第48話 “お嬢さま”のうつろう意識
「“お嬢さま”、無事ですか……っ」
遠くで、“わけ知り顔”が自分を呼ぶ声がきこえる。
しかし、“お嬢さま”は指一本、動かすことができなかった。
視界にうつるのは、研究室の無機質な壁だけである。
(立ちあがる、力が出ない……)
なぜ立ちあがらないといけないのかも、わからなかった。
(どうして、“可憐”さまは……)
脳内でぼんやりと問うが、助けようとした自分を“可憐”が押しのけた理由が、わからない。
過去の苛烈な修行で死にかけたことは何度もあったが、しかしそれらを超えるほどのデス畳の攻撃を、無防備な状態で受けてしまった。
(きらわれてしまったのでしょうか……)
以前の自分なら、こんな気もちにはならなかったんだろうなと、思った。
他人に、期待したことなんてなかったから。
幼いころからずっと、学校には多額の寄付をし、習いごとには高額の報酬を出していたから、まわりの大人は彼女のきげんを損ねないよう、へつらい、慎重に扱ってきた。
同級生は、あそびも知らず自分の能力をみがくことにすべてをそそぐ彼女を、奇異な目で見た。
体育で活躍し、勉強で首位をとろうと、ただ、遠くから見ていた。
彼女のまわりには敬遠と、嫉妬と、陰口とがあった。
ときどき、教室のすみから、聞こえるような声で貶めてくる人間もいた。
「お金で成績買ってるんだってよ」と根も葉もない話でくすくすと笑っていた。
“お嬢さま”は、無言のままその子の眼前に立ち、相手をじっと見た。
そうしていると相手はひっと叫んで逃げていった。
「『金持ちケンカせず』という言葉がある。それは一面において、正しい」
という祖父の教えがあった。
「必要な衝突もあるが、大半は損である。見極めよ」とつづいたため、これが衝突すべき場面なのかを見極めようとしていただけなのだが、相手は目を合わせつづけるさえできなかった。
彼女に他人と衝突すべき場面などなかった。
他人に期待したことなんてなかったから。
学校生活は過ぎ去っていくだけのものでしかなく、15歳のときに試験として祖父から役員に登用された小規模な会社の事業を、円滑に進めていくためになにをなすべきか、そちらに注力するほうが今後の人生における影響が大きいものと考えていた。
ほかのことはすべて余事であった。
大学を決めるときも、祖父の期待を早くに失っていた父の「できれば自分の出身大学に」という意向ではなく「他者にゆだねるな。迷うな。必要な情報を集め、即座に自分で決断する経験を積め」という祖父の命に従ったのは、そういう自分の底意地のわるさが出ているのだと思う。
あの厳しいおじいさまが、自分には期待してくれている、といううすぎたない優越感が、父の意向をないがしろにしてしまったのだと思う。
そんなことを、かつてぼそりと“カタブツ”に語ったことがあった。
「ふむ……キミは、『ブレない』というだけなんじゃないか?」
“カタブツ”の返答の趣旨がわからず、“お嬢さま”は怪訝そうに眉をひそめた。
「大学を選ぶにあたって、最優先すべきものとはなんだろう。学びたいことであったり、環境であったり、それは人によるだろうが、少なくとも『家族の意向を優先する』ではないはずだ。そして、日ごろのキミを見ているかぎり、おそらくキミは、自分の『最優先すべきもの』から目を離さなかっただけだろうと思うんだ。その結果として、この大学を選んだ。それだけのことであって、キミは『どちらの意見に従うかを決めたのではなく、おふたりの意見を参考にしながら、自分で決断した』というだけなんじゃないか? そのうえで、お父上をないがしろにしてしまったのではと憂う……それはやさしさだよ。意地のわるさなんかじゃ、ない」
とうとうと話したあと、彼は照れくさそうに鼻をかいて笑った。
「それに、キミがその決断をしてくれたおかげでぼく……いやわがサークルの面々もキミと出会えたわけだからね」
思えば、彼はこれまで会ったことがないタイプの人であった。
もっと以前のある日、サークルで利用している部室へ入る間際で、
「“お嬢さま”は、自分がちょっとできるのを鼻にかけて、できない人の気もちを理解しようとしないよね」
という陰口がきこえたことがあった。
彼女はそれを是として受け容れた。
なぜなら、人が、ほかのだれかの気もちを理解することなどできようはずがない、というのが彼女の思想であったから。
その場に必要と思えばおもんぱかるが、それはあくまで推測のいち類型にすぎぬのであって、理解からはほど遠いものと認識していた。
タイミングがわるいから、また出直そうと考えていると、“カタブツ”の大声がひびいた。
「本人がいないところで言うのはよくないぞ! ぼくが連れてきてあげるから、本人に直接伝えてみるといい。なにか関係改善につながるかもしれない」
「は? うざ」
