真実の向こう
フォルカー卿を取り囲むように屈強な人垣が作られ、内と外が区別された。
ドロテアは外に置かれていた。
困惑の真っ只中に放り込まれて、ドロテアは身動きがつかなかった。
「殿下って」
思わず漏らした呟きが、人垣の一枚を担う騎士に拾われた。
騎士はドロテアへ冷徹な視線を向け、感情のない口調で、
「娘、控えよ。下がっておれ」
と宣した。
往来を塞ぐ格好でフォルカー卿を囲む円陣を王都の民は遠巻きにしている。
フォルカー卿と行動をともにしていたドロテアが、もっとも近い場所に立っていた。
近衛騎士と連れ立っていたことすら場違いであるのに、もっと場違いな何かが起こっていた。それは、フォルカー卿が「殿下」と呼ばれていることと関わりがあるに違いない。
慌てて遠ざかろうとするドロテアを、引き止める声があった。
声は円陣の中央に立つフォルカー卿のものだ。
「お待ちいただきたい。ドロテア嬢」
フォルカー卿の声が発せられた直後、円陣が左右に割れた。
フォルカー卿とドロテアまでを遮る男たちが無言のうちに主君に従って控えたのだ。
通りの向こうから、六頭立ての馬車が迫ってくるのが見えた。
馬車に家紋はないが、高貴な身分の持ち物とわかる。
いま思えば、家名すら名乗れない隠密が乗り回すには目立ちすぎる。
フォルカー卿が本物の陰供だったなら、市井に溶け込む技量が必要なはず。
待ち合わせ場所で侍臣を引き連れて馬車から降りてくるのもおかしい。
右目を片手で隠しながらも、にこやかに歩み寄る近衛騎士のはずのフォルカー卿。
その正体を想像することは、ドロテアにとって恐怖しかない。
しかし、彼はドロテアに近づき、貴族の家来衆で済ませるには整然と控える人々はひとことも口を開かない。なによりも彼らがフォルカー卿に呼びかけた「殿下」の敬称が、決め手となって、ドロテアは逃げることも、喚くことも許されない苦境に立たされていた。
視界の端で、切り伏せられた投石の下手人だったものが運び出されていく。
王都で警吏を待つまでもなく無礼討ちの許される身分、人物など、数えるほどだった。
「どうやら、話が大きくなってしまったようです」
苦笑するフォルカー卿へ、ドロテアは、
「お怪我は、大丈夫なのですか?」
彼の右目に怪我などなければ、と心配していた。
「まったく問題ありません。
血の一滴も流れてませんからね」
「それは何よりのことでした……殿下」
ドロテアが敬称で呼ぶと、フォルカー卿は溜息を落とした。
さらに何かを言おうと口を開きかけたタイミングで、警護の人垣が割れて、馬車がゆっくりと近づき、停まった。
騎士たちは馬車の中を調べ、すぐに乗り込むようフォルカー卿へ促した。
「殿下、これ以上留まれば、周囲に混乱が生じましょう。
どうか、宮殿にお戻りくださいますよう」
「あいわかった、しばし時を貸せ」
ドロテアは、近衛騎士を名乗るフォルカー卿の自由時間が終わったと悟った。
得難い経験だったと思う。たぶん、もうこんなことは二度とない。
もちろん、それで満足。
殿下と呼ばれるのは王族だ。
市井の娘が顔を合わせることなどないし、それが正しい。
無礼があると咎められても困るし、王族との交流について知っている民草などいないのだから。
ドロテアはフォルカー卿から別れの言葉を待った。
なのに、殿下はドロテアに対しては近衛騎士のフォルカー卿が抜けないのか、向けられたのは丁寧な口調で、
「いや、まさかこんなふうに帰ることになろうとは思いませんでした。
しかし、こうなってしまえば、あなたに話すべきことが増える一方です。
できればもう少し、お時間をいただけませんか?」
「時間を?」
「宮殿へ、ううむ、『招かせていただきたい』のですけど、いかがでしょう?」
「恐れ多いことです。今日はわたしが案内をすることになっていたというのに。
ずっと、身分不相応な場所へ連れて行っていただいて。
もうそれだけで十分でございます。
あとはもう、わたしなどこのまま捨て置いてくださいませ」
ドロテアはフォルカー卿と引き合わせた父メランが何を考えていたのか、家に帰って問い詰めたい一心だった。幸い、フォルカー卿は今日の微行に悪い印象をお持ちでないらしい。もうこのままお帰りくだされば上々の結末、なのかもしれない。
しかし、そこで抵抗を示した人物がいた。
その人物は、この場の誰よりも身分が高い青年だろう。
「あなたをこのままここに置いていけですって?
