第44話 昭和4年1月2
翌日の日曜日。(2030/1/6)
堀口たちと不動産屋を回った。公園の穴まで200メートルほどに3LDKの物件が見つかり、入居は翌週の日曜日からということで二人はすぐに手続きした。事務所の方は、当面俺のうちを使うことで間に合わせ、事務所をちゃんと用意するのは俺がフリーになってからということで落ち着いた。
「じゃあ、引っ越し準備は土曜日中だな?」
「荷物が多いわけじゃないし準備も業者さんに任せるから大丈夫です」
「わたしもそれでいきます。今はシーズンじゃないから、予約は簡単だと思います」
「確かにそれは言えるな。なんであれ、次の土曜は二人はお休みで引っ越しを見てくれ」
「はい。その日は先輩、一人で腰を壊さないように頑張ってください」
「ああ。今度の土曜は主に食料品を運ぶよ」
二人は部屋の中を片付けられるだけ片付けてしまうと言って、昼食を一緒に摂ったあと帰っていった。俺の方はうちに帰ってから一週間の間に溜まったうちの中の仕事を片付けておいた。われながら働き者だとは思う。
夕食を外食で済ませた俺は、パソコンで退職願の例文を見ながら退職願を書き、封筒に入れて表に『退職願 山田幸太郎』と書いて会社用のカバンに入れておいた。
そして運命のというか、それほど大げさなことではないが、週が明けた月曜日(2030/1/7)。
ちょっと早めに出勤して、課長が出勤して席に着いたところでカバンの中から退職願を出した。課長の机の前に行き、退職願を机の上に置き『長いことお世話になりましたが、会社を辞めることにしました』と言った。
「おいおい、いきなり、何を言い出すんだ? 考え直したらどうだ。お前はおそらく4月には係長だったんだぞ」
「会社に不満があるわけではないんですが、やりたいことがありまして」
「やりたいことは勝手だが、それで将来食べていけるかは分からないぞ」
「おっしゃる通りですが、いちおう貯えもありますし」
「そうか。うーん。いちおうこれは預かってはおくが、意思は変わらないんだな?」
「はい。引き継ぎはしっかりやるつもりですから、そこは安心してください」
「分かった」
何とかなったようだ。
そのあと自分の席に戻って仕事の準備を始めた。
鶴井が出社して来たので、課長に退職願を出したことを小声で伝えておいた。
『出したんですね。わたしはいつ出したらいいでしょう?』
『今月の末くらいでいいんじゃないか?』
『分かりました』
始業時間間際になって堀口が滑り込んできたので、堀口にも教えておいた。
『先輩、わたしたちの言葉を真に受けてほんとに退職願出しちゃったんですか!?』
『おい! なんだよ、それ!?』
『冗談ですよ。びっくりしたでしょ?』
『しないよ』
『またまた』
『もういいよ。始業時間だ、仕事しろよ』
『はいはい』
その日の午後、人事に呼ばれた。そこでは淡々と退職手続きの説明を受けた。人事にとってはある意味他人事だし、そんなものだろう。後任が決まるまでルーチンをこなしながら引き継ぎ用のメモでも作っておけば、この会社への義理は果たしたことになるだろう。
この週はいつもより1時間長く会社にいて、引き継ぎ資料を作った。事務的なことは資料に書き込んだので、あとは後任のスキル次第。俺にとっては無関係。俺の仕事自体は会社にとって不可欠というわけでないので、後任がすぐやってこないかもしれない。それも俺にとっては無関係。3月31日付で退職し、3月8日の金曜日を最終出勤日とした。退職日までの出勤日は有休とすることにした。だいぶ有休が余ることになるが、それは仕方がない。
よく小説などでは元の会社と喧嘩別れのようにして退職願を叩きつけるようなこともあるが、どういったいきさつがあっても、退職願を叩きつけたところで何も得るものはないので、やめたほうがいい。将来何かの縁があるかも知れないしな。
そして土曜日。(1929/1/12)