あきれたように、陰口をたたいていたふたりは部屋を出ていった。
それを見送って、入れ替わりにそっと入ると、“カタブツ”はひとり首をかしげていた。
“お嬢さま”は、完璧な笑顔をつくって頭をさげる。
「“カタブツ”さま、ご配慮ありがとうございます。でもわたくし、陰口には慣れておりますし、“カタブツ”さまの立場がこんなことでおわるくなるのも本意ではございませんので、今後はどうぞお気になさらず、お流しくださいまし」
“カタブツ”は、今度は“お嬢さま”へと大声をあげた。
「陰口になんて、慣れるべきではない! キミの心が、傷つくだけじゃないか」
真剣なまなざしでこちらを見るので、“お嬢さま”はおどろいた。
相手がだれであれ、他者と衝突することをおそれない、自分とは異質な人。
つねに人との距離を感じてきた彼女にとって、自分の真正面に立ち、媚びもてらいもなく正視してくる人ははじめてであった。
下からおもねるように見あげるでもなく、上から視線をはずして向きあうのでもなく、ただ正面からそのひとみに、等身大の自分をうつしている。
そのひとみには、いつのときも、等身大の自分がうつっている――
それを反映するように、少しずつ、サークル内でもありのままの自分でふるまえるようになっていった。
(はじめて、好きだと思えた人だったのにな……)
冷たい床の感触をほおに感じながら、ひとすじ涙がこぼれた。
泥水のような疲労が、彼女の全身を満たした。
“可憐”とも、いっしょに出かけたりせがまれて小さいころの写真を見せたりと、仲よくなれたつもりでいたのに、自分のひとりよがりだったんだろうかと、泥濘のなかにずぶずぶと沈んでいくようだった。
(彼の死を知って、打ちのめされて、それでもと這うようにいぐさを集めて、顔を洗い、騒ぎを聞きつけてようよう研究室にもどってきて、それで、このざま……)
「もう、わたくしにできることは、ない……」
そう脳内の泥があふれ出たようにつぶやくと、「たみ!」と、“お嬢さま”のからだをゆするものがある。
――ミニ畳である。
心配そうに、彼女の顔をのぞきこんでくる。
「ごめんなさい、わたくしは、もう……」
謝罪を口に出すと、こみあげてきた血も吐いてしまった。
ミニ畳は「たみ~」と泣きそうな声を出して、ほおをさする。
さらに、デス畳に吹き飛ばされたメカ畳が、すぐ近くの壁にぶちあたってとまった。
ミニ畳は飛びあがっておどろく。
メカ畳は、表面の機械の一部が剥がれ、お、おとうめきながら、それでもからだを起こそうとする。
『デス畳を……殲滅する……』
すがりつくように、復唱する。
『それがワタシの……存在、理由……』
“お嬢さま”は、ならんで横たわるメカ畳へ声をかけた。
「いぐさを……エネルギー源として吸収するとおっしゃいましたわね。デス畳が人を喰らうように、あなたも、わたくしを食べてエネルギーとすることはできませんの……?」
ふたりのあいだでオロオロとしていたミニ畳が、愕然としたのち、いさめるように“お嬢さま”をペシペシとたたく。
メカ畳は、内部で計算をするような電子音をひびかせたあと、こたえた。
『……不可ではないデス。しかし、もしそうしてしまったら、ワタシも人間にとってデス畳と変わらぬモンスターに、なるのではありませんか? ワタシは、自己の存在理由を、否定することはできない……それに、あなたも、命が惜しくはないのデスか』
「わたくしは、もう……いいのです。あの方と同じ、このお屋敷で死ねるのなら、もう、それもいいかと……」
『あきらめては……いけません。あなたに、存在理由は、ないのデスか』
「存在理由……」
“お嬢さま”はぼそりとくり返した。
「家族のため、家業のため、そこで働いてくださるみなさまのため、なんだかたくさんあったような気もするのですけれど、いまこのときにおいてみると、どれもそぐわない気がいたしますわ……。やりたいこと、やりたかったことばかりが、頭を占めて……」
“お嬢さま”は目もとをぬぐうこともできず、こめかみが何度もぬれるのにまかせた。
「あの方と、いっしょに出かけたかった。おいしいごはんを、いっしょに食べたかった。ふたりで、手と手を重ねて、ただおだやかなときを、ずっと……」
『…………』
「あなたには、ないのですか。存在理由ではなく、自身の望むことは」
メカ畳は、ふたたびピポパポと電子音を体内から鳴らした。
それから、聞きとれないぐらい小さく、つぶやく。
『……畳として生まれてきたからには、一度ぐらい、だれかをのせたかったデス。お茶を一服、ワタシのうえで……おだやかなときを』
それから、自虐するような調子でつづけた。
『まあこの鋼のカラダでは、望み薄デスが』
この場に似合わしくないと思いつつ、ふたりはクスリと笑った。
「……ご歓談は、終わりかな」
嘲弄とともに、のそりと、デス畳が近づいてきたのはそのときだった。