それはいけません。ダメです。せめて家までは送らせていただかなければ」
ドロテアはわずかに飛び上がった。
絵師メランの一家は、こんな立派な馬車で送られるような上品な屋敷に住んでいない。
屋敷というより、あばら家のたぐいだろう。
雨漏りこそなく、寒さに凍える心配もないが、隙間風はある。
そのような程度の家庭だった。
立派な馬車で、「殿下」に送っていただくなど、何が起こるか考えたくもなかった。
ドロテアが首を振り、言葉にならぬ呻きのような何かで、
「こ、こ、ここ、困り、ます。絶対に、そ、れは。
本当に、ほんっとう~に、マズいことに、なりますから」
あとあとになって考えると、殿下の意向を覆そうとする不敬が最大の問題だったが、殿下がドロテアの態度を受け入れていたために咎められずにすんだ。
とはいえ、殿下はゴロツキのうろつく界隈にドロテアを置き去りとすることに強く反対した。
ならば、ドロテアも譲歩するしかない。
「王宮へお招きにあずかるのは身に余る、いえ、身に過ぎたことです。
それに、わたしをレディだと言っていただけるなら、急に予定を変えるのはお許しください。
もしも、ここへ留まることをお許しくださらないのなら、わたしを馬車で王宮の門前までお連れください。
そこまででしたら、わたしもお付き合いさせていただきます。
殿下もご存知の通り、王宮門前までならば、辻馬車に乗って家と往来することも容易く、ご心配いただくような要もございません」
「うん。そうですね。たしかにそれならば」
不満を残した口調だったが一応の同意を示す殿下は、ドロテアへ御手を差し伸べられ、馬車へと誘った。
○
王宮までの道のりはドロテアが思うより短いものだった。
馬車での移動が早いことはわかっていた。
けれど、今日乗っている「殿下の馬車」は普段乗る辻馬車よりも遥かに早かった。
理由は簡単。
通りの辻に至るたび、普通の馬車なら進行方向や脇道から現れる馬車、さらには通行人に気を使いながらスピードを落とす。場合によっては一時停止する。
それが「殿下の馬車」は先行する騎士たちによって交通規制がされ、ノンストップで進んでいった。
王家の権力が王都数十万人が生きる諸々の事情を圧倒し、わきにどけて推し進む。
その中で運ばれるドロテアは言葉もない。
門前にたどり着くのもあっという間で、事情を聞いていた御者が馬車を停めたところで、ドロテアに課せられた今日の任務がいよいよ終りを迎えた。
同乗していた本物の近衛騎士によって扉が開かれ、促されるまま外へ降りるドロテア。
降りてから頭を下げて見送ろうと考えていたところへ、なぜかあとに続いて殿下までもが馬車から降りてくる。
殿下は精悍な顔──右目はウインクするようにつむったまま──で、高い身長から見下ろすようにしながらも、もじもじと口に出すことを躊躇いながら、
「もうわかっているでしょうが、私は近衛騎士ではありません。
偽りの身分を名乗るような仕儀となり、申し訳ないことでした」
王宮の門前で殿下に丁寧な言葉を使わせていることにドロテアは恐縮した。
「なぜ、そのようなことをなされたのか、一介の平民には理解に苦しみます。
ですが、もはや、あなた様のご身分は承知いたしました。
ですから、どうぞ、ご身分相応のお言葉でお話しください」
「ああ、そうだな、本当に、あなたの気分を損ねてなければいいが。
しかし、どうか信じてもらいたい。私に悪気があったわけではない。
許せ。私はあなたにどうしても会いたかったのだ」
ドロテアは殿下の言葉に困惑しきりだった。
会いたかった、と殿下は言うが、会うだけならば先日の父が弁当を忘れた一件で顔を合わせていたはずだ。なぜ外で会う必要があったのか。
ドロテアは思わず、殿下の言葉に反発していた。
「そのようなこと、信じられません」
「左様か。まあ、そうであろうなあ」
殿下も自身の酔狂に自覚があるらしく、腕組みをして考え込んでしまった。
ふたりが立ち尽くしているのは、正門ではない。
微行に用いる無紋の馬車が出入りするのは、先日訪れたばかりの通用門だった。
そこに立つふたりを囲むように、またも屈強な人垣が築かれ、街の人々は遠ざけられている。
「おお、そうだ。真実の眼があるではないか」
殿下が近衛騎士の一人を門番所へ走らせ、真実の眼を持ってこさせた。
騎士は殿下の意図を読み違えたか、真実の眼をドロテアへ手渡そうとする。
それを殿下が叱りつけた。
「痴れ者め。真実の眼は私に必要なのだ。
それを以って、ドロテア嬢に真偽を確かめてもらうのだぞ」
殿下は笑顔を浮かべながら、片手に真実の眼を持って、
「私はドロテア嬢に会いたかった」
と宣言した。殿下の手にある真実の眼は、一切の曇りを見せず、言葉の正しさを保証していた。