一人で、レトルト食品やカップ麺、インスタントコーヒーなどを運んで理研に届けることになった。食料品だけなので俺が理研まで行く必要はないような気もしたが、いちおう給料をもらっている関係で「今の会社を3月いっぱいで辞める」手続きをしたことを報告するため出勤することにした。うちの中の片隅に隠れていた佐伯祐三の『ガス灯と広告』のことを思い出したので、これも運んでいくことにした。
荷物を向こう側に運び入れたところ、良く晴れてはいたがすごく寒かった。雨が降っていたら絵は運べないからな。
荷物をトラックに運び終えた俺は、一人だったのでトラックの助手席に便乗して理研に向かった。どうせだったので、スマホを取り出してトラック越しに街並みなどを撮影しておいた。外から見ても俺が何をしているのか想像できる人間はいないだろう。
トラックは10時少し前に理研の本館前に到着し、荷物を玄関の中に下ろしてから、例の絵を持って所長室に行った。
そこで会社を辞める手続きを済ませたことを大河内所長に伝えた後、風呂敷包みに入れた桐箱を取り出して蓋を開けた。
「佐伯祐三の『ガス灯と広告』というこの絵なんですが、わたしの時代、結構な値打ちが出る絵なんです。それで買ったんですけどね」
「それをここに持ってきたのはなぜかね?」
「これって、実はわたしの時代ではどこかの美術館に飾られてるんです。つまり、この絵は見た目新しいですし、誰が見ても贋作になります」
「なるほど」
「そういうことですので、わたしが持っていても仕方ないので理研に差し上げますから、理研のどこかに飾っておいてください」
「了解した。しかし、君が言っていた『君がここに来たことで世界が分かれた』という仮説のうち『世界が分かれた』という証明ではあるな」
「そう言えばそうですね」
「もし、二つではなく、もっとたくさん分かれれば、同じものがその数存在するというわけか」
「そうなるんでしょう」
「それはそれで不思議でもあるし、少し怖い面もあるな」
「そうですね」
「分かれた世界で、自分に会うこともあり得るわけだし」
「わたしの場合、幸い、わたしが生まれるまで80年近い時間差がありますから自分に会うことだけはないです」
「わたしも生きている間に新しい日本を見ることはないだろうがね」
「そうとは限りませんよ。日本はこの理化学研究所のおかげで未来に向かって加速していますから」
「そうだったな」
「それでは、今日はこんなところで失礼します」
「それじゃあ」
理研からの帰り道。ふと思いついたんだが、俺の方の歴史の中で、俺が運びこんだ品物に対応した品物のうち多くは100年の間に壊れてなくなっているだろうが、価値が高いものほど残っている可能性が髙い。つまり、これまで俺がオークションなどで売った物品は、世界に2つ存在しているかもしれない。カルティエの『タッティ・フルッティ』なんかはおそらく残っていたはずだ。さらに言えば、100年前理研が買ったという記録は俺の世界のカルティエにはなかっただろう。いや、ロンドンはドイツから爆撃を受けているから、その時、記録がなくなった可能性がある。おそらくそうなんだろう。現にアレは本物として高く売れた。あれが、カルティエのパリ本店だったらそうならなかったかもしれない。結果オーライということにしよう。なんであれ、今後そういったリスクは冒したくない。絵画と一緒で、あまり高額なものとか、一品物は避けたほうがいいだろう。
翌日の夕方(2030/1/13)。堀口から自分と鶴井の引っ越しが終わったとメールがあった。
引っ越し祝いに蕎麦でもごちそうしてやろうか? と返信したら、電話がかかってきた。
『引っ越し祝いは引っ越してきた方がするもんだから、今日はわたしが奢ります。それでどこに行きます?』
「いつものサの付くファミレスでいいんじゃないか?」
『そうですね。それじゃあ、20分後にお店の前で』
「了解」
服を着替えてからうちを出て、店の前で堀口と鶴井に合流した。
店に入って店員たちの元気な声を聞きながら、4人席に着いた。
最初に生ビールとつまみを頼んで「引っ越しおめでとう」「「カンパーイ!」」
「いやー、近所になったな」
「そうですねー」
「スーパーなんかで鉢合わせするとそれはそれでバツが悪くないか?」
