第七話:策略
結論から言えば、 祇音達は結局牛鬼の住処をを見つけることは出来なかった。
散々歩き回って太陽が西の地平線に顔を隠し始めたのを山中で見届けると、 最終的に二人して昨晩泊まった小屋で再び牛鬼が襲ってくるのを待ちかまえる運びになった。
朝に出たときにはまだ中の空気は囲炉裏の炎で大分暖まっていたのだが、 当然隙間から差し込む風が混じってすっかり外気と変わらぬ温度まで下がってしまっていた。
皇が手早く火をつけているのを横目に、 祇音は冷たい床に座り込んで帯に挟んでいた矢立――墨壺と筆を組み合わせた携帯の筆記用具――を取り出す。
祇音は使った札の補給をしようと細く切った和紙を更にその横へ置いた。
やや薄暗かった室内に火が灯り、 光と熱が満ちる。
秋口とはいえこの時分になると大分気温が落ちてきて、 かじかんだ手を囲炉裏に翳して掌の開閉を繰り返した。
皇は祇音から見て左側の辺に胡座をかき、 眠るように目を瞑っている。
祇音は大分ぎこちなさが取れてきた指先を確認すると、 筆をとって和紙に符を書き込んでいく。
基本的に祇音と皇の間にはあまり会話がない。
祇音の場合は喋るときには喋るのだが、 一人旅が長かったせいで同行者との会話がどのようなものか良く分からずにいたし、 そもそも皇という男は極端に無口なので、 無理に話しかける必要性もなかった。
必要最低限の会話しかしないというほど無愛想な関係でもなかったのだが、 こうして二人の間に長い沈黙が落ちるのはままあることであって、 少なくとも祇音はそれを重苦しく感じたこともなかった。
――が、 この沈黙は普段と些か趣が異なる。
祇音は顔だけは下に伏せたまま、 ちらりと皇の様子を窺った。
この男は決して油断をしない。
何時如何なる時、 如何なる敵が現れても存分に戦い抜けるように用心する。
今こうして目を瞑っているのも、 浅い睡眠で体力を温存しようとしているわけではなく――明るい空間に目が慣れないようにしているのだ。
牛鬼が襲ってくれば外に出て戦わなければならない。
此処とは違って淡い月光のみが光源の暗闇では、 夜目が利かなければ十分に動き回ることも出来ない。
しかし室内に祇音だけを残して外で待機しているのも何らかの不測の事態が起こった際の対応が遅れてしまう。
そのための打開策、 或いは妥協案。
こうやって常に祇音を守るために気を張っていることを皇は決して口に出すことはない。 けれど祇音は自分を庇護するように立ち塞がる熱に気がつかないほど鈍感ではない。
一貫性を持ち、 決してぶれない態度を言外にとり続ける皇だからこそ、 祇音は彼を信頼し受け入れているのだ。
だからきっと、 彼が祇音に本当を言わないことにも理由がある。
祇音のために、 敢えて言おうとしないのだと落ち着いた頭で考えれば十分察することが出来るのに――けれどそれが気に喰わないのだと、 思ってしまうことは我が儘なのだろうか。
苛立ち故に黙っている祇音に、 その由縁を察せられないまま沈黙を守る皇。
漂う緊張感に集中を保つことが出来ぬまま、 祇音は直ぐに札を書く手を止めた。
「――鎧に現状を知らせる必要があるわ。」
結局沈黙に耐えられなくなったのは祇音の方だった。
皇は瞑っていた左目を僅かに開いて此方を見る。
「手段は?」
「ないって言ったら、 あんたはこの山道を走り抜けて伝達してくれるわけ?」
「……くだらん。」
祇音が意地悪く問い掛けたのに、 皇は表情一つ動かさないまま言い捨てる。
そんなことするはずがない。
皇の一言を脳内で補完しながら、 どちらにしてもさせるつもりもなかった祇音は皇の疑問に回答するべく和紙を一枚掲げた。
「式を使うわ。」
祇音はそう言いながら、 鎧に向けて端的な状況説明をさらさらと紙に書き記す。
更にそれを折ってややぶっ格好な鳥のような形にすると、 完成したものをみせるために皇へ手渡した。
「そういえば聞いていなかったけど、 あんた、 式についての知識は?」
「――胡蝶が使っていたのを見たことがある。 俺の国にも悪魔――化け物を使役する類の術者は居た。」
「そ、 じゃあ軽くだけ説明するけど式は大まかに分けて二種類のものがあるの。 一つは既にこの世に存在している妖や低級の神なんかを力でねじ伏せて家来にするもの。 もう一つは自分の思念や力を依り代に与えてそれを使役するもの。 私は前者のような式は使えないけど、 後者なら使える。」
祇音は言いながら、 皇の手から鳥を模した和紙を受け取って、 今度はそれに三度息を吹き込む。
胴体に比べてやや小さめな羽が徐々に動き出して、 やがて祇音の掌から離れてそれは宙へと舞い上がる。