そこへ、いまだ納得のいかないドロテアが畳み掛けるように問うた。
「なぜ、なぜ殿下が、市井の町娘に会わねばならぬのでしょう」
殿下は真実の眼を持ったまま答えた。
「あなたの顔を見たかった」
真実の眼はまたも曇らず、殿下の本音を証明し続けた。
あまりにも変化のない水晶玉を疑い始めたドロテアは思い切って、
「その魔道具は壊れているのではありませんか?」
王宮の門番所という国で最も警備厳重な場所で利用される品にインチキがあるのではないか、と言ってしまった。
殿下はドロテアの言葉に苦笑いを浮かべられ、するすると身を寄せてくると、声を潜めながら、
「私は、王太子では、ない」
と、唐突に囁いた。また囁くと同時に、殿下は手の中の真実の眼をドロテアの顔の前へとかざしてみせる。
真実の眼はどす黒く濁っていた。
真実の眼は、嘘を見抜く魔道具であった。真実を口にするかぎりは、透明を保つ。
嘘を口にしながら触れていたなら、真実の眼に濁りが生じる。
殿下はさらに囁いた。
「私は近衛騎士ではない。本当の身分は王太子なのだ。
残念ながらな」
ドロテアの眼前に持ち上げられた真実の眼は、透き通っていた。
この魔道具が壊れていなかったなら、フォルカー卿は王太子殿下、らしい。
ドロテアは王太子から真実の眼をひったくって言った。
「わたしの顔は、わたしの顔は化粧なしには酷く老けてしまいます。
わたしはわたしの顔が嫌いです。
そのわたしの顔を見たいだなんて、悪趣味です」
ドロテアの言葉は、生まれ変わってからの悩み、本音そのものだった。
彼女の手の中の真実の眼は、透き通り続けた。
王太子はドロテアの手から真実の眼を奪い取って、
「知っている。
あなたが顔を気にしていることも。そのために化粧の顔料に工夫を施したことも。
しかし、だからこそ私はあなたに会いたいと思うに至った。
勘違いするでないぞ。そもそも私には美醜など、関係のないことなのだ」
真実の眼は透き通った水晶玉であり続けた。
無言のドロテアへ追い打ちをかけるように王太子は続けた。
「私の瞳が美しいとそなたは言ったな。
いま一度、私の瞳を見よ」
王太子らしく、人に命じることに慣れたふうで、彼はドロテアへ要求した。
ドロテアに、誰かの怪我を覗き込むような趣味はない。
けれど、今日という不思議な一日がなぜ用意されたのか、どうしても知りたいと思った。
なぜ、王太子たる要人が、市井の娘に会いたかったのか、納得の行く説明が欲しかった。
その答えが得られるのなら、そう考えて、ドロテアは王太子の目を真正面から見た。
左目は、先日と変わらず。
ブラックオパールの夢幻のような輝きがゆらゆらと変化を続けていた。
そして、もう片方。
不意の投石を受けてから、まぶたで閉じられて隠されていた右目も見た。
王太子殿下の右の眼窩には、白く濁ったガラスがあった。
眼球があったはずの場所に鎮座するガラスは、無数のヒビが入っていた。
ひと目で分かる。
それは正常なものではなく、人の手で作られた義眼だった。
ドロテアがそれを確認し終えると、王太子はまぶたを閉じ、ふたたびそれを隠した。
「すまぬな。不愉快なものを見せた。許せ。
だが、こうすることが近道だと思ったのだ。
私の眼は、生来の病でふたつとも失われている。
そのかわり、魔力を観察する魔道具が埋め込まれることとなった」
王太子は、残る無傷の左目──魔法の義眼──を虹色に輝かせながら続ける。
「これがあるから、私はひとりで外を出歩くことも許されなんだ。
常人に見えぬ魔力を観ることが叶うものの、見えるはずのモノが見えない。
だから、つねに誰か私の眼の役割を果たす侍臣が必要であった。
王太子の身分が周囲を過保護にさせ、真綿にくるむように危険から遠ざけられた。
だからだ。あなたがいなければ、こうやって街を歩くことは叶わなかった」
「わたしじゃなくても、ほかにもっと、一緒に出歩くべき人がいたはずです。
わたしじゃなければ、片方の瞳を失うようなこともなかったでしょう?」
「いや、あなたでなければ。あなたと会って、あなたと歩きたかったのだ。
誰でもなく、あなたに会って、顔を見たかった。
瞳がひとつ壊れたことなど心配するには及ばぬぞ。
明日にも代わりの物へ取り替えれば済む話だからな」
「わたしの顔なんて、ただ化粧でごまかしてるだけで……」
「その化粧のおかげで、私は人の顔を知ったのだ。
あなたがそれを、化粧品を生み出すまで、私は人を魔力で判別し続けた。
化粧を施した顔が、あなたの生み出した顔料が、人の顔を私に教えたのだ。
私にとって人の顔も、絵も、目に映らぬ、話に聞くばかりの他人事だったのだ。
それが、メラン師の肖像画を見た時に、衝撃を受けた。
メラン師が出仕の際に、一枚の絵を献上していたことを知っているか?
