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漱石が描いたのは、近代知識人の苦悩であるが、それはその社会の内部に位置づけられないものだった。位置づけられないものだったから悲劇だったので、最初から位置づけられている悲劇など意味がないだろう。村上春樹の小説において、彼の作品が救い、癒やしと思っているものは、彼の限界線を形作っているのだが、彼はそこから抜け出られない為に、悲劇を作る事はできない。彼の作品の主人公は、彼の内部で勝手に調和する。
調和とは、偉大な作品においては作品という形式において成されているものだと思うが、村上春樹の主人公は主人公の内部で調和する。これは、自己啓発本を読んで勝手に世界を合理化する人に似ている。彼は自分の内部で救いと答えを見出すが、それは救いと答えを与える人々との共同で、それなりの人間世界を創り出したという事に由来している。簡単に言えば、同質の人間が寄せ集まって互いに力を行使しあえば、そのイデオロギーが現実化したと思えるし、自分は正しいと思える。ところで世界の理不尽は世界の果てに眠ったままだ。
漱石に戻ろう。漱石作品における主人公の意志、行為、それ故の悲劇は確かに明治知識人の悲劇であったが、我々はもう明治人ではない。だが、漱石の作品が特に今でも読まれているのは、そこに普遍的なものがあるからだろう。この普遍性とは、人間は主体的に生きようとした時、世界に反する、しかしそれでも主体的に生きる事に人間の偉大さがあるという事ではないか。「それでも地球は回っている」と言ったガリレオなどが思い出されるが、主体的に生きるとは自分勝手に生きるという事でもない。道徳法則を破るというものとも微妙に違う。いずれにしろ、自分達がはまりこんでいる世界観を客体化する事は、それを見る主体(自分)を客体的に取り出す事を意味する。優れたものは、常に、世界との相互関係を生み出す事によって自己をも作り出す。
現代の社会は「ありのままの自分でいい」といったようなふやけたメッセージを送り続ける事によって、自己を生み出すのを否定し続けてきた。今の社会は、極めて緩やかで優しい全体主義で、この全体性と一致している時のみ、人は自分でいられるような気がする。自分というのは世界から与えられていて、自由とは、稼ぐ自由と使う自由である。望むのは金と名誉だが、それらは数値化されて一元的にこの世界を支配している。
漱石の時代においては、「恋愛」というような事柄も、北村透谷の自殺や、「それから」の代助のような悲劇を生めたわけだが、現在ではむしろ積極的に奨励されている。「センセイの鞄」は恋愛小説だが、悲劇をいかに排除するかというのが命題にすらなっているような感すらある。時代が変わっても、上っ面だけが同じにしようとすると、形骸化し、中身は空になる。今の文学はそれを明かしているように見える。漱石の描いた物語は、また違う観点から読まれていくべきなのだろうという気がする。それはどういう観点なのだろう。
現代においては、自由という形によって圧制が支配している。主体的に生きるとは稼ぐ事と使う事。文学とは何かと言えば、せいぜい芥川賞ぐらいしか意味しない。そうした価値観が支配しており、これに対する抵抗も一度メディアに載ると、他のあれこれと同じものに見えてくる。様々なものは一元化されている。
漱石の描いた悲劇は、もし再現しようとすれば、全く違う形にならざるを得ないだろう。漱石は時代もあって、近代作家たらんとしたし実際近代的な作家だった。僕は、時代的には漱石よりも前のドストエフスキーの方に現代性を感じるし、詩人のペソアやカフカが感じていた疎外感は現代のものであると思う。それはまだはっきり形として掴まれていない悲劇であり、主体そのものが世界によって決定されている以上、主体的に生きるとは沈黙として生きる事、そうして己を語るのは不可能だと悟るという事を意味しているのかもしれない。現代においても、漱石が描いたような悲劇はなくはないだろうが、昔とは形を変えているだろう。
人間が自分自身になろうとする時社会との軋轢を感じるとは古いと共に新しい命題だが、これを表皮的な問題にすり替えていくと、よくありがちな、大したものでもないのに漱石を越えたとかドストエフスキーを越えたとか喧伝する事になる。本質は形を変えて受け継がけれれるだろうが、形だけを見る者は本質を逃すだろう。
明治知識人の苦悩はある意味で救済され、そこに生の悲劇は消えたが、時代が前進する時、少数の「個」にその問題が覆いかぶさってくるという大きなドラマもその領域から消えた。現在はそうしたドラマが、商業的な場所、メディアに脚光を浴びる場所にあるとされているが、そういうものは既に終わったものを繰り返すに過ぎないだろう。スマホがあるから、誰でも世界に発信できるから良い時代になったなどとは、発信する価値それ自体が世界によって前提されていると自らの中で是認できる者だけが言う言葉である。
現在において悲劇は沈黙の場所にある。漱石の描いた悲劇は現在では形を変えている。その場所を特定するには、漱石の作品の奥にある本質を掴まなければならない。そうして、その本質とは僕は主体的に生きる事が公的なものと矛盾するという事実にあると思う。しかしながら、公的なものの前進も大抵、最初は個人の悲劇的人生から始まる。歴史は個人を引きずり、個人を犠牲にして前進する。後から来たものは全てを知っていたかのような満足げな顔で周囲を見渡すが、彼らの目に、先駆者として犠牲になった者の死体は何か違ったものに映る。人々に天才が渡る事はついぞない。ある意味では人々の方が天才よりもずっと賢く、利口なのだ。漱石は未だ我々の手に余っているように僕には思える。