行け、と短く命令した言葉に従うように鳥はまるでその姿からは想像も出来ぬスピードでもって一直線に戸口まで飛んでいくと、 羽を畳んで隙間から出でた。
そうして祇音が命を与えた鳥の式がばさりと夜を駆けていくのに満足げに頷いたところで、 皇が独り言のような口振りで言った。
「……お前が式を使っているのは初めて見るな。」
「余り使わないの、 得意じゃないから。 力の方向性が違うのよ。」
「というと?」
「鎧も言ってたし、 あんたも知ってるでしょ。 私は邪気を吸い込み浄化するのが基本なの。 力そのものを使役するのは本業じゃない。 それでもこういう時には便利だし、 知識としては学んでいるけれど――そうね、 例えば式の使役に長けているのは陰陽師。」
祇音は胸元に納めている黒真珠をそっと押さえながら、 更に説明を加えていく。
「この真珠を届ける土御門家の人間なんかのお家芸よ。 尤も祖たる安倍晴明のように驚くほど強力な式を操れるような人間は既に居なくなってしまったらしいとは聞いているけれど、 その辺は良く分からないわね。」
「成る程――それで?」
「それでってなによ。」
「理由があるんじゃないのか? 今、俺にその話をした理由が。」
鋭く問われた言葉に祇音は一瞬口を閉ざす。
これは小さな当てつけのようなものだ。
皇がそれを問わないままに終われば、 祇音から改めて何かを言うつもりはなかった。
特別な変化が起こらずとも、 きっと何時か祇音の苛立ちは収まっていく。
心に舞い上がった澱も何時かは奥底に沈んで、 澄み切った上澄みで大半が満たされれば、 昼間のように皇に八つ当たりすることもなくなるだろう。
皇がそうしたように、 上辺だけの本心でこの同行者と付き合い続けるのもあながち間違った選択ではないのかもしれなかった。
――けれど、 皇はそれを問うたから。
祇音は一人よがりに出た賭けに勝ったような心持ちになりながら、 余すことなく内心を伝えるための言葉を慎重に選んだ。
「私にはあんたに無い知識がある。 それを使う頭も力もある。 あんたは強いわ、 一人で私を守りきれるくらいには。 でも私だって強いわ。 あんたに出来ないことを私は沢山出来る。 それなのにあんたは、 私を一人の人間としてすら認めてくれない。」
「……何が言いたい。」
「あんたの守り方が気に喰わないって言ってるの。 まるであんたは私に危険を教えない。 遠ざけようとしていることすら語らない。」
そんな守り方を祇音は望んでいなかった。
自身を守る者が、 祇音のあずかり知らぬところで労力を費やしていることを知らないまま笑っているような能天気は性に合わないのだ。
「何もかも教えろなんて言わないわ。 あんたにはあんたのやり方があるんでしょう――でもね。 でも、 教えられないことすら教えられない程度の信頼感しか持っていないなら、 中途半端に私の力量を認めている素振りを見せないで。」
祇音が記憶している限りの人生において、 皇のような距離感の者は居なかった。
養父や胡蝶のように特別近しいわけでもない。 さりとて行きずりというほど縁遠いわけでもない。
祇音をどのように思っていようと関係ないと割り切れるほど関心が薄いわけでも、 濃いわけでもない。
信頼されていると思っていたからこそ、 そうでないと分かったときの落差が大きい。
冷静かつ明確に告げようと思っていた本心は、 結局のところ支離滅裂な感情論で終わってしまった。
皇がどのような反応を返してくるのか、 しんと静まりかえった室内でそれを待つことも苦痛に感じて居たたまれない。
祇音は皇に向けていた目線を外した。
「それがお前が不機嫌だった由縁か?」
「……そうよ。」
短い肯定と共に首を縦に動かした祇音は、 突き刺さるような皇の視線に表情を堅くした。
再び二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
「――――俺はお前の用心棒、 お前を守るための壁だ。 それ以上でもそれ以下でもない。 壁は跳ね返したものを一々語ることはしない。」
暫くして耳に届いた皇の声に、 祇音の胸が跳ね上がった。
「壁が何も語らないのは、 口を持たないからよ。」
「壁が口を持たぬのは語る必要性が無いからだ。」
もう一度皇の表情を窺う勇気もなければ、 音のみでは余りにも情報量が少ない。
さりとてそれでも分かったことは、 皇が突きつけた遠回しの否の意だ。
唇を噛み締めた祇音に、 皇の手が伸びてきたのが視界の端に映った。
