起こるべくして起こった事件
本題よりも10年ちょっと前のことです。
それは、暑い盛りの季節であった。
その日、フィエナ国最大級の商社「ザ・サン」のトップ、セーウス・コンパニーは普段通り出勤して、自分の居場所…会長用執務室にいた。
普段通り出勤し、普段通り書類に目を通すという、始まりかけたコンパニー会長の日常は、突然、結構静かに終わりを告げた。部屋のクローゼットの中から、ゴトゴトと不自然な音がしてきたからである。
それは部屋の主であるコンパニーしか、決して開けてはいけないクローゼット。普通の物入れスペースのはずなのに、トップシークレット。つまり中身はどうなっているのか、社内で他に知る人はいない。
コンパニー会長がそこを開けると、よれよれの服に安っぽいサングラスをかけた、何とも怪しげな男がいた。もちろん、社内にこんなだらしなさそうな人間はいるわけない。なんとこのクローゼット、外部とつながっている「隠し出入り口」なのであった!
そう、セーウス・コンパニーは、仕事場に秘密の隠し扉を持ち、到底表玄関からは入れないような者達と情報をやりとりする、「裏の顔」を持っていたのだ。
「どうした、お前がここにくるなんて珍しいな。何かあったか?」会長は中の男に話しかけながら、ちょっといやな予感がしていた。
この男は経歴不明、ミスターと呼ばれている会長配下の者達の代表格である。普段は下っ端を遣わすばかりで、自分からはあまりここに来ない。この男が中にいる時点で、何か普段と違うことが起きているといってよい。
「それはそれはえらいことになりまして、皆出払っちまいましたからね。他に来るもんがいないんですよ。」
「一体、何があった。」
「えらいことになりましたよ、とうとう…」ここでミスターの目つきが少し鋭くなった。
「スカーレット先生のお宅に警察が来て、捕まったそうですよ。」
「何だと!」
スカーレット先生…マルス・スカーレットは政治学や政治史学に詳しく、研究の傍ら、市内の実業学校で社会科の教鞭をとっている。そしてコンパニー会長にとっては、学生時代からの友人でもあった。亡くなったマルスの妻ともども、ずっと仲良くしてきた。
「そうか。罪状はやはり…」
「国家を騒乱させかねない罪、というところなんでしょうねえ…ちゃんとはまだ聞いていませんが。」
「あの子はどうした。」
「下の者をお宅に遣わしております。オリーブ夫人もおりましたし、引っ張られていったということはないでしょうが…どうされますか?」
「もちろん、見に行く。」コンパニー会長は迷わず、即答した。
「黙って出かければ返って怪しまれかねん、秘書に一声かけてくるから、お前は先に下に行ってろ。」
「かしこまりました。」
男が姿を消すのと同時に、コンパニーはそっとクローゼットの扉をしめた。
さあ…とうとうきたか。
自分の机や戸棚の扉に(もちろんクローゼットにも)鍵をかけながら、コンパニー会長は今後のことを、意外と冷静に考えていた。
スカーレット氏は、最近、政治学の研究テーマとして、かつてこの国の政治に重要な役割を果たしていた、「魔道士」という存在に注目していた。
しかし今の政権、というより政治の在り方は、その「魔道士」の役割を、単なる迷信として全否定するところから出発した共和制だ。
その観念―「魔道士」なんて所詮インチキなもの―は、ごく普通の一般民衆にもだいたい共有されたものである。
政府からも、普通の人々からも、危険視されてしまいかねない研究。
あまり社会の受けは良くない。(だからこそ自分がいろいろと面倒をみてきたんだけれど。)
もしかしたら、場合によっては、不当な攻撃を受けることがあるかもしれない。頭の片隅では、しばらく前から覚悟しているつもりだった。
だが、何も、今…
コンパニー会長は、重要書類をしまい終えたところで、呼び鈴をならして秘書を呼んだ。
「いかがいたしましたか、会長。」
「わしはもう帰る。寄るところがあるから、馬車は出してくれんでいい。」
「いきなり、何があったんですか?」
秘書はびっくり仰天している。
コンパニー会長クラスの大物が、真昼間に突然1人で出かけるなんて、普通はありえないことだ。
「大丈夫だ!明日の会議にはちゃんと帰ってくるから、気にするな!」
コンパニーは若干乱暴に言うと、あんまり行って欲しくなさそうな秘書をしり目に、勝手に出ていってしまった。
コンパニー会長がミスターと向かったのは、スカーレット氏の自宅であった。
そこでは、ミスティー・スカーレットという彼の8歳になる娘が、まだいるはずである。