最高傑作だと自信有りげに持ってきたのは、あなたを描いたものだ。
もちろん、その顔料も、あなたの作り出したものなのだろう?
私が生まれて初めて目にした顔こそ、あなただった」
「なら、もうこの顔でご満足されましたでしょう?
化粧品なら、いずれどこぞの商家に預けて売り出すつもりでおりました。
そうなれば、もっと美しい姫君がわたしの化粧品をつけてお目通りする日もまいります。
これよりは、どうぞ、わたしをご放念くださいますようお願い申します」
「いや、私は誰かを近くに置くのなら、それはあなたが良い」
「お戯れはもう、お許しください。
侍女に上がるのは市井の娘には恐れ多いことですっ!」
「では、后ならどうか。
まだ13の齢で輿入れに障りがあるならば、婚約では」
「バッ、バカ、違うっ、そんなことは身分が違いすぎます。
それに、あとになって美人が化粧をして現れれば、絶対に殿下のお気も変わります。
あとになって捨てられることが分かっている相手と、結婚したい女はいません!」
「化粧と顔をひどく心配しているようだがな。
実は秘密であなたの化粧品は周囲に試させたのだ。
お父君のメラン師に頼んだところ、こっそり持ち出してくれてな。
それをもとに化粧品は王家の工房で随分まえから試作されている。
母や妹たちもそれはもう大喜びで使い、顔を合わせた大貴族の娘たちがせがんでな。
ためにすでに広まってしまったが。
それで美姫と名高いものがあなたの化粧品を付けた姿はもう目にしている」
「そんな、勝手に、わたしの苦労して作ったものを……」
「すまぬな。化粧品の代金なりは、取り立てるなり、私が生涯をかけて払うなりしよう。
だが、私は嘘はいっていないのだ。
平常の瞳を持った者が美姫と褒めそやす娘がそなたの化粧品を施したうえで。
それらを目にしてなお、私は、あなたが良いのだ」
「そんなこと言われたって」
「では逆に聞こう。
あなたは私の瞳を褒めていたな。
その瞳が欠けたなら、あなたにはわたしが醜く、夫に値しない男だろうか」
王太子を見つめるうち、頬が熱くなってくるのを自覚したドロテアはあわてて、それを打ち消した。
「王太子殿下が醜いとは思いません。
しかし、私の趣味とはちがいます」
不思議そうな顔を浮かべた王太子が確認する。
「ドロテア嬢、あなたの趣味から私は外れるのか?」
「はい」
王太子はそこで何故かにっこりと笑顔を浮かべた。
そして笑顔を浮かべながら、ドロテアをたしなめた。
「嘘はいけないな」
「えっ」
気づかぬうちに、王太子は、彼女の肌へ真実の眼が触れさせていた。
その魔道具は真っ黒になっている。触れているものが嘘をついた証だ。
「そうか、私は、ドロテア嬢の好みに適っていたか」
王太子殿下は無邪気な表情で微笑まれた。
ドロテアは確信した。
この王太子が極めて悪辣で卑怯な陰謀家だと。
権力の中枢にあり、人を好き放題に動かして、まったく悪意のない笑みを浮かべる。
そのような相手からどう逃げるべきか。
それとも傍らで監視して、隙を探るべきか。
悪辣な王が誕生したなら、国が荒れるだろう。
ならば、我が身を捨ててでも家族や街のみんなのために、殿下を傍らで監視するべきだろうか。
もし本当にそうするのなら、意見できるほど身分もあったほうが良いかもしれない。
拙作にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。




