流氷の妖精
『ナポレオンフィッシュと眼鏡の君』の続編です。
透明な平たい円筒を横にした形の水槽の中で、1cmにも満たない小さな生き物たちが無数に泳いでいる。
いや、小さな翼を懸命にばたつかせているが、どちらかと言えば「漂っている」という表現のほうが正確だろうか。
「可愛いわねえ」
僕の隣で美由紀さんが呟く。
あなたのほうが可愛いですよ、という言葉はもちろん飲み込んだ。
僕の名前は泉川湧作。社会人一年生だ。
彼女、大西美由紀さんとは一昨年京都で出会い、その後東京で再会して、一緒に水族館巡りをする間柄になって今に至る。
今のところは年上の女友達といったところだけれど、そろそろ関係を進めたいと思っている。
二人してしばしクリオネの水槽に見入った後、ウッドデッキのフードコートに移動した。
雲の形をしたパンのサンドイッチを食べながら、他愛もない話に興じる。
「クリオネって可愛いけど、グロテスクな一面もあるのよね」
美由紀さんが言った。
わりと有名な話なのでご存じの方も多いかと思うが、流氷の妖精、あるいは天使と呼ばれるあの小さな生き物は、実は肉食性で、その捕食シーンはトラウマものだと評判なのだ。
「よくご存じですね。クリオネ――和名ハダカカメガイは、殻を持たない貝の仲間なんですが、同じく浮遊性の貝の仲間であるミジンウキマイマイというのを主食にしていて、捕食の際には頭部から六本の触手を伸ばすんです」
「ええ、動画で見たことがあるわ。それを見て、お父さんの本棚にある漫画を思い出しちゃって……」
「もしかして、人間の頭部に寄生して人を食うやつですか?」
「そう、多分それ」
確かに、パラサイトっぽいよな。
いや、名作と呼ぶにふさわしい漫画ではあるのだけれど、トラウマもののシーンも多いのだ、これが。
もっとも、成体になったクリオネは、ほとんど餌を摂らなくても一年、あるいはそれ以上生存可能で、実際に触手――「バッカルコーン」と呼ぶらしい――を伸ばしてミジンウキマイマイを捕食することは極めてまれなのだとか。
寒い海に生息し、長期間の飼育も難しい、ましてや人工繁殖など不可能に近いとされているクリオネの展示は、ここの水族館でも期間限定だ。
「ところで、殻のない貝ってことは、ウミウシとも同じ仲間ってことなのかしら?」
「ええっと、広い意味ではそうなるんでしょうけど……」
スマホで調べてみると、クリオネは軟体動物門腹足綱翼足目に属しているらしい。
軟体動物は、貝の他にイカタコなども含む仲間だな。で、腹足類が広義の貝の仲間。ウミウシは……、海に生息する腹足類の中で、貝殻を退化させたものたちの総称で、クリオネも含むのかどうかは意見が分かれるところ……。なるほど。
美由紀さんに説明してあげると、彼女は首を傾げ、生物の分類って難しいのね、と呟いた。
まあ、昨今は特に遺伝子による分類の再編が進んでいるからな。外見を基準にした従来の分類と合わない部分も増えてきているようだし、本当に素人には難しい。
美由紀さんも自分のスマホで検索していたようだったが、突然大きな声を上げた。
「うわ、何これ。湧作くん、知ってた?」
彼女が見せてくれたサイトには、たくさんの脚を持ったエビのような生き物の画像があった。背中に何か乗せているようにも見えるが……。
説明を読んでみると、南極海に生息する甲殻類の一種、端脚目に属するプランクトンであるらしい。
で、そいつらの中には、クリオネを捕まえて背中に背負うものがいるのだとか。
クリオネの一種、ナンキョクハダカカメガイは、強い毒を持っていて、捕食者である魚を撃退するのだそうだ。毒を持つクリオネがいる、という時点でまず驚きだな。
しかし件の端脚類は、その毒に耐性を持ち、クリオネを捕まえて捕食者を追い払うのに利用しているのだという。
「うわあ、マジか」
「すごいのがいるんだね」
まったく同感だ。
サンプルが極めて少なく詳しいことはまだ全然わかっていないようだが、驚くべき生態であることは間違いない。
「これ、クリオネにとっては迷惑極まりない話よね」
それはもう。自由を奪われ、餌を摂ることもできないのだから。
「生物同士の関わり合いには、共生と寄生と呼ばれるものがあるんです。寄生というのは、一方が利益を得て、相手側は不利益を被るもの」
「いわゆる寄生虫とかね」
「そうです。で、共生にも二種類あって、相利共生と片利共生に分けられます。相利共生はお互いに益があるもの」
「ホンソメワケベラが大型魚のお掃除をしてあげたりとか?」
「そのとおり。さすがですね。片利共生は、一方には益も害もないもの。例えば、サメの腹にくっつくコバンザメとかです。で、この端脚類とクリオネの関係は、片利共生と書いてありますけど、これ完全にクリオネは害を被っているわけですから、寄生というべきでしょうね」
「本当そうよね。敵を撃退するのに利用するのでも、キンチャクガニなんかはどっちも益があるんでしょ?」
「そう言われていますね」
ハサミに小さなイソギンチャクを挟んで振り回すキンチャクガニ。ポンポンを持って応援しているようだと、その筋では人気の生き物だが、これはイソギンチャクにとっても移動が可能になるというメリットがあるとされている。
「やっぱり、お互いにメリットがないとね」
「そうですね。あの……どうでしょう。僕たちも相利共生しませんか?」
「はい?」
美由紀さんの目が点になった。
僕の馬鹿! いきなり何言ってんだ!
いや、もちろん前々から真剣に考えていたことではあるのだけれど。
「す、すみません。僕たちお付き合いしているわけでもないのに……」
「えっ!? 私たちお付き合いしてないの!?」
今度は僕が驚く番だった。
「そりゃあ、高校生みたいに『付き合ってください』、『はい』なんてやり取りはしてないけど、何度もデートしてきたじゃない。手を出してこないのは、私のことを大切にしてくれているからだと……」
そう言って、美由紀さんは頬を赤らめる。
あー、そうなんだ。美由紀さんもデートのつもりだったんだ。
「あの……、じゃあ僕たち、両想いってことですか?」
「ええ。私はずっと好ましく思ってたわよ。でも、いいの? 私七つも年上だけど……」
「そんなの気にしてません!」
「そう、ありがと」
そう言って微笑んだ美由紀さんは、世界で一番可愛かった。
――Fin.
末永く爆発しろ(笑)。
水族館は品川水族館をイメージしていますが、関西在住の身としては気軽に現地取材もできないので、ネットで拾った情報で書いています。何年も前に一度だけ行ったことはあるんですけどね。