同じ悪夢を見ると城の兵が騒ぎはじめたのは、再建工事がはじまって半月もたたない頃だったという。
夜ごと悪夢に苛まれるせいで、沙州関の兵は目に見えてやつれはじめた。眼から光が失われ、足どりは日に日に重くなる。その異様な風体から、城に出入りする商人の間でいつしかひとつの噂がささやかれるようになった。
沙州関には幽鬼が出る、と。
「幽鬼が出るんじゃなくて、城の兵が幽鬼みたいになったってわけなんだけどね」
春明を見舞いにきていた子怜は笑ってそう言っていたが、実際は笑い話ではすまないところだろう。
悪夢のせいで兵は気力体力ともにそがれ、士気は下がる一方。たえかねて脱走を企てる兵も一人や二人ではきかないそうだ。ただ、誰も成功していないとのことだが。
夜に眠るのがだめなら昼に眠ったらどうかと試してみたが、いつ眠りにつこうと悪夢は容赦なく襲ってくるのだという。だいいち、昼に眠っていては再建工事が進まない。
いまだって進んでいないけどね、とは、これまた他人事のような子怜の言である。
たまらないな、と春明は空を仰いだ。からりと晴れわたった薄水色の天蓋は、心なしか故郷の空より高かった。