「先輩とわたしたちだから関係ないでしょ? 先輩のうちがもうちょっと広ければ、わたしたちが転がり込んだって良かったんですし。先輩と私たちの関係なら許されるでしょ?」
「許されるわけないだろ!」
「また、照れちゃってー。先輩、顔が赤くなってますよ」「ほんとだ!」
「なってないよ。ちゃっちゃと料理を頼むぞ!」
「へーい」「はい」
適当に料理を頼んで、
「向こうは今1929年だ。第二次世界大戦が史実通り1939年に起こるとして。あと10年しかない。その間、稼げるだけ稼がないとな」
「そうでしたね」
「とはいえ、10年も稼いでいれば、それなりの資産を持ってるんじゃないか?」
「そのつもりですけどね」
「でも、こっちの年金とか、その他もろもろ、会社員じゃなくなるから自分でしなければいけませんよね?」
「税理士に丸投げすればいいと言えばいいけど、仕入れ先を聞かれたらちょっと困るけどな」
「でも、伝票がなければ、売り値が全額利益になるだけだから、税務署から見れば『いいお客さま』でしょう」
「そういう見方もあるな。違法なことしてるわけじゃないわけだし」
「ですよね」
「それはそうと、わたし以前から気になってたんですが、わたしたちが穴をくぐるとき、なぜか誰も気にしてませんよね?」と鶴井。
「そう言われれば」
「不思議だよな。ただ、あの穴だって俺と俺に接触している人間にしか見えないわけだから、何か不思議な力で、俺たちの存在が他の人から隠されてるのかもな?」
「そう考える以外にないですものね」
「神の見えざる手?」
「なんであれ、結果オーライを単純に喜んでいればいいんじゃないか?」
「それもそうですね。悩んだところで何が変わるわけじゃないし」
サの付くファミレスで午後8時ごろまで飲み食いした。勘定は堀口が持ってくれた。
「堀口、ごちそうさま」
「どういたしまして。まだ早いから、駅前にあるカラオケに行きません?」「賛成!」
「カラオケかよ。俺歌えないぞ」
「そういう人に限って歌えるんです」
「それ、逆の意味で偏見だから」
「なんでもいいから行きましょ」
堀口に引っ張られるようにしてカラオケ屋にたどり着き、部屋に案内された。
飲み物と簡単なつまみを頼んだら、すぐに堀口が機械を操作して歌い始めた。
モニターに映った曲の題名は『tomorrow the world 銀河をこの手に2』だった。もちろん聞いたこともない曲名だった。
その間に鶴井も歌を決めて、予約してた。
「山田主任は、何入れます?」
「俺は歌うのは決まってるから、自分で入れるよ」
コントローラーを渡してもらって俺も1曲入れておいた。
その間堀口が歌っていたわけだが堀口のくせに英語曲、しかも結構うまかった。
堀口が歌い終わったところで、盛大に拍手しておいた。エチケットだし。
堀口が歌っている間にやって来た飲み物を手にしたところで、鶴井がもう一つのマイクを持って歌い始めた。モニターに映った曲名は『Guided by Stars -星よ導け-』だった。全く聞いたことがない。まさに現代音楽ディバイドだ。
この曲もやっぱり英語曲だった。鶴井のくせに。しかもうまい。畜生。俺、帰っていいかな?
鶴井が歌い終わったとき、エチケットとして盛大に拍手してやった。
「それじゃあ、次は先輩ですよ。それで、何を歌うんですか?」
「聞けば分かる。誰でも知ってる歌だ」
俺はマイクを持って立ち上がり、モニターに流れる歌詞を見ることなく歌った。
「きーみーがーあよおは ……」
すごく部屋の中が静かなような?
俺が歌い終わった後、鶴井だけ拍手してくれた。
そのあと、堀口と鶴井が5曲ずつ歌ったところで、カラオケはお開きになった。ここは鶴井が払ってくれた。
「それじゃあな」
「先輩にも弱点があったんですね!」
「何とでも言え!」
「ふふふふ」
カラオケ屋の前で二人と別れてうちに帰った。どうせまた堀口はカラオケに行こうというだろう。行かないというのも業腹だ。俺も現代音楽をたしなんだ方がいいかもしれない。そして、いつかギャフンと言わせてやる。