拒絶する暇もなくその手は祇音の黒髪を結ぶ紐を解き、 そのまま流れるような動作で瞼の上に乗った。
「牛鬼が現れるまで寝ていろ。」
普段と変わらぬはず低い声は、 まるで駄々っ子を宥めすかすように普段以上に静謐に響いた。
大きな掌は祇音の額から瞼、 鼻の頭あたりまでを一気に覆って、 祇音を横たえさせようとするように力が込められる。
「……都合の悪い話になったから寝かしつけようってわけ?」
「――そうじゃない。 また倒れられたら面倒だというだけだ。」
ゆっくりと身体を倒される。
大した力でもないにも関わらず、 皇の手によって作られた暗闇に祇音は何時も抗えなかった。
吸血鬼と人との相の子故の特性なのか、 或いは彼自身の持つ個性なのかは定かではなかったが、 皇に眠りを促されると、 まるで術にでもかかったかのように逆らえなくなってしまう。
そうと分かっていて、 敢えてこの手段を取ってくる皇を祇音は心底狡いと思う。
心はざわめいて落ち着かないのに、けれど他人の温度にずっと息を潜めていた睡魔が脳内を占拠しはじめる。
強制的にもたらされた安息に、 最終的に祇音は不本意ながらも意識を手放さずにはいられなかった。
***
其処に至るまでの道は、 まるで山自体が意志を持って隠しているかのように深く草木に閉ざされていて、 精々子供が分け入る程度の隙間しか残されてはいなかった。
祇音達が無意識に選ばなかった山道の右側。 それを真っ直ぐに進んでいくと、 やがて開けた空間に出る。
既に枯れ果てた水辺の跡。
辺りには葉を落とした裸の枝が横に伸び、 剥き出しになった茶色い地面が醸し出す侘びしさの中に、 一つだけやけに生命力に溢れている赤がある。
異彩を放つ椿の花。
幹に大した高さはないが、 まるで屋根のように横に広がった緑の合間に咲き誇る花は絵画のように美しく、 だからこそ不気味にも見える。
既に辺りは漆黒にまみれ、 差し込む月光によって作り出された椿の影は更に濃い暗闇で "それ" を覆っていた。
「何故、 何故ならぬという!」
激昂するように雄叫びをあげる "それ" に寄り添うように立っていたもう一つの影が言う。
「状況を把握してくださいヨ。 そんなに弱り切った貴方じゃ、 無駄死もいいところデス。」
影は独特のうすら高い声色に小馬鹿にするような色合いを混ぜて "それ" を宥めた。
「貴方の本懐はきちんと僕が遂げさせてあげますカラ、 今は僕の言うことに従ってくだサイ。 でないと貸せる力も貸せないじゃあないですカ。」
「っ……たかが式神風情が偉そうに――所詮人に飼われる分際で、 貴様に何が出来るという。」
"それ" はもがき苦しむような吐息の中で、 影を罵った。
無くなってしまった片腕と、 潰された片目。
抑えがたい怨讐を発する度にずきずきと痛んで、 "それ" を蝕んだ。
闇の眷属であるにも関わらず、 既に夜であるというだけでは癒やしきることも出来ない。
息を潜めるようにしてただ時を待つ。
そんな屈辱を強いている者達への復讐を切望したところで、 今の現状では到底成し得ないことなど "それ" も十分に理解しているのだ。
しかし "それ" は理性と秩序によって作り出された力ではない。
もっと即物的に、 より理不尽に。 強者のみに与えられた特権を振りかざし、 刃向かう者に一切の情け容赦は見せず。
そうして山に君臨し、 人に恐れられる存在こそが "それ" に相応しい。
しかし状況はままならず。 呻るだけしか出来ぬ "それ" を嘲るように影が言った。
「その式神風情に頼るしかない貴方の状況、 中々笑えますヨ。」
「いっそ貴様を喰ろうてやれば、 この傷も多少は癒えるかもしれぬな……!」
"それ" の爪先が影にかかる。
あと少し力を入れれば容易に首をはねてしまえるのに、 けれど影は一向に恐れる素振りを見せずに尚も減らず口を叩いた。
「ヒョヒョ、 出来るものならやってみてくだサイ――なんて、 冗談ですヨ。 僕を喰らったら、 先程言った作戦、 出来なくなっちゃいますヨ?」
影は唐突に現れて、 "それ" にある誘いを持ちかけた。
復讐のために、 力を貸してやると言う。
失った力を増幅させるだけのものを影は持っているのだとのたまった。
普段ならば一蹴してしまうような妄言。
されど現状その誘いに乗るしかない "それ" は掲げた爪先を余儀なく下ろしながら、 怨念を滲ませた這うような声で呻った。
「最後には、 必ず――必ず貴様を喰らうてやる。 我にそのような口をきいた無礼、 決して忘れまいぞ。」
「どうぞ、 ご随意ニ。」
影は相変わらずなんてことないという風に笑った。